出雲大社 縄文文化の影響(1)

 これまでに出雲大社は、怨霊を手厚く祀れば守護の神に転化して幸いをもたらすという「御霊信仰」が誕生した、日本で最初の聖地であることを検討してきました。

 なぜ日本には、世界に類を見ない御霊信仰が誕生したのでしょうか。

 その理由を探るために、出雲大社が創建された時代よりもさらに遡って、日本文化の黎明期である縄文時代の文化について検討してみたいと思います。

 

特異な存在である縄文人

 縄文時代に日本列島で生存していた人々、いわゆる縄文人は、現世人類のなかで非常に特異な存在であることが指摘されています。

 それがよく分かるのは、骨の形態の差異による比較です。比較に用いられるのが、頭蓋骨の「形態小変異」です。形態小変異は、体の機能にはまったく影響のない微細な変異で、眼窩上孔、前頭縫合、内側口蓋管・・・など、主なものだけで14部位に及びます。変異が現れる出現頻度は集団によって異なっており、集団間で変異の出現頻度が近い項目が多いほど、近い類縁関係にあると判断されます。
 この比較によると、縄文人は、日本列島の周辺の東アジアで類似する集団が見つからないといいます。そればかりか、サハラ砂漠以南のアフリカ人(ネグロイド)、北アフリカ・ヨーロッパ・南アジアの諸集団(コーカソイド)、中央アジア以東のアジア・極北・ポリネシアアメリカ大陸先住民の諸集団(モンゴロイド)のいわゆる3大人種からも離れた関係にあります(以上、『ここまでわかってきた日本人の起源』1)87-88頁)。
 さらに、対象集団をアフリカ、ヨーロッパ、東アジア・東南アジアに絞り、小変異10項目に基づいて類縁図を作ると、縄文人は、アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人のいずれからも独立した存在として位置づけられるといいます。

 特筆すべきは、類縁図において縄文人が、3大人種間のほぼ中央に位置することです。この現象は、縄文人がどの人種とも等しい類縁関係にあり、それは縄文人が現世人類の中でより古い集団に属することを示しています。

 

縄文人だけが生き残った

 アフリカ起源の新人が各地に拡散し、その地に適応した形態に変化したと考えると、縄文人はその形態の変化を起こす前の共通の特徴を備えているというわけです。つまり、約10~6万年前にアフリカを出て世界への拡散を果たした現世人類が、ヨーロッパ人やアジア人に分化する以前の初源的な形態を縄文人が維持していたと考えられるのです(以上、同上89頁)。

 そうだとすれば、東アジアで縄文人と似た集団が見つからない理由は次のように考えられます。

 初源的な形態を維持していたアジアの諸集団が、南方からのルートを通って日本列島に入って縄文人となりました。その後、シベリアで寒冷地適応した新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先は駆逐されてしまいました。しかし、日本列島にいた縄文人だけが駆逐されずに生き残ったのです。

 

日本列島に守られた縄文人
 日本の縄文人だけが生き残ったのはなぜでしょうか。それは、当時の日本列島の環境が彼らを守ってくれたからです。

 およそ1万5000年前から北半球では気温の上昇が始まり、それに伴って徐々に海面が上昇しました。日本海への親潮流入が1万3000年前から始まり、日本列島は大陸から切り離されました。8000年前には対馬暖流の流入も本格化し、海水温の上昇をもたらしました。1万4000年前からの8000年間で海面は100メートル上昇し、6000年前には海面が現在よりも2~3メートル高くなりました(10メートルという説もあります)。そのため、海が陸地の奥にまで入り込んで海岸線が後退しました。この現象は、「縄文海進」と呼ばれています。
 こうして縄文時代の早期からすでに、日本列島は大陸から孤立した環境となっていました。さらに温暖化によって縄文海進と呼ばれる現象が起き、大陸と日本列島の距離はいっそう遠くなりました。つまり縄文時代の日本列島は、四方を海に囲まれた天然の要塞になっていました。縄文人は、この要塞に守られて生き延びたのだと考えられます。

 

他の集団が移住できない環境で生き延びた
 アフリカを脱出し、インドからインドネシア、さらに琉球を経由して日本列島に到達した人々の集団、それが縄文人の祖先でした。彼らはユーラシア大陸では生き延びることができず、他の集団に駆逐されてしまいました。ただ、ユーラシア大陸の東端にあった日本列島にたどり着いた集団が、滅ぼされることを免れたのです。

 なお、日本列島以外にも、縄文人と共通の祖先が存在したことを窺わせる報告があります。たとえば、Y染色体の変異を共有するグループを比較検討すると、縄文人と同じ遺伝子の変異が高率に認められるのが、日本人とチベット人だったといいいます(同上104頁)。

 また、頭蓋(下顎を除く)の最大長や最大幅をはじめとする13個の計測項目を用いて比較した結果、東北地方から発掘された縄文時代の後・晩期の集団に最も近かったのは、日本近縁の地ではなく、何とオーストラリアのメルボルン近郊で見つかった化石人骨だったといいます(『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』2)143-144頁)。
 これらの事実は、縄文人と共通の祖先が日本列島だけでなく、山岳チベットの僻地や深い海峡に隔てられたオーストラリア大陸でも生き延びていた可能性を示唆しています。縄文人の祖先たちは、他の集団が移住できないような環境でしか生き延びることができなかったのかも知れません。

 

戦争の文化を持たなかった縄文人

 縄文人の文化は、同時代の他の文化と比しても決して劣ったものではないばかりか、土器の製造や航海などの技術では、世界最先端であったことが知られるようになりました。縄文文化の特異性と先進性は、近年には世界から注目を集めています。

 縄文文化を成熟させた縄文人の祖先たちが、世界の各地域で生き延びることができなかったのはどうしてしょうか。その原因を探るうえで見逃せないのは、縄文時代に戦争の痕跡が認められないことです。

 たとえば、縄文時代の遺跡からは攻撃用の武器や防具が見つかっていません。縄文時代も後期になると、剣や刀の形をした磨製石器が出現するようになりますが、石剣や石刀は先端が丸みを帯び、両側縁には刃が研がれていません。それらは武器として使用されたというよりも、それを振るう人の力や権威を呼び起こすための象徴であった可能性が高いと考えられています(以上、『列島創世記』3)150頁)。
 また、道具や利器で傷つけられた人骨が、縄文の遺跡からは10例ほど知られていますが、集団で戦闘を行った形跡を示す縄文時代の人骨は発掘されていません。さらに、戦いのリーダーを奉った墓や戦いを現した芸術作品など、戦争の存在を示唆するものが縄文時代には認められないのです。

 

戦いを忌避する文化

 縄文人にとってのものの考え方や世界観には、戦争はまったくなじまなかったのでしょう。それは縄文人の祖先たちが、戦いに対する有用な文化を持っていなかったからであると考えられます。そして、縄文人の祖先たちが戦いへの有用な文化を持たなかったことが、他の集団から追われ、ユーラシア大陸で駆逐されてしまった直接の原因となったのではないでしょうか。
 他の集団に駆逐されながら日本列島にたどり着いた縄文人の祖先たちは、四方を海に囲まれた天然の要塞に守られ、初めて安穏な生活を送ることができました。遙かなる旅の果てに、ようやく彼らは戦いの日常から逃れることができました。

 だからこそ彼らの末裔である縄文人は、定住生活をし、農耕を始めていたという経済上、生活上の前提があったとしても戦争を行わなかったのであり、さらには戦争の文化そのものを受け入れることをしなかったのです。

 

 縄文時代は、1万6500年前に世界最古の土器が造られるようになってから2400年前に始まった弥生時代まで、1万4000年(!)もの間続きました。次回のブログで述べるように、縄文時代の文化は、当時の世界最先端の文化でした。そうした文化を持つ縄文人たちが、1万4000年もの長期にわたって戦争をせずにこの日本列島で共存していたという事実は、まさに人類史における奇蹟であると言えるでしょう。

 日本文化の底流には、戦いを忌避し、平和を愛でる縄文文化の記憶が脈々と受け継がれているのです。(続く)

 

 

文献)

1)産経新聞 生命ビッグバン取材班:ここまでわかってきた日本人の起源.産経新聞出版,東京,2009.
2)溝口優司:アフリカで誕生した人類が日本人になるまで.ソフトバンク クリエイティブ,東京,2011.

3)松木武彦:全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記.小学館,東京,2007.