自己肯定感はどのように育まれるのか(3)

 前回までのブログでは、自己を構成する要素としての「身体」「文化」「言語」について検討してきました。

 その検討によれば、自己は本能に基盤を置くことがない、他者の欲望に左右される不安定な存在であり、しかもその基盤は、文化の根底をなす神話に根拠をおいているという不確かな存在であることが明らかになりました。

 では、その不確かな存在である自己を、どうしたら安定した存在に変えることができるのでしょうか。

 今回からのブログで検討したいと思います。

 

死にたいと訴える若者

 診療を行っていると、死にたいと訴える若者によく出会います。彼らにどうして死にたいのかを訪ねると、「何をやってもうまくいかない」「自分には価値がない」「自分はダメな存在だ」「親に迷惑をかけるだけだ」「生きている意味が分からない」などという返答が返ってきます。

 まるで、何かを成し遂げないと存在してはいけない、社会的な価値がない人間は存在していけないという思想を植え付けられているかのようです。

 なぜこのような事態になっているのか。それには二つの原因が考えられます。

 第一の原因は、他者から名づけられる際に与えられる、存在意味の脆弱性です。

 

ただ存在するだけで意味がある

 人が名づけられるとき、名前には家系に刻まれた歴史、そして子どもに対する家族の願望が込められていました。これらの意味が込められた名前が、「自己」の出発点になっています。このときに、家族や周囲の者たちが、このように育って欲しい、こんな人間になって欲しいという願望や欲望が名前には込められます。この願望や欲望は、子どもが育つ過程でも常に子どもに向けられるでしょう。この願望や欲望が子どもたちを縛り、願望や欲望に沿えない子どもたちの存在根拠を不確かにしているのです。

 親が子どもに自らの願望や欲望を向けるのは、自然の感情でしょう。それ自体がいけないことではありません。しかし、そこにはある前提が必要です。それは、「子どもはただ存在するだけで意味がある」という当たり前の価値観です。この当たり前の価値観があって初めて、その前提の上に親の願望や要望が意味をなすのです。

 そして、「子どもはただ存在するだけで意味がある」という当たり前の価値観が存在していないとすれば、それが次に述べる二つ目の原因から生じていると考えられます。

 

「子は宝」という文化

 「子どもはただ存在するだけで意味がある」という当たり前の価値観は、なぜ当たり前なのでしょう。それはこの価値観が、当たり前の価値観として皆に共有されているからです。皆に共有されているのは、皆が共有している共通の文化が存在するからです。

 日本には、「子は宝」という文化が存在していました。子どもを幼少時より慈しみ、大切に育てることが、日本の伝統的な文化でした。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』1)によれば、江戸時代の末期から明治時代初期に日本を訪れた多くの西洋人たちが残した記録には、当時の日本社会の子育てと子どもの様子が次のように記されています。

 

 「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」(『逝きし世の面影』390頁)
 「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供は朝から晩まで幸福であるらしい」(同390頁)

 

 西洋人たちの目から見た江戸・明治時代の子どもに対する扱いは、よほど親切で注意深いものに映ったのでしょう。「子供の天国」という表現が、それを端的に現しています。さらに同書には、「日本人の子供への愛はほとんど『子ども崇拝』の域に達しているように見えた」(同391頁)という表現さえみられます。

 

良いところを伸ばす子育て

 西洋では親が子どもを服従させ、親にとって好ましいような礼儀作法を教え込むのが教育であり、子どもはこれに反抗しながら自我を形成して行きます。これに対して(当時の)日本では、親は子どもを服従させることも、自分の意に添った教育を押しつけることもありませんでした。

 

 「彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、過ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです」(『逝きし世の面影』396頁)

 

 日本の子どもの教育は、ただただ温かさと平和で包み込みながら、性格の悪いところは抑え、あらゆる良いところを伸ばすことを目標にします。そこには、親の意向は介在せず、子どもの長所を伸ばすことを第一に考えた、子ども本位の教育が行われていたことが窺われます。

 西洋の教育と日本の教育の根本的な違いが、まさにこの点に現れているでしょう。西洋の教育では親が、または社会が必要とする成人像に向けて子どもを育て上げるのであり、これに対して日本の教育は、本人の性質を尊重し、その特長を伸ばすことに重点が置かれているのです。

 

世界で一番可愛い子ども
 以上のような子育てが行われるからでしょうか。日本を訪れた西洋の人々は、日本人の子どもに対して次のような印象を抱いています。

 

 「日本の子供ほど行儀が良くて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」(『逝きし世の面影』410頁)
 「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」(同410-411頁)
 「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。・・・彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」(同411頁)
 「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」(同411頁)
 「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」(同411頁)
 (日本の子どもは)「世界で一等可愛いい子ども」(同411頁)

 

 まるで手放しで、日本の子どもたちの愛らしさが褒め称えられているかのようです。もちろん、以上のような表現が、一部の西洋人の偏った意見だという反論もあるでしょう。しかし、少なくとも明治時代初期までは、日本には「子は宝」という価値観があり、それが来日した西洋人を驚かせていたという事実を忘れてはなりません。

 子どもの存在を最大限尊重する文化で育った子どもが、「自分には価値がない」「自分はダメな存在だ」「親に迷惑をかけるだけだ」「生きている意味が分からない」などと思うでしょうか。現代の若者にみられる自己否定感の問題は、「子は宝」という日本文化が失われつつあることの警鐘ではないでしょうか。

 日本の子どもたちが自己肯定感を育むために最初に必要なことは、決して難しいことではありません。何よりもまず日本に受け継がれてきた文化を見直し、日本の伝統的な子育ての文化を復活させることなのです。

 

 さて、次回からのブログでは、自己肯定感を育むために個人ができることについて検討したいと思います。

 

 

文献

1)渡辺京二:逝きし世の面影.平凡社,東京,2005.