自己肯定感はどのように育まれるのか(4)

 これまでのブログで、若者が自己肯定感を育めない背景には、日本の文化が失われつつあるという問題、そして文化に支えられていない家庭の問題について検討してきました。

 今回からのブログでは、自己肯定感を育むために、個人ができることについて考えてみたいと思います。

 

まず自分を知ること

 自己肯定感を育むために個人ができることは、まずは自分自身がどのような状態にあるかを正確に理解することです。

 自己肯定感が育っていなければいないほど、または自己否定感が強ければ強いほど、人は現実の自己を理解することが難しくなります。ダメだと思っている自分を正視することが、容易ではないからです。理想の自分、こうありたい自分が頭をもたげ、実際の自分の状態に目を向けることができなくなるのです。

 しかし、現実の自分の状態に目を向けず、理想の自己イメージだけを追っていても、自己肯定感は育まれません。なぜなら、現実を見なければ何ごとも上手くゆくことはなく、失敗ばかりが繰り返されるからです。失敗の繰り返しは自己否定感に繋がり、自己肯定感の成熟からはますます遠ざかってしまいます。

 上手く行っていない現実の自分に目を向けることは苦しいことであり、辛いことです。しかし、現実世界の中で良い結果を出すためには、避けて通れない出発点になると考えられるのです。

 

現実的に今できること

 自分の今の状態を正確に把握することができたら、現実的にできることが分かってくるでしょう。それは自分の理想とはほど遠い、低い目標になるかも知れません。そんな低い目標を目指すこと自体が、自尊心を傷つけることに繋がりかねません。

 しかし、どれほど自尊心が傷むことになろうとも、現実に目を向け、実際に自分ができることから始めなければ、自己肯定感を育むためのスタートに立つことはできません。そして現実を直視し、低い目標を設定するために必要なのが、そのことの重要性を理解し、見守ってくれる他者の存在です。指示するでもなく、誘導するのでもなく、ただただ見守ってくれる他者がいてこそ、人は不安な挑戦に臨むことができるのです。

 

失敗の中から小さな成功体験を見つける

 ところが、たとえ現実的な低い目標から始めたとしても、現実への挑戦は上手く行くとは限りません。実際には失敗することの方が多いでしょう。その失敗の中から、小さな成功体験を拾い上げて評価することが大切です。失敗の中から小さな成功体験を見つけて評価する作業は、当初は他者が行う必要があります。それは自己肯定感が低いうちは、失敗にしか目が向かないからです。

 他者によって小さな成功体験が発見され、その意義が示されれば、本人自身もその重要性に少しずつ気づくことができるでしょう。そして、小さな成功を何度も経験するうち、本物の成功を体験することができるようになるでしょう。こうした成功体験の積み重ねが、自己肯定感を育むことに繋がるのだと考えられます。

 

自己の存在根拠は他者にある

 自己肯定感を育むために、さらに重要なことがあります。それは自分以外の他者に、何らかの形で貢献することです。なぜ他者に貢献することが、自己肯定感を育むことに繋がるのでしょうか。

 先のブログで指摘したように、自己は親から名づけられることから始まります。自己は、社会的要請によって親から名付けられ、親の願望や欲望によって方向づけられることでその原型が形成されます。その後にも、親以外の他者との偶然とも言える関わりを重ね、彼らの願望や欲望にも影響を受けながら自己は形づくられます。

 もちろん、自己は他者によって一方的に規定されるわけではなく、自らの性質や欲望によっても形成されます。自己は、自らの欲望と他者の欲望がせめぎ合う中で、自らの性質が他者からの影響を受けることによって作り上げられています。

 それでも自己の出発点だけでなく、自己の形成過程においても他者は重要な役割を果たしているのですから、自己の存在根拠は他者に委ねられていると言えるでしょう。

 

他者との関係が自己を支える

 自己の存在根拠が他者にあるとしたら、自己を安定させるために必要なことは、他者との関係を確固としたものにすることです。他者との関係が揺るぎのない盤石なものであれば、盤石な他者との関係に支えられた自己は、必然的に安定したものになります。安定した自己は、安定した他者との関係の上に築かれるというわけです。

 ただし、他者との関係は、実はそれほど安定したものではありません。他者との関係は常に緊張をはらんだ流動的なもので、いつ破綻するか分からない不安定な側面を持っています。それは通常の対人関係に限らず、恋愛関係、夫婦関係、家族関係、親子関係にも及びます。これらの関係が現実には不安定で不確実なものであるからこそ、「愛」という概念が創られていると考えられます。特に親子関係と男女関係は自己を安定させるため不可欠であるために、親子間の愛と男女間の愛は特別なものであると捉えられ、崇高で普遍的であると強調されているのです。

 愛が崇高で普遍的だと強調されるのは、本当は不安的でいつ崩壊するかわからないものであることの裏返しです。恋愛関係も夫婦関係も家族関係も、そして親子関係や母子関係でさえ、実はいつ崩壊するのか分からない不安定な関係です。不安定だからこそ、崇高で普遍的で、しかも永遠に続くものであるとことさら強調する必要があるのでしょう。

 

絶対の愛を求める人たち

 西洋の文化では、愛は崇高で普遍的で、永遠に続く絶対的なものであると認識されています。この愛の概念は、神の絶対で無限の愛(アガペー)を説くキリスト教から生まれています。西洋近代化の洗礼を受けた日本でも、愛の普遍性や絶対性が同じように説かれています。

 自己肯定感が低く対人関係が不安定な人ほど、自己を安定させるために、絶対の愛を求めます。自己が不安定であればあるほど、自己を安定させるために普遍的で絶対的なものにすがろうとします。その普遍的で絶対的なものこそ、母性愛や男女間の愛なのです。

 しかし、神から与えられる愛はともかく、人間同士の愛は、普遍的でも絶対的でも永遠に続くものでもありません。男女間の愛が容易に壊れることは、皆さんが身を以て体験されているでしょう。たとえそうだとしても、親子間の愛は違うのではないかと言われるかも知れません。残念ながら、親子間の愛でも、わたしたちが絶対の愛であると信じている母性愛でさえときには崩壊することは、親からの子どもの虐待が近年増加している事実からも明らかです。

 

絶対の愛にすがる危うさ

 自己が不安定になると、多くの人が、自己の根拠をこの絶対の愛に求めようとします。絶対で普遍的な愛を与えられることで、自己の大切さを再確認し、自己肯定感を高めようとするのです。

 ところが、生身の人間に絶対の愛を求めても、その試みのほとんどは挫折します。それはそうでしょう。なぜなら、神のような絶対の愛をもつ人間など、この世に存在しないからです。この現実を理解できず、自己否定感が強くなって自分の存在根拠が希薄になっている人ほど、他者からの絶対の愛を求めます。そして、他者からの愛が絶対であることを確かめようとして、相手に無理難題を突きつけます。どれほど難しい要求をされてもそれに超然と応えられるなら、それこそが真実の愛だと実感できるからです。

 無理難題を突きつけられた他者は、当初はそれに応えようと懸命に努力します。その努力に、一応の満足感は得られます。しかし、この満足感が続くことはほんの一瞬にすぎません。なにせ求めているものが絶対の愛ですから、これは本当に絶対で普遍的な愛であるのかという疑念がつきまといます。そこで、この疑念を振り払おうとして、再度相手に無理難題をふっかけます。それに応えようとする他者は、再び愛を捧げる努力をします。それでも絶対の愛を求める人たちは、与えられる愛が本物であるのかという疑念を抱き、何度も何度も愛を求め続けるのです。

 絶対の愛を求め続けられる人は、次第に疲弊し、愛を求められることにうんざりし始めます。そして、愛を求められることに応えられなくなり、ついにはこうした対人関係を拒絶するようになります。絶対の愛を求めていた当人は、相手からの拒絶を見捨てられたと感じて絶望し、対人関係に不信感を抱くようになってゆきます。

 

対人関係は相互で創り上げるもの

 では、確固とした他者との関係を築くためには、どうしたらいいのでしょうか。ここでまず重要なことは、対人関係の愛は一方的に与えられるものではないことを認識することです。

 対人関係が安定し、確固としたものになるためには、お互いが不断の努力をすることが必要になります。言われてみれば、当たり前のことではありませんか。対人関係は二人で作り上げる関係ですから、両者が関係を良くしようと努力しなければ、関係は良くなるどころか悪くなってしまうこともあるでしょう。そうならないためには、関係が良くなるようにお互いが努力を重ねるしかありません。この努力を怠って、相手に一方的に愛を求めても、対人関係が破綻するのは明らかです。

 対人関係は、友人関係、恋愛関係、夫婦関係になるにつれ、関係性が深まって行きます。関係性が深まる分、どうしても相手に確固とした愛情を求めたくなります。しかし、関係が深まるほどお互いの思いはぶつかりやすくなりますから、現実的には関係は破綻しやすくなります。そのため友人関係、恋愛関係、夫婦関係と関係が深まるにつれ、関係を維持するためのお互いの努力がより一層必要になります。

 対人関係を維持し、対人関係を深めるために相手のために自分ができることをする。つまり、他者のために貢献することが、対人関係をより確固としたものにし、対人関係が確固としたものになるほど、自己はより安定した状態になることができるのだと言えるでしょう。

 

親子関係でも相互の努力は不可欠

 親子関係ではどうでしょうか。

 わたしちは親に絶対の愛を求めます。その象徴的な愛が母性愛です。

 母性愛は、母親から子どもに向けて一方的に与えられるのだと思われています。しかし、母性愛でさえ、親から子どもに一方的に与えられるものではありません。母親は、子どもから与えられる表情や仕草、そして日々成長する姿をみることによって母性愛を育みます。すなわち母性愛とは、人間にあらかじめ備わっている本能ではなく、子どもとの関係の中で育まれる愛情なのです。そして、その愛情が育まれるためには、父親を始めとした家族の協力が不可欠なのは言うまでもないでしょう。

 このように、親子の間の愛でさえ、当たり前のように親から子どもに与えたれるものではありません。子どもが親に与える愛情が、親を支えている側面が存在しているのです。

 親子という肉親だからといって、当たり前に愛情があるわけではありません。本能に従って生きている動物と違って、人間は文化に生きる指針を与えられています。親子間の愛情でさえ、文化の掟に影響を受けています。そこには文化によって絡め取られたお互いの欲望が存在しますから、親子の関係は対立し、破綻する危険性を常に孕んでいます。親子の関係は対人関係の中で最も密接であるため、その分破綻する危険性は高くなります。

 だからこそ親子関係においても、関係を維持し、関係を深めるために、お互いの努力が不可欠になるのです。(続く)