人はなぜ死にたくなるのか 死の欲動(3)

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 前回のブログでは、反抗期に生じる問題について検討しました。

 人間は、文化で決められた規範を与えられて、社会の中で生きるルールを身につけてゆきます。しかし、その規範は人間が本来持っている性質ではないため、規範を与える際には強制力が伴います。規範を強要された子どもは、強要する他者(親やその代替者)に対して、反発や攻撃性を向けます。これがまとまって出現する時期が、いわゆる反抗期でした。

 ところが、反発や攻撃性を向けられることを親が畏れ、反抗を出させないように抑え込むと、攻撃性は子ども自身に向かうようになります。規範に従えなかったり、社会でうまくいかないことが起これば、子どもはすべて自分自身が悪いと捉えるようになるのです。

 今回からのブログでは、自分へと向かう攻撃性が、やがて死の欲動になってゆく過程を検討したいと思います。

 

素直な良い子という自己イメージ

 反抗期に子どもが親に反発できないケースとして、反発するなら世話しないぞ、さらには見捨ててしまうぞと匂わす場合があります。この場合は、子どもが反発したくても、親に見捨てられることを畏れて反発することができません。親に見捨てられるのではないかという気持ちを、精神分析では見捨てられ不安と呼びます。見捨てられ不安を持つ子どもは、反抗期になっても反抗が起こりません。それは見捨てられるのが不安で反抗できないからですが、親からは「育てやすい子どもだった」とか、「反抗期がなかった」などと表現されることがあります。

 一方、反抗期が起こらない子ども自身は、「素直な良い子」という自己イメージを抱いています。親は「反抗期のない育てやすい子」というイメージを、子どもは「素直な良い子」というイメージを共有し、波風の立たない、全く問題がないかのような親子を演じていることになります。しかし、それは偽りの平穏に過ぎません。

 

自己否定感の誕生

 反抗期のみられない子どもたちには、当初は自分がダメな存在だという意識はありません。この自分がダメな存在であるという意識、つまり自己否定感は、彼らが「素直な良い子」を演じられているうちは表面には現われません。

 そもそも彼らが幼少時から「素直な良い子」として振る舞ってきたのは、そうしないと周囲から受け入れてもらえないと彼らが感じているからです。「手のかかる育てにくい子」や「自己主張や反抗ばかりする子」では見捨てられてしまうのではないかという不安感が、彼らを「素直な良い子」として振る舞わせているのです。

 そうだとすれば、彼らは生来「素直な良い子」だったわけではなく、「素直な良い子という自己イメージ」に縛られて生きてきたのだと考えられます。

 思春期を迎えると、成人としての行動を求められるようになる一方で、彼らには思春期特有のさまざまな欲動が頭をもたげ始めます。このような状況で彼らは、今まで通りの「素直な良い子」として、つまり親の期待通りに振る舞う理想の子どもとして生きることが難しくなります。このとき現実の対人関係の中で、自身の中に「悪い自分」や「ダメな自分」を少しでも発見すると、彼らは「素直な良い子」という自己イメージ通りに生きて行けないことに気づき、自分はダメな人間だという自己否定感に囚われ始めるのです。

 

理想的な他者を求める

  その一方で、反抗期のみられない子どもたちは、他者に対して信頼感を抱くことができません。それは彼らが、反発するなら世話しないぞ、さらには見捨ててしまうぞと匂わされて育ったからです。さらに言えば、このような親の態度は、乳幼児期に「一切の理由なく、無条件に存在を認めてくれる」という体験をすることができていないことに遡ります。これは以前に述べた、エリクソンのいう基本的信頼感が獲得されていないことを意味します。

 基本的信頼感が獲得されていない彼らは、恒常的な対人不信感に悩まされています。そこで彼らは、現実の対人関係を見ようとせず、自分を守るために「理想的な他者のイメージ」に執着するようになります。彼らは、対人不信感を募らせているにも拘わらず、いや対人不信感を募らせているからこそ、「理想的な母親」、「理想的な家族」、「理想的な友人」、「理想的な恋人」を求めます。

 しかし、彼らが求める「理想的な他者イメージ」を現実に満たしてくれる生身の人間は存在しません。そのため彼らは、見果てぬ「理想的な他者イメージ」を追い求め、慢性的な欲求不満を抱えながら、他者から離れずまとわりつくような状態へと陥ってゆきます。

 

自己否定感の増大
 「理想的な他者イメージ」を投影された他者は、いつでも彼らの要求通りに振る舞ってくれるわけではありません。現実の対人関係の中には、彼らのイメージに反する出来事が満ち溢れています。そのような現実に直面したとき、彼らには他者を非難するか、自分を責めるかしかなくなります。

 しかし、どちらの方法を採っても彼らの不安が解消されることはありません。なぜなら、これらの防衛策はいずれも、自己を支えるために彼らが執着してきたイメージを否定することに繋がるからです。すなわち、他者の非難は「理想的な他者イメージ」を、自分を責めることは「素直な良い子という自己イメージ」を否定するからです。そして、「素直な良いこという自己イメージ」の否定は、自己否定感の増大へと繋がってゆきます。

 

逸脱行為が現れる
 その結果、彼らは自己を支えるための拠りどころを失って、虚無感に満ちた状態に陥ります。この状態で現れるのが、虚無感から逃避するための過食・嘔吐、アルコール多飲、薬物乱用、性的乱脈、反社会的行為などの逸脱行為です。

 しかし、こうした行為は、果てしなく続く虚無感を一瞬麻痺させてくれるだけの効果しかありません。我に返ったとき、彼らには再び虚無感が押し寄せてきます。それどころか、逸脱行為を繰り返せば繰り返すほど、後に残った虚無感は大きくなります。

 そこで彼らは、今度はこの虚無感から救い出してくれる他者を求めるようになります。このときに求められる他者イメージは、当初抱いていたよりもいっそう「理想的な他者イメージ」とならざるを得ません。このとき彼らは、逸脱行為を繰り返すことによって「素直な良い子という自己イメージ」を完全に失い、自己否定感を募らせているからです。しかし、彼らが求めるような理想的な対応をしてくれる他者は、現実には存在しません。

 

自傷自殺で苦しさを訴える

 そこで彼らが苦しさを訴える最終的な手段が、自傷行為や自殺企図です。

 苦しさを表現する手段としては、これらの手段は他の逸脱行為よりもさらに強いメッセージを含んでいるでしょう。そのため、苦しいというメッセージ自体は、確かに周囲の者には伝わります。

 しかし、メッセージを受け取る側は、自傷行為や自殺企図という事実が重すぎて、多くの場合冷静ではいられなくなります。どのように対処していいか分からず、かといって行動の裏にある感情に目を向ける余裕はありません。自傷行為や自殺企図に目が奪われ、二度と繰り返さないように説得や叱責、または懇願が繰り返されることになります。このように彼らのメッセージは、他者には正確には伝わらないのです。

 

対人不信感の負のスパイラル

 ここに至って、自傷行為や自殺企図が繰り返されるための、負のスパイラルが形成されます。対人不信感を強めた彼らは、自分や他者を攻撃するような陰性感情を言葉で伝えることがさらに困難になります。そこで、再び自傷行為や自殺企図によって周囲に助けを求めます。周囲の者は、繰り返される自傷行為や自殺企図に辟易として、さらなる強い説得や叱責を行います。そのことによって彼らは他者に絶望して孤立します。そして、いっそう対人不信感を強めるのです。

 このスパイラルが繰り返されるにつれ、彼らの対人不信感はどんどん増幅されてゆくことになります。

 それをシェーマ化すると、次のようになります。

 

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                                                                  図1

 

 図1のように、自傷行為や自殺企図で苦しみを表現するたびに、その苦しみは他者からは理解されず、彼らはいっそう対人不信感を強めます。そのことが再び自傷行為や自殺企図を生み、さらに他者からの説得や叱責を受けることに繋がるのです。

 この負のスパイラルが繰り返されるたびに、彼らの対人不信感は深まってゆきます。深い対人不信感が、自己否定感の増強にも影響を与えるのですが、その検討については次回のブログで検討することにしましょう。(続く)