わたしたちはなぜ、マスクを外すことができないのか(3)

 前回のブログで、わたしたちが、屋外でもマスクを外すことができない理由を検討しました。

 欧米諸国とは異なり、日本ではマスクの着用は、法律によって義務づけられているわけではありません。罰則もないのに、人びとが自らの意志で、マスクを着用しなければならないという暗黙のルールに従っているのです。

 この暗黙のルールは、周囲からの「同調圧力」と、個人が感じる「マスクは顔のパンツ」という感覚から成り立っていました。

 今回のブログでは、この二つの要因について検討したいと思います。

 

同調圧力の源泉は

 マスクを付けなければならないという同調圧力は、なぜ生まれるのでしょうか。

 この同調圧力には、次のような特徴があります。

 まず、日本中の至る所で人びとがマスクを付けていることから、同調圧力は日本中の至るところでその効力を発揮していることが分かります。ある地方では発揮されるが、別の地方では発揮されない、ということはありません。また、年齢・性別や職業、そして学歴・教養などによって発揮される程度が異なることもありません。

 次に、大抵のルールには一定の反抗者が出るものですが、皆がマスクを付けていることからすると、この同調圧力には、反抗の余地を与えないほどの強い力があるようです。

 それにも拘わらず、岸田首相がヨーロッパに外遊した途端にマスクを外していたように、この同調圧力の効力は、日本国内に限定されています。逆に、バイデン大統領が日本ではマスクをしていたことから、国内においては外国人にすら効力を及ぼすことがあります。

 このように同調圧力が日本人の全てを対象にし、抗いがたい効力を発揮するにもかかわらず、その対象が日本国内に限定されているとしたら、その源泉は日本文化そのものにあるのではないかと考えられます。

 

和の文化

 日本文化は和の文化であると言われます。聖徳太子が十七条憲法で、「和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふる(逆らう)こと無きを宗(むね)と為(せ)よ」と定めて以来、日本文化の根源には和の精神が息づいてきました。

 日本人はこの精神に基づき、何よりもまず和を尊ぶ行動を採ります。和の文化に属する個人は、和を乱すことのないように、なるべく他人と同じような行動を取ることが求められます。他人の動向を気にし、さらに共同体全体の動向を意識して、そこから外れないように行動することが必要とされるのです。

 その際に、共同体から個人に対して向けられる力が、同調圧力です。

 

和を保つための同調圧力

 同調圧力とは、集団において少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考えて行動するよう、 暗黙のうちに強制することを言います。

 なぜ、皆と同じように考えて行動するように強制するのか。それは、共同体全体が同じ方向を向くためです。同じ方向を向くことが、共同体の和を保つことに繋がります。和が保たれることで、共同体には争いや対立がなくなり、平穏が訪れます。平穏は、共同体全体に安全や安心感をもたらしてくれます。争いや対立をできる限りなくし、共同体の中で安全で安心感を持って生活することが、和の文化の究極の目的なのです。

 同調圧力は、この究極の目的を達成するために、集団から個人に働きかけられる力であると言えるでしょう。

 

和を保つためなら

 このように、日本では和を保つことが何よりも優先されます。少数者の意見は封じ込められ、出る杭は打たれ、個人の個性は圧殺されますが、それでもわたしたち日本人は、できるかぎり対立や争いをなくし、平穏で安全で、気の置けない安らげる共同体を構築することに重きを置いてきました。

 マスクを付けることが日本という共同体で必要なルールになったなら、このルールは何を置いても優先されなければならなくなります。たとえマスクを付けることが科学的に効果がないと分かったとしても、問題の本質はそこにはありません。マスクによって新型コロナ感染症が防げるかどうかよりも、同じようにマスクを付けていることによって得られる安心感を、皆が共有することの方が優先されます。

 こうしてマスクを付けることは、新型コロナ感染症で起こる不安感を軽減するための、「安全・安心のシンボル」としての役割を担うようになったのです。

 

恥の文化

 同調圧力は、和の文化を保つために共同体から個人に向けられる力でした。では、和の文化に属する人びとは、個人としての規範は持っていないのでしょうか。

 日本社会では、西洋のような絶対的な概念やイデオロギーの追求は行われませんでした。絶対的な概念やイデオロギー間の対立は、人々の対立を助長させて、悲愴な争いや戦いを引き起こしかねないからです。また、絶対的な概念やイデオロギーを主張し合えば、戦いは相手を完膚無きまでに叩き潰すまで終わらなくなるでしょう。
 そうならないために、日本社会の規範は概念やイデオロギーに根拠を負うことなく、村や町などの生活共同体において暗黙裏に決定されました。そこには明文化されたルールはなく、「世間」(や「ご先祖様」-今ではあまり言われなくなりましたが)に対して恥ずかしくないように振る舞うという行動規範となって存在しました。

 この行動規範は、明文化されていないからといって、決して強制力のないものではありません。恥ずべき行為は生活共同体の中で極めて厳密に決定されており、行動規範から外れることは、恥をかいて汚名を負うことになります。さらに恥ずべき行為が続けられた場合は、「村八分」になって共同体から追放されることも起こり得るのです。

 

恥の行動原理

 この「恥」を基本とした規範は、人と人との関係をもとにして生まれています。恥をかくということは面目を失うことですが、この面目とは、世間に対する名誉のことです。つまり、恥をかくとは世間に対して名誉を失うことであり、生活共同体の中で体裁を失い、人から非難の眼差しを受けることに繋がります。
 日本社会の規範は、根源的には神や法に根拠を置いていません。日本にはいわゆる宗教的な規範は存在していないか、あってもその影響力は僅かです。それに代わる規範の根拠は、「世間」や「ご先祖様」といった無名の人に、またはその無名の人の集合体である生活共同体の「眼」に存在しています。

 人びとは、世間体や他人の眼を極端に気にしながら生活してきました。その世間体や他人の眼の根底に流れる規範とは、争いを避け、生活共同体の中で和を保つことでした。その結果として、自己をことさら主張せず、謙虚さや奥ゆかしさを尊ぶ「恥の文化」が育まれると共に、他者を畏れ、礼節をわきまえる対人関係が熟成されてきたのです。

 

マスクをしないと恥ずかしい

 マスクについても、恥の文化は影響を与えています。人びとはコロナ渦のなかで、世間体や他人の眼を極端に気にしながら生活してきました。こうしたご時世において、マスクは新型コロナ感染症から自分の体を守るだけでなく、他者に感染させないための必須アイテムとして認識されるようになりました。

 そうであれば、マスクを付けることは、新型コロナ感染症を他者に感染させないための配慮であり、他者に対する最大限の気遣いになります。マスクを付けていないことは、他者に対する配慮を欠いた、人間として恥ずかしい行為と認識されるようになりました。こうしてマスクをしていないことに、恥ずかしいと感じる気持ちが生じるようになったのです。

 

マスクは顔のパンツ

 マスクを付けないことが恥ずかしいという感覚に、恥ずかしいものを隠すというイメージ、さらに汚れたものが外に出ないように覆うというイメージが加わって、「マスクは顔のパンツ」という表現が生まれたのでしょう。

 この表現は、マスクを付けずに外出することは恥ずかしいこと、という気持ちをいっそう強く抱かせる効果をもたらしました。そのため、日本政府が屋外でのマスクは不要であると広報しても、人びとはマスクを外すことができなくなりました。

 マスクをせずに外出することは、パンツをはかずに外出することと同じなのですから。(続く)