人はなぜ死にたくなるのか 死の欲動(2)

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 前回のブログでは、人を自傷や自殺へと誘う死の欲動を、文化への敵意という観点から検討しました。

 人間は、文化を持つことによって、自然の脅威から守られて生活して行くことが可能になりました。その一方で、文化からの規制によって、広範な領域における欲動の断念を強いられます。そして文化が欲動の断念を前提として成立している以上、いかなる文化もそこに属する人間から敵意を受けることになります。

 この文化への敵意は、攻撃欲動を生み出します。攻撃欲動は、文化の規範を伝える人物へと向けられます。その最初の人物が、両親であり、攻撃欲動がまとまって発現するのが、反抗期です。

 今回のブログでは、この反抗期に生じる問題について検討したいと思います。

 

トイレットトレーニングは最初の規範

 人間にとって最初に与えられる規範が、トイレで排泄する仕方を覚えることです。このトイレットトレーニングが規範になるのには、次のような理由があります。それは、人間が文化を持ったことの象徴であるからです。

 人類の祖先は、主に樹上で生活していました。樹上の生活では、排泄は自由に行えます。好きな時に好きな場所で排泄を行っても、糞や尿は枝の下に落ちるだけで、衛生上何の問題も生じません。そのため、樹上で生活していたころの人類の祖先は、排泄の仕方を身に付ける必要がありませんでした。トイレットトレーニングは、人類が樹下に降りて自分たちで生活する空間を創り、その空間の中で自然の摂理に従わずに生きるようになったことを象徴的に現しているのです。

 ちなみに、犬や猫は自らのテリトリーを持ち、その中に好きな排泄場所を作ったり、縄張りを主張するために利用したりします。犬や猫にトイレットトレーニングを行う際には、この性質を利用するといいます。これに対して、人間にはそうした性質がないため、文化によって一から規範を教え込まなければなりません。

 

自然からの離反

 本来備わっていないものを身に付けさせるためには、強制力が必要です。トイレットトレーニングは、自然には身につかないものを強制的に教え込む躾(しつけ)です。躾の強制力によって、人の感覚や行動は自然の状態から歪められます。たとえば、わたしたちは排泄物を汚いと感じますが、それは強制的に認識を変えられたからです。

 精神分析では、便は乳幼児にとって、母親への最初のプレゼントであると考えられています。プレゼントというくらいですから、便は好ましいものであり、大切な生産物と認識されています。事実赤ちゃんは便を嫌がりませんし、認知症統合失調症が進行した場合でも、弄便(ろうべん)といって大便をもてあそぶ行為がみられます。つまり、文化に参入する以前や、文化から逸脱してしまった人たちにとっては、便は忌避するものではありません。

 トイレットトレーニングの結果、便は好ましいものではなくなり、汚いもの、避けるべきものになります。しかし、本来は好ましいと感じているものを強制的に嫌だと感じさせるのですから、好ましい気持ちを無理やり抑圧しようとして極端な反応が生じます。その結果、便は極端に汚いもの、決して触れてはならないものとなるのです。

 こうした心理機制は、精神分析では反動形成と呼ばれています。反動形成は、その後の防衛機制としても出現します。たとえば、汚物愛好の人が潔癖症になったり、性に興味のある人が性的なものをことさら蔑視したり、好きな気持ちを意識しないためにわざわざ愛しい人に嫌悪感を向けたりすることなどです。

 

強制に対する反発

 話しがやや逸れましたが、躾の話題に戻りましょう。

 わたしたちはトイレットトレーニングのように、本来は備わっていない性質を他者によって強制される訳ですから、その強制に対しては、嫌なことをなぜ無理やりしなければならないのかという反発が生じます。

 この反発は、トイレットトレーニングにとどまりません。子どもは成長するに伴って、家庭の中で、そして社会の中で生きてゆくためのさまざまな規範を教え込まれます。規範はトイレットトレーニングのように、人間には本来は備わっていないものです。そのため規範を強要されるのは子どもにとって嫌なことであり、規範を実行するのはつらいことです。

 この強要が積み重なると、子どもには強要する他者(それは多くは親ですが)に対する反発心、さらには他者に対する攻撃性が生じます。これらの反発心や攻撃性がまとまって生じるのが、いわゆる反抗期です。

 

反抗期の反発はまっとうな反応

  反抗期に生じる反発や攻撃性は、規範を強要されることに対する反応です。その規範は本来は人間に備わっていないものですから、反発や攻撃性が生じるのは至極まっとうな反応であると言えます。つまり、反抗期は起こるべくして起こるのであり、人が規範を受け入れて成長して行くためには、必要不可欠なものであると言えるでしょう。

 こうして反抗期に起こる反発やその際に生じる攻撃性は、規範を与える他者(それは親やその代替者ですが)に向けられます。向けられた者は、反発や攻撃性をまっとうな反応として受け止めなければなりません。そして、規範自体は変えることなく、それでいて反発を無理に抑え込まずに、反発が消え去るまで見守ることが必要になります。

 このような対応をすることによって、子どもは与えられた規範を受け止め、規範の内容を取捨選択し、自分に合った規範を自らの手で作り上げることが可能になります。

 

反発を許さない場合は

 しかし、親やその代替者が、子どもの反発を許さない場合には、子どもにどのような反応が起こるでしょうか。

 反発を許さないと言っても、腕力によって強引に抑え込むとは限りません。反発するなら世話しないぞ、さらには見捨ててしまうぞと匂わす方法もあります。この場合は、子どもが反発したくても、親に見捨てられることを畏れて反発することができません。親に見捨てられるのではないかという気持ちを、精神分析では見捨てられ不安と呼びます。見捨てられ不安を持つ子どもは、反抗期になっても反抗が起こりません。それは見捨てられるのが不安で反抗できないからですが、親からは「育てやすい子どもだった」とか、「反抗期がなかった」などと表現されることがあります。

 ところで、反抗期に本来の反発が起きなかったり、攻撃性が表出されない場合には、子どもには以下のような反応が生じると考えられます。

 

規範をそのまま生きる

 一つ目は、親やその代替者から与えられる規範をそのまま受け入れ、規範通りに生きてゆくことです。この方法では、親とも周囲の者とも軋轢が生じることがなく、社会にも適応して生きてゆけるようにみえます。

 しかし、この生き方には決定的に欠けているものがあります。与えられた規範にただ従うだけでは、自分の意志を表出する機会が失われてしまいます。さらに自分の意見がないまま、他者から与えられた規範に沿って生きることになります。人生の主役が自分ではなく他者になり、自分の人生から自分が失われてしまう事態が起こります。

 こうなると彼らは社会には適応しているものの、自分の人生を生きている感覚が乏しくなります。さらには、生きている実感が失われてしまうことすら起こるのです。

 

攻撃性を社会に向ける

 次の反応は、親やその代替者に向けられない反発や攻撃性を、社会に直接向けることです。子どもに押し付けられる規範は、元を辿れば社会に存在する規範ですから、社会の規範に反発し、社会に直接攻撃性を向けることは、方向性としては間違っていません。

 ただし、社会の規範に反発すれば、穏やかに生活を送ることが難しくなります。規範に反発し続ければ反社会的な行動に繋がるか、さもなければ社会の規範自体を変革するための行動を起こすことになります。いずれにしても、彼らは社会に反発し続けなけれが、精神の安定をはかることができなくなります。

 こう考えると、犯罪者と革命家は後世の人々の評価は180度異なりますが、その動機を辿れば同じなのだと言えるでしょう。

 

攻撃性を自分自身に向ける

 最後の反応は、本来は親やその代替者に向けられるべき反発や攻撃性を、自分自身に向けるというものです。なぜ、他者に向けられるべき攻撃性が自分自身に向くのか。そこには、親による教育があります。

  その教育とは、規範を強要することに対する反発や攻撃性が親に向かないように、親は絶対に正しいと教えることです。そして、親が示す絶対に正しい規範に従えないとすれば、悪いのは親や規範ではなく、子ども自身であると教え込むことです。

 こうした教育が浸透すると、規範に従えなかったり、社会でうまくいかないことが起これば、子どもはすべて自分自身が悪いと捉えるようになります。その結果、子どもは自分自身に攻撃性を向け、自分がダメな存在であると認識するようになります。

 自分に攻撃性が向き続けると自分を傷つけたくなりますし、自分がダメな存在であると思い続けると、自分を消してしまいたい衝動に駆られます。この衝動が「死の欲動」と呼ばれるものになってゆくと考えられますが、その詳細は次回のブログで検討することにしましょう。(続く)