人はなぜ死にたくなるのか 死の欲動(1)

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 前回のブログでは、フロイトが提唱した「死の本能」は存在しないのではないかという点について検討しました。では、人が自らを傷つけたり自殺を行ったりするのはどうしてでしょうか。その原因は、人には死へと向けられた欲動が存在するからではないかと考えられます。

 今回のブログでは、この「死の欲動」について検討したいと思います。

 

死の欲動はなぜ生じるのか

 死の欲動は、生物一般に認められるものではなく、人に特異的に存在するものです。その起源は、人の攻撃欲動にあります。攻撃欲動が自分の外部ではなく、自分自身に向けられると自傷行為や自殺企図が起こります。自分で自分を傷つけたり、自分で自分を殺そうとするのは、自分自身に攻撃性が向かうからに他なりません。

 では、人の攻撃欲動の源泉はどこにあるのでしょうか。

 フロイトは『文化への不満』1)の中で、以下のように指摘しています。

 

 「文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この『文化のための断念』は人間の社会関係の広大な領域を支配している」(『文化への不満』458頁)

 

 このようにフロイトは、強大な欲動を断念させることが文化の前提だと指摘します。

 ところで、本当に文化は、強大な欲動を社会関係の広大な領域において断念させているのでしょうか。 

 

欲望を開放する社会

 フロイトの指摘は、共産主義全体主義の社会にはよく当てはまるように思われます。中国や北朝鮮のような一党独裁国家では、人民は自由を奪われ、抑圧された環境下で、多くの欲望を断念させられた生活を送っていると言えるでしょう。

 その一方で、人々の欲動を刺激し、それを経済活動の拡大に繋げようとする資本主義という制度が存在するではないかという反論もあるでしょう。確かに資本主義の社会では、欲動を断念させるどころか、欲動から派生する様々な欲望を刺激して、あらゆる購買意欲を高めるために不断の努力が払われています(この姿勢が、さまざまな依存症を生む源泉にもなっています)。

 さらに、多くの資本主義社会では自由主義体制が採られ、社会の抑圧や束縛からの解放が目指されています。このように資本主義・自由主義社会では、欲動は断念されるべきものではなく、解放されるべきものであると考えられています。

 

資本主義社会の現実
 しかし、資本主義は、実際には欲動や欲望を自由に解放できる社会制度だとは言い切れません。たとえば、資本主義社会で欲動や欲望を満足させるためには、貨幣(やそれに替わる手段)が必要になります。そして、この貨幣を得るためには、過剰な労働を行わなければなりません。ここでいう過剰な労働とは、人が生きるために必要とされる労力をはるかに超えた労働のことです。現在の日本では、月に100時間を超える残業やブラック企業の問題が取りざたされています。過剰な労働にに追い詰められてうつ病になったり、自殺を遂げる人の存在が社会問題になっているほどです。

 そして、過剰な労働を行うためには、様々な欲動を断念しなければなりません。結果として資本主義社会では、欲動を満たす傍らで、別の欲動を断念する仕組みになっているのです。満たされる欲動よりも断念する欲動の方が広範にわたっていることは、資本主義社会に生きるわたしたちの実感するところではないでしょうか。
 さらに付け加えれば、資本主義社会で貧富の格差が拡大すると、欲望を刺激され続けながらも、貧しさのために欲望を満たせない人々が増大します。また一方で、貧富の格差は、自由主義社会に新たな抑圧や束縛を生み出しています。これらの出来事は将来、さらなる「強大な欲動の断念」を必要とする事態を招く可能性を秘めています。

 

文化への敵意

 さて、話題をフロイトに戻しましょう。
 フロイトは、文化から押しつけられる「広大な領域における欲動の断念」が、文化への敵意を生んでいると指摘します。

 

 「これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因である」(『文化への不満』458頁)

 

 文化からの規制、それは広範な領域における欲動の断念であり、この欲動の断念によって社会が成立します。一方で人間は、文化によって自然の脅威から守られながら生活して行くことが可能になります。このように人間と文化は切っても切れない関係にあるのですが、文化が欲動の断念を前提として成立している以上、いかなる文化もそこに属する人間から敵意を受けることになります。

 この「文化に対する敵意」こそが、実は人間の攻撃欲動の起源になっているのではないでしょうか。つまり、わたしたちは文化に頼って生きる一方で、欲動を断念させ続ける文化に敵意を抱き、文化を憎み続けています。この憎しみこそが、人間の攻撃欲動の源泉になっていると考えられるのです。

 

攻撃欲動と反抗期

 文化への敵意が攻撃欲動を生み出しているなら、この攻撃欲動は文化へと向かうはずです。実際に攻撃欲動は、文化の担い手である人物へと向けられます。その最初の人物が、両親です。

 両親は、子どもが社会で生きてゆくことができるよう、社会の規範を教える存在です。その規範とは、個人の欲動を断念させ、社会のルールを守らせることです。つまり子どもに対して、最初に欲動を断念させるのが両親の役割だといえます。

 そのため、欲動を断念させられた子どもには、両親に対する攻撃欲動が生じます。この攻撃欲動がまとまって発現するのが、反抗期です。

 反抗期は2から4歳頃にに生じる第一次反抗期と、14から16歳頃に起こる第二次反抗期に分けられますが、一次では自我が芽生え、二次では社会の中で現実的な自我が形作られる時期と捉えられています。しかし、自我が芽生え、さらに成熟して行くためには、攻撃欲動の発現が必要不可欠になります。

 

規範の強要に対する攻撃

 強要された規範に従うだけでは、本人の自我は形成されません。それは、親の自我をコピーしただけの自我にすぎないからです。

 したがって、自分本来の自我を形作るために、強要された規範に対する反抗が起こります。この反抗こそ、自分という存在の独自性を証明するための主張です。これが自己主張の起源になります。この際に親に規範を強要された子どもには、親に対する攻撃が生じます。この攻撃は、自己の欲動を断念させられ、そのことによって自己を侵食される体験をしたことに対する正当な反応です。

 このように反抗期では、両親に対して攻撃性が向けられますが、その攻撃性には正当性があります。それは規範を強要され、欲動を断念させられることに対する、人間としての当たり前の反応だからです。そして、この攻撃性を伴った自己主張が行われることによって、自分の欲望を裏切ることのない自我が形成されてゆくのです。

 この当たり前の反応が起きないと、後にさまざまな問題が起こります。死の欲動が生まれるのもこの問題と関係していると考えられるのですが、それは次回のブログで検討したいと思います。(続く)

 

 

文献

1)フロイト,S.(浜川祥枝 訳):文化への不満.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.