人はなぜ死にたくなるのか 死の本能(2)

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 前回のブログでは、人はなぜ死にたくなるのかという問題を検討するにあたって、フロイトの「死の本能」という概念を取り上げました。

 この概念は、精神分析の後継者たちにとって、容易には受け入れがたいものでした。メラニー・クラインのように、フロイトの死の本能をそのまま受け入れて自身の理論を構築した分析家も存在しましたが、多くの分析家は死の本能論に批判的な立場をとりました。

 精神分析を学ぶわたしたちにとっても、死の本能は理解することがむつかしい概念です。なぜなら、懸命に生きようとする生物に、死へと向かう本能が内在しているとはどうしても思えないからです。

 そこで死の本能は、「死の欲動」と読み直されました。これは生物の本能ではなく、人間に特有の欲動であると理解されたのです。

 

 死の本能への疑問

 フロイトの言うように、生物の死が内的な原因から、つまり生物の本能によって引き起こされると考えることには大きな疑問が生じます。それは、本能によって死がもたらされるなら、いったい何のために本能は生物に死をもたらすのかという疑問です。

 すべての生物は、個体の生存と種の存続に全霊を傾けています。内的な原因で生物に死がもたらされるとすれば、種の存続にとってこれほど不利なことはありません。もし死の本能が存在する生物と存在しない生物が存在するなら、死の本能が存在する生物はあっという間に駆逐されてしまうでしょう。そのような危険な本能を生物がわざわざ持つとは、どのように考えてもあり得ないことです。

 したがって、生物の死の原因を生物の内的な要因にだけ求めるのは、不充分であるように思われます。そこには生物の外部からの要因、それは外敵などの他の生物だけでなく、外界の環境全般から受ける影響を考慮にいれる必要があります。その外界の環境要因が、物理学でいう「エントロピーの法則」です。

 

死の本能とエントロピーの法則
 エントロピーの法則は、「すべての科学にとって第一の法則である」と言われるように、現代物理学が絶対的な真理と認める唯一の法則です。その内容は、「物質とエネルギーは一つの方向のみに、すなわち使用可能なものから使用不能なものへ、あるいは利用可能なものから利用不可能なものへ、あるいはまた、秩序化されたものから無秩序化されたものへと変化する」と定義され、要するに宇宙のすべては体系と価値から始まり、絶えず混沌と荒廃に向かうことを現しています。宇宙に存在するものはすべて、(宇宙が膨張している限り?)この法則からの影響を免れることはできません。
 地球上のすべての生物も当然エントロピーの法則に従っているのであり、すべての生物はこの法則に則って生から死へと向かわざるを得ないのです。避けることのできないこの現実を、生物に内在している法則として捉えたものが、フロイトのいう死の本能ではないでしょうか。そして、エントロピーの法則に逆らおうとする儚い抵抗が、生の本能であると考えられるのです。
 しかし、人間という存在を理解するために、この宇宙の大原則を当てはめるのは適切ではありません。なぜなら、人間の場合は、生の本能だけでなく死の本能までが文化によって歪められてしまっているからです。さらに、エントロピーの法則に反逆し、この法則を無効にしようとしてあらゆる無謀な試みを行っている存在こそが、人間だと言えるからです。

 

なぜ人間だけが自殺するのか

 フロイトは、死の本能がすべての生物にあるものと仮定していますが、もしそうなら、生物には自死に類する行為が出現するでしょうか。
 動物には、一見すると自殺のように認識される行為が認められます。例えば、北極近郊に生息するレミング(和名タビネズミ)は、集団自殺をする動物として知られていました。しかし、これはレミングが集団移住をする際に、一部の個体が海に落ちて死ぬ現象が誤解され、誤った伝承として広まったことのようです。そもそもこうした動物の自死現象が、単なる事故なのか、あるいは他の個体を守るためなのか、それとも自殺なのかを厳密に区別することはできません。ただ、動物の場合でも、明確な意志と目的を持って自らの命を断つ行為は、確認されていないのではないでしょうか。

 フロイトの想定する死の本能とは、生物の老化と死に向かう性向を現わしたものです。わたしは、生物全般にみられるこの性向と、人間が戦争を起こしたり自殺をしたりする行為を結びつけるのには無理があると思います。
 自傷行為や自殺企図は、きわめて人間に特有な行為です。この行為の起源を探るためには、やはり人間に固有に見られる現象に注目するべきでしょう。

 

文化への不満

 人間固有の現象を検討するためには、人間が他の生物と異なっている側面に注目する必要があります。異なる側面の最たるものが、文化を生み出し、文化を発展させ、文化によって繫栄してきたことです。肉体的に劣る人類が、現在の地球上で繁栄を謳歌しているのは、文化を持ったからに他なりません。

 しかし、文化を持つようになったことは、良いことばかりでありません。文化を持ったことが、人にとってマイナスになる場合があります。

 1930年に発表した『文化への不満』1)の中で、フロイトは以下のような指摘を行っています。

 

 「『文化』とは、われわれの生活と動物だったわれわれの祖先の生活とを隔てており、かつ自然にたいして人間を守ることおよび人間相互のあいだの関係を規制することという二つの目的に奉仕している」(『文化への不満』フロイト著作集3巻 452頁)

 

 文化によってわれわれは、動物とは隔てられた生活を送るようになりました。その目的は、自然から人間を守り、人間相互間の関係を規制することにありました。つまり、動物は自然の掟に従って生きるために自然から規制を受けていますが、人間は文化に従って生きるために、文化から規制を受けるようになったのです。
 そしてフロイトは、規制の内容を次のように説明します。

 

 「文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この『文化のための断念』は人間の社会関係の広大な領域を支配している」(『文化への不満』458頁)

 

 このようにフロイトは、強大な欲動を断念させることが文化の前提だと指摘します。

 

文化への敵意

 さらにフロイトは、文化から押しつけられる「広大な領域における欲動の断念」が、文化への敵意を生んでいると指摘します。

 

 「これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因である」(『文化への不満』458頁)

 

 文化からの規制、それは広範な領域における欲動の断念であり、この欲動の断念によって社会が成立します。一方で人間は、文化によって自然の脅威から守られながら生活して行くことが可能になります。このように人間と文化は切っても切れない関係にあるのですが、文化が欲動の断念を前提として成立している以上、いかなる文化もそこに属する人間から敵意を受けることになるのです。
 フロイトはこの後に続けて、文化に対する敵意の深層を探るべく人間の攻撃性の問題を取りあげ、人間の攻撃欲動の源泉こそ死の本能にあると指摘しています。

 しかし、わたしは人間の攻撃欲動の源泉を、死の本能に求める必然性はないと思います。フロイトが指摘する「文化に対する敵意」こそが、実は人間の攻撃欲動の起源になっていると考えられるからです。

 

文化と攻撃欲動

 さて、ここまでの議論を簡単にまとめてみます。もしフロイトの言うように、欲動の断念が文化の前提であるとするならば、文化によってしか生きられないわたしたちは、常に文化から欲動の断念を強要されることになります。そして、欲動の断念の強要が、文化への敵意を生む原因であるとフロイトは指摘します。

 つまり、わたしたちは文化に頼って生きる一方で、欲動を断念させ続ける文化に敵意を抱き、文化を憎み続けているのです。この憎しみこそが、人間の攻撃欲動の源泉になっていると考えられます。

 この攻撃欲動が、人に向かえばいじめや暴力や殺人を生み、他の集団に向かえば戦争に繋がり、社会に向かえば革命を起こします。それだけでなく、わたしはこの攻撃欲動が、人が自らを傷つけたり、自殺を遂げる要因にもなると考えています。攻撃欲動が自分の外部にではなく自分自身に向かうと、自らを傷つけたり自らを死に追いやることに繋がるからです。

 そうであれば、攻撃欲動が自分自身に向けられたものが、「死の欲動」と呼ばれるものの実態ではないでしょうか。

 次回のブログでは、この点について検討したいと思います。(続く)

 

 

文献

1)フロイト,S.(浜川祥枝 訳):文化への不満.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.