人はなぜ死にたくなるのか 死の本能(1)

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 今年に入って、有名な芸能人が相次いで自殺したことが報道され、多くの人に衝撃を与えました。また、新型コロナウィルス感染症による自粛生活や経済活動の停滞からか、日本全体でも自殺者が増加しています。警察庁の仮統計によれば、今年に自ら命を絶った人の数は10月までで1万7000人以上になり、10月に限っても自殺者数は2153人にも昇っているといいます。この数字は、昨年の10月より600人も増えています。

 なぜ人は、自殺という行為を行うのでしょうか。そして、そもそも人はなぜ死にたいと思うのでしょうか。

 今回以降のブログでは、この問題について考えてみたいと思います。

 

死の本能

 自殺の問題を、精神分析ではどう捉えているのでしょうか。

 精神分析創始者であるフロイトは、死の本能という概念を提唱しました。フロイトがこの概念を提唱したのは、自殺の問題を考えるためではありません。それは、第一次世界大戦について考えるためでした。

 第一次大戦は、戦争という概念を一変させました。それまでの戦争は、軍隊同士が直接まみえる戦いであり、戦力の優劣を明確にするための局所的な戦いでした。しかし、第一次大戦は、軍隊だけでなく多くの民間人をも巻き込む大規模な戦闘になり、戦力だけでなく経済力も含むすべての国力をつぎ込んで、相手国を殲滅させようとする総力戦に発展しました。その結果、何百万人もの人間が殺し合い、国家が破滅的状況に陥って行くという、人類史上初めての世界規模の戦争になりました。

 フロイトは、この第一次大戦に大きな衝撃を受けます。そして、第一次大戦の破壊的な攻撃性が何に起因するのかを解明しようとして、死の本能という概念にたどり着いたのです。

 

人が苦痛な体験を繰り返すのはなぜか

 フロイトは、1920年に発表した『快感原則の彼岸』1)の中で、初めて「死の本能Todestrieb」(「死の欲動」と訳されることもあります)という概念を提唱しています。

 フロイトが『快感原則の彼岸』の中で最初に着目しているのは、生命の危険と結びついた災害や戦闘の後に発症する外傷神経症や戦争神経症において、患者が夢の中で、災害や戦闘の場面に繰り返し引き戻される現象でした(これらは今でいうPTSD心的外傷後ストレス障害と呼ばれる現象です)。夢の性質としては、健康な時の映像や熱望する快癒時の映像を映して見せる方が本来は相応しいはずなのに、彼らは夢の中でなぜ病気を引き起こした体験にわざわざ固着するのでしょうか。
 フロイトは、この不可思議な現象を、自身が観察した小児の遊戯においても取りあげています。一歳六ヶ月になるこの行儀の良い男児は、母親が何時間も傍らにいなくても決して泣いたりしませんでしたが、その代わりに糸巻きを使って一種の遊戯をするようになりました。この子は木製の糸巻きを放り投げ、寝台の陰にその姿が見えなくなると「いない」という叫び声を上げ、それからひもを引っぱって糸巻きを手繰りよせてその姿が見えると「いた」と叫ぶのでした。
 この行為をフロイトは、母親の消滅と再現を現す完全な遊戯だと考えました。そして、フロイトが特に注目したのは、この子どもにおいては糸巻きを放り投げる行為だけが、つまり母親の消滅を現す行為だけが繰り返されたことでした。母親の不在という苦痛な体験を、子供が遊戯として繰り返すのはなぜなのか。ここには快感原則に支配されることのない、何か独立したものが存在しているのではないかとフロイトは考えました。
 ちなみにこの男児は、フロイトの孫だと言われています。フロイトは自分の孫が一人遊びをする姿を見ながら、死の本能論を考えていたことになります。フロイトにとっては、こんな些細な日常の場面さえ、自身の分析理論を追究する手立てになっていたのですね。

 

マゾヒズムの源泉

  フロイトはさらに、同様の現象を、神経症者の反復強迫(たとえば何度も手を洗ったり、鍵やガス栓を何度も確認すること)や、同一の体験を繰り返す一般の人々の生活にも見出します。彼らは過去の苦痛な体験を、症状として、対人関係において、そして日々の生活の中で、わざわざ繰り返し反復します。
 これらの現象は、受動的にもたらされた苦痛な体験を、能動的に繰り返すことによって自らが支配し、不安をコントロールしようとする試みであると捉えることもできるでしょう。
 しかし、それだけではないとフロイトは考えました。苦痛な体験を繰り返し再現するのは、苦痛な体験へと導く特性がすべての有機体には備わっているからではないか。そして、マゾヒズムとはサディズムの衝動が自分自身に反転したものではなく、マゾヒズムこそが一次的なものではないか。さらに、こうした特性を根底で支配するものが存在するのではないのか。

 この根源的な存在を、フロイトは死の本能だと考えました。

 

死の本能とは何か
 フロイトは、本能について次のように考察します。

 本能とは、「生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするもの」です。ところで、生物にとって以前の状態とは、無生物の状態に他なりません。そう考えれば、「あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還る」のであり、「あらゆる生命の目標は死である」と考えられます。
 そう捉えると、生物に認められる自己保存の本能は、「もとをただせば死に仕える衛兵」に過ぎません。生命である有機体は、「それぞれの流儀にしたがって死ぬことを望む」のであって、どのように生きるかは、個々の生物が死までの過程を固有に選択した一つの表現に過ぎないとフロイトは言います。

 このようにフロイトは、生命の究極の目的は死であり、生物には生物を死へと導くための本能が備わっていると考えて、生物の本能の中核に死の本能を据えたのです。

 

あらゆる生命の目標は死である

 ところで、フロイトが死の本論論で展開している「あらゆる生命の目標は死である」という前提は、本当に正しいと言えるのでしょうか。

 自死を考えている人にとって、「あらゆる生命の目標は死である」というフロイトの認識は、あるいは魅力的に映るかもしれません。臨床の現場で毎日のように「死にたい」「消えてしまいたい」という言葉を聞き、自傷行為、自殺企図の診療を行い、さらには自殺を遂げてしまう人たちを診ていると、「あらゆる生命の目標は死である」のではないかと考えたくなります。

 フロイトの前提は、科学的にはどう捉えらえるのでしょうか。

 近年の遺伝子科学の発達によって、細胞の老化現象に重要な役割を担う「テロメア」が発見されました。テロメアは真核生物の染色体の末端部分にある構造で、その短縮が細胞老化の十分条件であると考えられています。逆に、その活性化により生物の寿命が延びるとされるサーチュイン遺伝子が発見されました。これらの発見は今後、生物の老化や死が内的な原因から引き起こされるというフロイトの説を支持することに繋がる可能性があります。

  

生の本能の存在は

 一方で、生物は当然のことながら、生きることに全霊を傾けています。これは生きるための本能であり、生の本能と呼べるものです。フロイトも生の本能についても言及しています。

 フロイトの本能論は、それまでも二種類の本能の対立として捉えられてきました。最初は「性本能」と「自我(自己保存)本能」の対立として、次に「対象リビドー」と「自己愛」の対立としてです。そして、最後にフロイトは、それまでの理論を「生の本能」と「死の本能」の対立として捉え直し、本能論を完成させました。
 フロイトは、人間(だけでなく生命一般)には生の本能と死の本能が並存していると考えました。そして、人間の場合には、正常な精神生活では両者が融合して建設的な形で発揮されていますが、両者の融合、中和に障害が起こった場合には、精神疾患をはじめとする様々な障害をもたらすという理論に達したのです。

 

 ちなみに、フロイトは、死の本能が内部に向かわずに外部の対象に投影されたものが破壊欲動であると考えました。つまり、人間を戦争へと駆り立てる破壊欲動の起源は、死の本能に立脚しているのだと主張しています。

 

 しかし、死の本能が生物すべてに存在するなら、なぜ人間だけが自殺という行為を行うのでしょうか。

 次回のブログでは、フロイトの死の本能論について、わたしの見解を述べたいと思います。(続く)

 

 

文献 

1)フロイト,S.(小此木啓吾、井村恒郎他 訳):快感原則の彼岸.フロイト著作集6,人文書院,京都,1969.