人はなぜ死にたくなるのか 死の欲動(4)

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 前回のブログでは、反抗期なのに反抗できない子どもたちの、対人不信感について検討しました。

 反抗期のみられない子どもたちが、反発するなら世話しないぞ、さらには見捨ててしまうぞと匂わされて育った経験を遡ると、乳幼児期に「一切の理由なく、無条件に存在を認めてくれる」という体験をしていないことが窺われます。これは、エリクソンのいう基本的信頼感が獲得されていないことを意味します。

 基本的信頼感が獲得されていない子どもたちは、反抗できないだけでなく、不安感や陰性感情を表現することができません。その代わりに、逸脱行動で苦しさを表現します。それが理解されないと、さらに自傷行為や自殺企図で不安や苦しさを表現するようになります。しかし、逸脱行為や自傷、自殺行為によっても苦しさが理解されないと、彼らは他者に絶望し、いっそう対人不信感を強めます。

 今回のブログでは、対人不信感を深めた彼らが、さらに死の欲動を強めてゆく過程を検討したいと思います。

 

自己否定感の誕生

 反抗期が起こらない子どもは、当初は「素直な良い子」という自己イメージを抱いています。親は「反抗期のない育てやすい子」というイメージを、子どもは「素直な良い子」というイメージを共有し、波風の立たない、全く問題がない親子を演じています。自分がダメな存在であるという意識、つまり自己否定感は、彼らが「素直な良い子」を演じられているうちは表面化しません。

 そもそも彼らが、幼少時から「素直な良い子」として振る舞ってきたのは、そうしないと周囲から受け入れてもらえないと感じたからです。「手のかかる育てにくい子」や「自己主張や反抗ばかりする子」では見捨てられてしまうのではないかという不安感が、彼らを「素直な良い子」として振る舞わせてきました。つまり彼らは、生来「素直な良い子」だったわけではなく、「素直な良い子という自己イメージ」に縛られて生きてきたのだと言えるでしょう。

 思春期を迎えると、成人としての行動を求められるようになる一方で、彼らには思春期特有のさまざまな欲動が頭をもたげ始めます。このような状況で彼らは、今まで通りの「素直な良い子」として、つまり親の期待通りに振る舞う理想の子どもとして生きることが難しくなります。このとき現実の対人関係の中で、自身の中に「悪い自分」や「ダメな自分」を少しでも発見すると、彼らは「素直な良い子」という自己イメージ通りに生きて行けないことに気づき、自分はダメな人間だという自己否定感に囚われ始めます。

 

自傷行為や自殺企図が現れる
 「素直な良い子」という心の拠りどころを失った彼らは、虚無感に満ちた状態に陥ります。この状態で現れるのが、虚無感から逃避するためのスマホやゲームへの過度の依存、過食・嘔吐、アルコール多飲、薬物乱用、性的乱脈、反社会的行為などの逸脱行為です。

 しかし、こうした行為は、果てしなく続く虚無感を一瞬麻痺させてくれるだけの効果しかありません。我に返ったとき、彼らには再び虚無感が押し寄せてきます。それに加え、逸脱行為を繰り返せば繰り返すほど、こうした行為を行ってしまう自分を責め、自分を罰したくなります。

 そこで現れる自分を罰するための手段が、自傷行為や自殺企図です。苦しさを表現する手段としては、これらの手段は他の逸脱行為よりもさらに強いメッセージを含んでます。

 

自己否定感の増強

 そのため、メッセージを受け取る側は、自傷行為や自殺企図という事実が重すぎて、多くの場合冷静ではいられなくなります。どのように対処していいか分からず、かといって行動の裏にある感情に目を向ける余裕はありません。自傷行為や自殺企図に目が奪われ、二度と繰り返さないように説得や懇願、または叱責が繰り返されることになります。

 こうした他者の対応によって、彼らは自らがさらにダメな存在であると認識するようになります。そのことが、彼らの自己否定感をいっそう増強させることに繋がってゆくのです。

 この過程をシェーマ化すると、次のようになるでしょう。

 

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                   図1

 

  「素直な良い子」という自己イメージを抱いてきた彼らは、そのイメージと真逆である逸脱行為を行う自分自身に驚嘆し、絶望します。さらに周囲の者からの叱責を受けると、彼らはさらに自分がダメな存在であると認識します。そのことが自分自身を否定する感覚、つまり自己否定感を増強させます。そして、自己否定感の増強が、さらなる逸脱行為や、自傷行為、自殺企図に繋がってゆきます。

 図1で示したような自己否定感の負のスパイラルと、前回のブログで検討した対人不信感の負のスパイラルは、自傷行為や自殺企図が繰り返されるための“車の両輪”です。二つの負のスパイラルが繰り返されるたびに、患者の対人不信感と自己否定感はますます増強されます。そして、増強された対人不信感と自己否定感が、さらなる自傷行為や自殺企図を生むことになるのです。

 

攻撃欲動の行方 

 さて、自己否定感と対人不信感が、自傷行為や自殺企図が繰り返されるための車の両輪だとすれば、自傷行為や自殺企図を推し進めるためのエンジンは自分自身に向けられた攻撃欲動です。

 では攻撃欲動は、なぜ自分自身に向けられるのでしょうか。それは、親の教育に理由があります。子どもに対して、親が示す絶対に正しい規範に従えないとすれば、悪いのは親や規範ではなく、子ども自身であると教え込みます。

 こうした教育が浸透すると、規範に従えないことが起こると、子どもはすべて自分自身が悪いと捉えるようになります。その結果、子どもは自分自身に攻撃性を向け、自分がダメな存在であると認識するようになります。

 すると、生活でうまくいかないことが起こるたびに、攻撃欲動は自分自身に向かいます。自分に攻撃性が向き続けると自分を傷つけたくなりますし、自分がダメな存在であると思い続けると、自分を消してしまいたい衝動に駆られます。この衝動が「死の欲動」になってゆくのです。

 

自傷行為は親への復讐

  死の欲動の原動力を考えるとき、もう一つ裏の推進力があります。それは、「復讐を遂げたい」という衝動です。

 この衝動は、表面には現れていないため分かりにくいのですが、確かに存在しています。なぜかと言えば、復讐する相手に確実に届いているからです。

 たとえば、自分を傷つける行為は、表面的には自分自身を攻撃し、罰する行為です。本人はダメな自分を罰したいとか、痛みを感じたり出血することで生きている実感を感じたいがために自傷行為を行っていると意識しているでしょう。しかし、自傷行為によって傷つくのは自分自身だけではありません。それを見た親は、わが子が傷つくさまを見て、自分が傷つけられたような感覚に襲われます。そして、少なからぬショックを受けて動揺し、自分の育て方に問題があったのではないかと自分を責めるようになります。

 これこそ、自傷行為の隠された目的です。子どもは自傷行為を通して、自分の存在を無条件で認めてくれなかった親に、規範を強要するだけで反発を許してくれなった親に、そして自分の苦しさをいっこうに理解してくれない親に対して、復讐をしているのだと考えられます。

 ただし、それは子どもが意識して行っているのではなく、無意識のうちに行っている陰の衝動であると言えるでしょう。なぜなら彼らは、「復讐など考えたこともない素直な良い子」という自己イメージに縛られているからです。

 

自殺は究極の復讐

 自殺企図は、復讐の要素がさらに高まる行為です。自分を傷つけるだけでなく、自殺を試みようとする行為は、より大きな衝撃を他者に与えます。親は自分の子育てを否定されたように感じ、自分自身を責めるようになるでしょう。

 自殺が既遂してしまった場合には、親は計り知れない衝撃を受けることになります。場合によっては、親がうつ状態に陥ることもあります。

 衝撃を受けるのは、親や家族だけではありません。彼らに関わり、彼らに何らかの影響を与えていた人たちは、少なからぬ衝撃を受け、心を揺さぶられます。わたしたち精神科医も例外ではありません。患者さんの自殺は、わたしたちが最もつらいことの一つです。

 このように考えると、自殺は自分を苦しめた人たち、または苦しみを理解してくれなかったり、助けてくれなかった人たちに対する究極の復讐であると言えるでしょう。自殺によって、彼らの復讐は確かに達成されます。しかしそれは、自らの命を懸けた、そして未来に何も残すことのない復讐劇なのです。(了)