人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(5)

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 前回のブログでは、18世紀のヨーロッパでは、母性文化が消退して母親が子育てに無関心になり、多くの子どもが里子に出されていたことを指摘しました。そして育児放棄が公然と行われ、乳幼児の死亡率が非常に高かったことも取り上げました。

 そこで18世紀後半から、ヨーロッパでは新たな母性文化の構築を試みられるようになりました。今回のブログでは、この新たな母性文化について検討したいと思います。

 

 性神話の誕生 

 18世紀末になると、母性に対する意識革命が起きることになったとエリザベート・バダンテールは指摘します。

 

 「1760年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするよう勧め、子どもに乳をあたえるよう『命ずる』書物が、数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作り出し、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもにたいして本能的な愛を抱くという神話である」(「母性という神話」1)180頁)

 

 このような価値観の転換が始まった社会的要因をバダンテールは、国家にとって人口は重要だという認識から生まれた国力重視の思想や、平等と個人の幸福という観念を広めた啓蒙主義哲学の影響に求めています。
 さらに、一般的には、次のような要因が加わったと考えられています。18世紀後半から19世紀にヨーロッパ諸国に興った産業革命によって、労働力を提供するための近代的な家族形態が必要とされるようになりました。それは、労働に専念できる父親と、次代の労働力としての子どもたちを確実に育て上げる母親が、それぞれの役割を分担する家族形態でした。近代的な家族の中で母親は、夫の世話をするだけでなく、自らを犠牲にしながら子育てに専心する役割を与えられたのです。

 

性神話の宗教・文化的背景

 この現象は、宗教・文化的に検討すれば次のように言えるでしょう。

 18世紀末には、科学者の大半がその思想・研究において「神を仮定する」ことを必要としなくなりました。神を仮定することが必要なくなったのは、啓蒙主義思想が台頭し、神の概念が科学者たちの中から消失し始めたからです。つまり、18世紀末という時代は、長年にわたって社会を根底から支えてきた神が表舞台から退場を始めるという、時代の大きな分岐点に当たります。この時代の分岐点において、神に支えられてきた人々の生き方、社会制度や経済活動、そして家族の在り方に至るすべてのものを、新しく作り替える必要性が生じました。
 哲学者や科学者から始められた神の消失という事件が、社会一般に広まるにはその後約一世紀の時間を要しました。ヨーロッパ社会は、絶対王政から市民社会、そして列強諸国が世界に進出する時代に移りました。この時代の移り変わりの中でも、父性が強調される風潮は存在し続けました。社会から神を退場させるために決定的な役割を果たしたダーウィンの進化論(と、これを利用したソーシャル・ダーウィニズム)は、闘争による適者生存という男性原理に基づいていました。フロイトエディプス・コンプレックス理論にも、根底に父親と息子の関係を中心にした家父長的原理が存在しています。
 このような思想を背景に、神の有していた全能性、絶対性は、特定の人間に移譲されました。社会には、神に擬された男性が権力を一手に握って君臨しました。そして、家庭では、家父長主義に象徴されるように、父親が家族の成員を支配しました。「母性神話」は、このような父性中心主義の思想が跋扈し始めた18世紀後半のヨーロッパにおいて、父性に対応し、父性を補うものとして創られたのです。

 

社会に根付かなかった母親像

 ところが、母性神話から生まれた新しい母親像は、簡単には社会に定着しませんでした。バダンテールは、多くの女性たちが当初、新しい母親像を受け入れることを拒んだと述べています。
 都会の子どもを里子に出すという習慣は、依然として庶民の間では盛んに行われていました。18世紀後半に増加した子捨ての傾向は、19世紀前半にはさらに増加しました。19世紀の中頃、私的な職業斡旋所を介して里子に出されるパリの赤ん坊はむしろ増加していました。20世紀初頭、1907年には8万人の子どもがまだ田舎に送られていました。それは、大都市の赤ん坊の30%から40%に相当しました。(以上、「母性という神話」277頁)。
 また、エドワード・ショーターも、「1920年代になっても、乳幼児への母親の態度の革命的な転換は、ヨーロッパの多くの地域ではいまだに成し遂げられていなかった」(「近代家族の形成」2)199頁)と指摘しています。

 

男性から押し付けられた

 このように、新しい母親像がなかなか女性に受け入れられなかったのには、次の二つの理由が考えられます。
 一つ目は、バダンテールが指摘するように、母性神話が女性によって望まれたものではなく、男性の哲学者やモラリスト、医師たちによって考え出され、半ば強制的に女性に押しつけられたものだからです。

 バダンテールは、母性神話が形成されるために特に重要な影響を与えた人物として、ルソーとフロイトを挙げています。ルソーは『エミール』において、理想の女性像を男性の補完的な存在として描き、またフロイト精神分析は、子どもの精神的異常の原因として、親や治療者の目を幼少時の母親との関係に向けさせたとバダンテールは言います。彼らの理論によって、理想の母親像が形成され、母親の責任が増大することになりました。

 こうしてできあがった母性神話は、女性が自立した人間存在であることを認めず、母親の役割だけに押し込めるものであるとバダンテールは批判しています。ちなみに、この主張こそ、バダンテールが『母性という神話』で訴えたかった主旨です。

 

母性の文化的基盤の欠如

 もう一つの理由は、当時の社会に、重要性を増した母性を支える文化的基盤が存在していなかったことにありました。

 キリスト教による母性を称える文化が近代において否定されてから、それに代わる文化的基盤がヨーロッパ社会からは消失しかかっていました。バダンテールが挙げたルソーとフロイトの思想は、母性神話を生んだ要因の一つとしては考えられますが、母性神話を根底から支える概念ではありません。
 ルソーは自然を尊び、人間を堕落させる文明社会を批判し、不平等な文明社会の根本的変革を目指す未来社会を構想しました。『エミール』は堕落した文明人を救済するために書かれた教育論であり、ルソーはこの中で、自然の優位性に基づいて新しい人間の形成を説いています。また、フロイトは、近代ヨーロッパの文化的起源を父と子の葛藤で構成される「エディプス神話」に求めたのであり、母と子の問題は付随的に述べられているに過ぎません。つまり、ルソーとフロイトの思想の主眼は、母性には向けられていなかったのです。

 当時の社会には、聖母マリア信仰の後に続く母性神話を支える概念が乏しい状態にありました。そのため、モラリストや医師たちがどのように母性の重要性を説いてみせたとしても、彼らの主張は文化的基盤を持たないために説得力を欠き、女性の中にはなかなか浸透しなかったのです。

 では、近代西洋文化の母性文化は、どのように創られていったのでしょうか。引き続き、次のブログで検討したいと思います。(続く)

 

 

 文献

1)E.バダンテール(鈴木 晶訳):母性という神話.ちくま学芸文庫,東京,19882.
2)E.ショーター(田中俊宏,岩橋誠一,見崎恵子,作道 潤 訳):近代家族の形成.昭和堂,京都,1987.