出雲大社 御霊信仰とは(3)

 これまでのブログで、以下のことを検討してきました。

 

・葦原の中つ国(出雲国)の国譲りは、古事記にあるように平和的に譲られたのではなく、戦いによって国が奪い取られ、国の王であったオオクニヌシは殺されたか自決した。

・怨みを残して死んだオオクニヌシが怨霊になることを恐れたアマテラスは、高天原にも届くような、ひときわ高くそびえ立つ大殿(おおどの)を造ってオオクニヌシを手厚く祀った。

・その結果オオクニヌシは、大国主の神(オオクニヌシノカミ)となり、国作りの神、縁結びの神として後世の人々の信仰を集めるようになった。

出雲大社は、怨霊を手厚く祀れば守護の神に転化して却って幸いをもたらすという「御霊信仰」が誕生した、日本で最初の聖地となった。

 

 今回のブログでは、世界に類を見ない、この御霊信仰が生まれた背景を探ってゆきたいと思います。

 

世界に類を見ない思想

 御霊信仰は、おそらく世界に類を見ない、日本だけに存在する思想または哲学でしょう。なにしろ、怨みを残して死んだ敵の怨霊が、自分たちを守ってくれる守護の神に転化するというのですから。

 世界の常識では、敵の怨霊はあくまで敵です。どのように丁重に祀ろうが味方になることはありません。ましてや怨みを残して死んだ怨霊であれば、祟ってくることはあっても自分たちを守ってくれるようになるとは露程も思わないでしょう。

 旧約聖書にみられるように、敵からの復讐を受けないよう、敵の兵士は言うまでもなく、男も女も、若者も老人も剣で打ち殺し、息ある者は一人も残さず殺害するのです。殺害した兵士の子や孫から復讐を受ける可能性があるため、そうしないと枕を高くして眠ることができないでしょう。

 お隣の支那(中国)でも事情は同じです。王朝が交代するたびに、前王朝の一族郎党がすべて殺害されます。そのため、王朝交代時には国の人口が激減することになったといいます。なにしろ、「死者に鞭打つ」という言葉が生まれた国です。敵に対しては墓場を掘り起こし、死体に鞭を打ってまで怨みを果たそうとするのがかの国の行動様式なのです。

 怨みを残して死んだ敵が自分たちを護る神になるなどと聞けば、彼らはそれこそが狂気の沙汰であると思うのではないでしょうか。

 

「棲み分け」という哲学

 怨霊が守護神に変わる過程で、戸矢学氏の次の指摘が非常に重要な意味を持ちます。

 

 「深読みをするならば、国土を略奪した上に、殺されているということになる。百歩譲っても、オオクニヌシは国を取り上げられて自決したということだろう。『国譲りして神上がる』とは、そういう意味なのである。

古事記』にあるように、

『この世のことは、わが子孫が治めるから、おまえはあの世を治めよ』とアマテラスに命じられたのだ。(中略)

 怨霊となることが確信できるほどの仕打ちをおこない、しかし怨霊となって祟ることをこの上なく恐れて、これより前にはもちろんのこと、これより後にも二度と見ることもないような巨大な社を杵築(出雲)に建設して、手厚く祀ったのである(『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』1)201頁)

 

 この記述の中に、オオクニヌシ大国主の神(オオクニヌシノカミ)になることができた、重要な理由が二つ隠されています。

 一つ目は、「『この世のことは、わが子孫が治めるから、おまえはあの世を治めよ』とアマテラスに命じられた」ことです。

 つまり、この世の支配とあの世の支配という役割を分担し、アマテラスとオオクニヌシがそれぞれを支配することで和解を図ろうとしたのです。すなわち、アマテラスはこの世の支配、オオクニヌシはあの世の支配を行うという、「棲み分け」を行ったのでした。

 

原点は縄文人弥生人の棲み分け

 「棲み分け」は、日本に特有の思想または哲学です。その原点は、弥生人縄文人の「棲み分け」という現象に見つけることができるとわたしは考えています。
 水田稲作が九州北部に伝えられたのが紀元前10世紀後半だったとすると、稲作が南関東に広まるまでに700~800年の歳月を要しています。弥生文化の浸透は、従来考えられてきたよりもゆっくりと進められました。しかもその過程で、瀬戸内、近畿、東海の各地において、縄文土器を使う集落と弥生土器を使う集落が、100年以上近接して併存していたことも分かっています。
 この併存は、各地が弥生文化に移行し終えた後にも地域差となって残された可能性があります。稲作を行う弥生人が平野部に、狩猟・採集を行う縄文人が山間部に、それぞれ棲み分けていたのです。

 

棲み分けの後に混血した日本人
 そのことを示唆する研究があります。岐阜県ミトコンドリアDNAを使って母方のルーツを試算したところ、山岳部の飛騨地方では縄文系が69%だったのに対して、平野部の美濃地方では縄文系は40%でした。また、関東甲信越地方のある県でY染色体を調べたところ、縄文人系の型は山間部では50%近かったのですが、都市部では20~30%だったといいます(以上、『ここまでわかってきた日本人の起源』2)163頁)。
 つまり古代日本では、渡来系の弥生人は、在来の縄文人を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしませんでした。弥生文化は時間をかけてゆっくり日本列島に広まり、東北地方や北海道、西南諸島には弥生文化が至らない地方も残されました。弥生文化に移行した地方にも地域差が残り、渡来系の弥生人と在来の縄文人は棲み分けを行っていました。さらに、現代に至っては弥生人縄文人の混血が進み、純粋な弥生人縄文人は存在しなくなっています。

 

自然選択説と棲み分け理論

 ちなみに、こうした行動様式の差は、現代では進化論となって現れています。西洋文化の行動様式を現しているのがダーウィン自然選択説であり、日本文化の行動様式を現しているのが今西錦司の「棲み分け理論」です。

 自然選択説の中心概念は、自然淘汰と適者生存です。優れたものが生き残り、劣ったものは滅びて行くことが自然の摂理であるとする考え方は、競争社会で勝ち抜いた者を「正義」と位置づけたうえで、南北のアメリカ大陸をはじめ、世界中を植民地化して支配した西洋人の行動様式にそのまま直結します。

 一方、棲み分け理論の中心概念は棲み分けと種社会です。今西進化論では、生物は種全体として棲み分けをしており、進化は種全体が短い期間に一定方向に変わるべくして変わると考えられています。この種全体として棲み分けを行うことこそ、古代からの日本の行動様式であると言えるでしょう。
 それぞれの理論は自然を観察して創られてはいますが、自然の摂理から純粋に導かれたものではありません。そして、自然科学的にそれぞれの理論が出来上がり、その理論を根拠にして社会の行動原理が作られたわけでもないのです。

 この順序は逆であって、自然選択説は西洋人の目から見た自然の摂理を、棲み分け理論は日本人の目から見た自然の摂理を、それぞれ自然の一部から切り取って理論化しています。つまり、社会の行動様式を基準にして自然を理解しようとした結果、西洋では自然選択説が、日本では棲み分け理論が創られたのだと考えられます。

 

手厚く祀れば守護神に転化する

 オオクニヌシ大国主の神(オオクニヌシノカミ)になったもう一つの理由は、当時の日本にいた人たちが、いわゆる「性善説」を共有していたと考えられることです。

 「怨霊となることが確信できるほどの仕打ち」を行った相手を手厚く祀ることで、怨霊が怨みを許してくれるだけでなく、自分たちを護ってくれる神に転化すると考えるのは、敵すらも本来は善良な人間であると考える性善説なしには成立し得ないでしょう。しかも「これより前にはもちろんのこと、これより後にも二度と見ることもないような巨大な社を杵築(出雲)に建設して、手厚く祀った」ことによって、大国主の神(オオクニヌシノカミ)はそれに応えるかのように、天照大御神アマテラスオオミカミ)と並び称されるほどの守護神となったのです。

 

 このような「棲み分け」という思想や、怨霊さえも手厚く祀れば守護神に転化すると考える思想は、日本にどのようにして誕生したのでしょうか。

 次回からのブログでは、日本文化の形成に大きな影響を与えた、縄文文化について検討したいと思います。(続く)

 

 

文献

1)戸矢 学:怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺.河出書房新社,東京,2010.

 2)産経新聞 生命ビッグバン取材班:ここまでわかってきた日本人の起源.産経新聞出版,東京,2009.