出雲大社 国譲りは本当にあったのか(1)

 ロシアが2022年2月24日にウクライナに軍事侵攻したことで始まったウクライナ戦争は、1年半以上が過ぎてもいっこうに収束する気配がありません。10月7日には、パレスチナ武装組織ハマスが、イスラエルに大規模なテロ攻撃をしかけました。イスラエル側も激しい空爆で応酬し、双方の死者は1週間あまりで4,000人を超えました。世界では国同士の戦争が繰り返され、血で血を洗うような殺戮が繰り返されています。

 今回訪れた出雲大社は、大国主命オオクニヌシノミコト)が築いた「葦原の中つ国」を、天照大御神アマテラスオオミカミ)に譲る代わりに建てられた宮殿と言われています。そののち出雲大社には、大国主命オオクニヌシノミコト)が、縁結びや開運の神として奉られました。この経緯は、いわゆる「国譲りの神話」として古事記には記されています。

 国を戦争で奪い取るのではなく、譲ることなど本当に起こり得るのでしょうか。そして、国を譲った王が神として奉られることには、どのような意味があるのでしょうか。

 今回からのブログでは、「国譲りの神話」に隠された、日本文化の源流を読み解いて行きたいと思います。

 

高天原が征服を宣言する

 まず、古事記に記された「国譲りの神話」を紐解いてみましょう。

 大国主オオクニヌシ)が造った葦原の中つ国(出雲の国)は、地上で大いに繁栄しました。その様子を高天原から見ていた天照(アマテラス)が、「わが子が治めるべき国である」と仰せになりました。つまり、高天原が、葦原の中つ国を征服すると宣言したのです。

 しかし、征服は簡単には実現しませんでした。アマテラスが葦原の中つ国に遣わした二人の息子、天忍穗耳(アメノオシホミミ)は葦原の中つ国の騒がしさに恐れをなして帰ってきてしまい、天之菩卑(アメノホヒ)はオオクニヌシに媚びて3年も国に帰ってきませんでした。次にアマテラスが派遣した天若日子アメノワカヒコ)は、オオクニヌシの娘と結婚して寝返ってしまいます。

 このように、アマテラスが葦原の中つ国を配下に治めようとする策は上手くゆきませんでした。そこでアマテラスは、ついに実力行使に出ます。

 

武力での服従を迫る

 アマテラスは、武神である建御雷タケミカヅチ)を、天空を鳥のように飛行する船の神である天鳥船(アメノトリフネ)と共に遣わしました。

 出雲の伊那佐の浜に降り立ったタケミカヅチは、十拳の剣(とつかのつるぎ)を逆さまに突き立て、尖った剣の先にあぐらをかいて座りながら、オオクニヌシに国譲りを迫りました。

 

     タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫った伊那佐の浜(稲佐の浜

 

 国譲りを迫られたオオクニヌシは、自分の跡を継いだ事代主(コトシロヌシ)に尋ねるようにと返答します。

 

圧倒される息子たち

 コトシロヌシは、出雲の美保の岬で鳥の遊び(白鳥を捕獲し、その霊力を身に付けさせる呪術的な儀礼)や、魚取り(神に供える魚を取ること)をしていました。

 

                       美保関灯台から見た海

 

 タケミカヅチに国譲りを迫られたコトシロヌシは、「この国を天つ国の御子に奉りましょう」と述べました。そして、乗っていた船をひっくり返し、逆手を打った(手の甲の部分で手を打った)かと思うと、自ら覆した船の中に隠れました。

 オオクニヌシのもう一人の息子である建御名方(タケミナカタ)は、国譲りには納得せず、タケミカヅチに力比べをしようと申し出ます。              
 タケミカヅチは、タケミナカタの手をつかんだかと思うと「やわらかな葦のように」握りつぶし、身体ごと放り投げました。タケミナカタ信濃の国にまで追い詰められ、ついに諏訪の湖で「葦原の中つ国はすべて差しだそう」とタケミカヅチに答えます。

 こうしてオオクニヌシの二人の息子は、アマテラスの軍門に下ったのでした。

 

国を譲った代わりに建てられた大殿

 コトシロヌシタケミナカタという二人の息子を降伏させたタケミカヅチは、改めてオオクニヌシに、葦原の中つ国を譲るように迫ります。

 オオクニヌシは、「高天原にも届くような、ひときわ高くそびえ立つ大殿(おおどの)を造ってわが住処とするならば、わが子たちとおなじようにわたしも背くことはありません」と答えました。

 こうしてオオクニヌシは、服従するのと引き換えに、壮大な宮殿の主として鎮座することになったのです。

 この宮殿が、出雲大社の起源です。現在の出雲大社の本殿は24メートルの高さがありますが、中世には30メートルを超えていました。さらに、古代には48メートルの高さを誇っていたと伝えられています。

 

日本一の高さを誇る本殿

 出雲大社の本殿が48メートルあったというのは、さすがに神話で語られた架空の話に過ぎないと思われてきました。

 ところが、平成12年から13年にかけて、出雲大社の境内から直径が3メートルにもなる巨大な柱が3カ所発見されました。

 

            島根県立古代出雲歴史博物館のホームページより

 

 柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる、いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれた柱と類似していたことから、巨大な本殿の存在が、にわかに現実味を帯びてきました。                                  

 

                 古代出雲歴史博物館にある本殿の模型

 

 上の写真は、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されている、平安時代出雲大社本殿の模型です。

 これほど巨大な本殿が本当に存在したのか、もし存在していたとするならなぜ必要であったのか。この点を解明することは、日本文化を理解するために重要な視点になると考えられます。

 

 さて、古事記をもとに、国譲りの神話を辿ってきました。神話によれば、国譲りは極めて平和裏に行われたように描かれています。葦原の中つ国は、戦いよって強引に奪われたのではなく、本当に話し合いによって譲られたのでしょうか。

 次回以降のブログで検討したいと思います。(続く)

 

 

参考文献

・三浦佑之:口語訳 古事記 [完全版].文藝春秋,東京,2002.

・瀧音能之:地図でスッと頭に入る古事記日本書紀昭文社,東京,2020.