出雲大社 国譲りは本当にあったのか(2)

 前回のブログでは、古事記をもとに、国譲りの神話を辿りました。その神話によれば、国譲りは極めて平和裡に行われたように描かれています。葦原の中つ国は、戦いよって強引に奪われたのではなく、本当に話し合いによって譲られたのでしょうか。 

 今回のブログでは、国譲りの神話の背後に隠された、戦いの痕跡を検討してみたいと思います。

 

アマテラスが派遣したタケミカヅチは征服軍の将軍だった

 古事記によれば、天照(アマテラス)が葦原の中つ国を征服するために遣わしたのが、建御雷タケミカヅチ)と、天鳥船(アメノトリフネ)でした。

 タケミカヅチは、雷神かつ剣の神とされ、茨城県鹿島市鹿島神宮の主神として祀られています。アメノトリフネは、天空を鳥のように飛行する船の神とされ、茨城県神栖市の息栖(いきす)神社に久那戸神(クナドノカミ)と共に祀られています。社伝ではクナドは葦原の中つ国の平定に当たって東国への先導に当たったとされており、アメノトリフネとクナドは戦艦の司令官、そしてタケミカヅチは、征服軍の将軍だったと考えられます。

 ちなみに、鹿島神宮と息栖神社は、千葉県香取市香取神宮とともに東国三社と呼ばれ、古くから信仰を集めてきました。そのため、高天原はこの地域にあったのではないかという説もあるのです。

 

圧倒的な軍事力で迫ったタケミカヅチ

 さて、出雲の伊那佐の浜に降り立ったタケミカヅチは、十拳の剣(とつかのつるぎ)を逆さまに突き立て、尖った剣の先にあぐらをかいて座りながら、オオクニヌシに国譲りを迫りました。

 「尖った剣の先にあぐらをかいて座る」とは、何を意味するのでしょう。この描写は、空中に浮かんで制止する超能力がある、または剣を自由自在に扱える力を有することを暗示しています。転じて、タケミカヅチは常識を越えた力を持っている、すなわち圧倒的な軍事力を引き連れて伊那佐の浜に押し寄せたことを現しているのではないでしょうか。

 タケミカヅチの力に圧倒されたオオクニヌシは、自分の跡を継いだ事代主(コトシロヌシ)に尋ねるようにと返答することしかできませんでした。

 

コトシロヌシは自ら命を絶った

 タケミカヅチに国譲りを迫られたコトシロヌシは、「この国を天つ国の御子に奉りましょう」と述べました。そして、乗っていた船をひっくり返し、逆手を打った(手の甲の部分で手を打った)かと思うと、自ら覆した船の中に隠れました。

 圧倒的な軍事力を持ったタケミカヅチに国譲りを迫られたコトシロヌシは、抵抗することを諦めました。そして、自ら覆した船の中に隠れた、つまり入水自殺したのです。その際の逆手を打ったという「裏拍手」は、手の甲と甲とを打ち合わす音の出ない拍手で、相手を呪うしぐさと言われています。

 すなわち、コトシロヌシは納得して国を譲ったのではなく、タケミカヅチの圧倒的な軍事力の前にやむなく降伏し、そして恨みを残して入水自殺を図ったと考えられます。

 コトシロヌシが戦わずして敗れた美保関には、美保神社があります。

 

                      美保神社の拝殿

 

 上の写真は、美保神社の拝殿です。「出雲大社だけでは片詣り」と言われ、出雲大社美保神社の両社を参詣することで、さらなる幸運を呼び込むと言われています。

 美保神社には、事代主神コトシロヌシノカミ)だけでなく、三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)が一緒に祀られています。

 

                       事代主神の社殿

 

                     三穂津姫命の社殿

 

 ミホツヒメは、高天原から遣わされてオオクニヌシの妃になったのですが、コトシロヌシの実母ではありません。コトシロヌシがわざわざ義母と並んで奉られているのはどうしてでしょうか。

 コトシロヌシ高天原に恨みを抱いて入水自殺したことが関係していると思われますが、この点についてはのちに触れることにします。

 

タケミナカタは戦って敗れた

 もう一人の息子である建御名方(タケミナカタ)は、国譲りには納得せず、タケミカヅチに力比べをしようと申し出ます。タケミカヅチは、タケミナカタの手をつかんだかと思うと「やわらかな葦のように」握りつぶし、身体ごと放り投げました。タケミナカタ信濃の国にまで追い詰められ、ついに諏訪の湖で「葦原の中つ国はすべて差しだそう」とタケミカヅチに答えたと古事記には記されています。

 ここでいう「力比べ」とは、文字通りの意味ではなく、武力を用いた戦いを暗示しています。タケミカヅチタケミナカタの手をつかみ、「やわらかな葦のように」握りつぶして身体ごと放り投げたという文は、タケミカヅチの軍がタケミナカタの軍を圧倒し、タケミナカタ信濃の国まで一気に敗走したということを現しているのでしょう。

 タケミカヅチは、タケミナカタを諏訪の湖まで追い詰めて殺そうとします。タケミナカタは「許してくれ。どうかおれを殺さないでくれ」と助命を嘆願し、国を譲ることに同意しました。                        

 

オオクニヌシも恨みを残して死んだ

 コトシロヌシタケミナカタという二人の息子を降伏させたタケミカヅチは、オオクニヌシに、改めて葦原の中つ国を譲るように迫ります。オオクニヌシは、「高天原にも届くような、ひときわ高くそびえ立つ大殿(おおどの)を造ってわが住処とするならば、わが子たちとおなじようにわたしも背くことはありません」と答え、国を譲ることと引き換えに、壮大な宮殿の主として鎮座することになったと古事記には記されています。

 オオクニヌシは、壮大な宮殿の主として鎮座することと引き換えに、納得して国を譲ったのでしょうか。

 そうとは思えない痕跡が、出雲大社には残っています。オオクニヌシは、息子のコトシロヌシと同じように、恨みを残してこの世を去ったのだと考えられるからです。

 

出雲大社ではなぜ「4拍手」するのか

 出雲大社の拝殿を超えて奥に進むと、本殿があります。本殿の正面には八足門(やつあしもん)があり、参拝者はここで本殿に向かって拝礼をします。

 出雲大社では、拝礼の仕方が異なります。一般的な神社では「2礼2拍手1礼」ですが、出雲大社の正式な参拝作法は「2礼4拍手1礼」です。「4拍手」する意味は何でしょうか。

 4は「幸せの”シ”を意味している」とか、東西南北を守護されるとする「四神(しじん)」に対して敬意を表しているという説があるそうですが、わたしには次の説の方が説得力があるように思います。

 それは、「あなたは黄泉の国(死の国)いるのですよ。だから私たちを祟らず、黄泉の国から見守っていてください」という意味だとする説です。オオクニヌシが恨みを残してこの世を去ったとすれば、この説の信憑性が高まるでしょう。

 そして、オオクニヌシの祀られ方にも、恨みを残してこの世を去ったことを示す形跡が見て取れます。

 

西を向いて祀られてている大国主神

 本殿正面の八足門で「2礼4拍手1礼」するとき、わたしたちは当然大国主神オオクニヌシノカミ)に向かって拝礼していると思うでしょう。しかし、大国主神は、わたしたちの方を向いて鎮座していません。

 本殿の西側には、大国主神を拝礼する場所が造られています。

 

                   本殿の西側にある拝礼所

 

 この拝礼所には、次のような看板が立てられています。

 

 

 出雲大社では、大国主神は西向きに鎮座されていることが、わざわざ看板に記されています。

 さらに、この看板の下には、鎮座の位置も示されています。

 

 

 写真のように、大国主神は、本殿の奥で西を向いて鎮座されているのです。

 

大国主神が西を向いているのは

 なぜ大国主神は、わざわざ西を向いて鎮座されているのでしょうか。

 わたしたちが神棚を祀る際には、神棚と同じ方向で見たときに、東か南を向く方角が吉とされています。それは、神棚に祀られる天照大神は太陽を司る神様なので、日が昇る東や、日光に照らされる時間が少しで最も長い南が重要視されているからです。

 そう考えると、大国主神が西を向いているのは、天照大御神と反対の方向を見ている、つまり天照大御神に背を向けていることになります。

 このことは、国譲りが平和裡に行われたのではなく、オオクニヌシが恨みを残して死んでいったことの一つの例証になるのではないでしょうか。

 

大国主神を封じる五神

 さらに本殿には、大国主神のほかに、御客座五神が一緒に祀られています。

 以下は、その位置を示した本殿の図です。

 

 

 図のように、御客座の五神は、西を向いて鎮座する大国主神の前で、南を向いて鎮座しています。わたしたちが本殿で参拝するときは、実はこの五神に向かって拝礼していることになります。

 この五神とは、

  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 

  高御産巣立日神(たかみむすびのかみ)

  神産巣立日神(かみむすびのかみ)

  宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)
 
  天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 
 で、いずれも古事記の冒頭に出てくる天地創生の際に現れた神々です。五神とも「いつの間にやら、その身を隠してしまわれた」のですが、いつの間にか出雲大社の本殿に鎮座されていたのでした。
 注意が必要なのは、この五神はみな高天原の神々であることです。
 
オオクニヌシが怨霊にならないために
 御客座五神は、なぜ大国主神の前に鎮座しているのでしょう。
 それは、恨みを残して死んだオオクニヌシが、怨霊になって祟りをなさないように監視するためではないでしょうか。
 先の美保神社において、事代主神コトシロヌシノカミ)だけでなく、高天原から遣わされた三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)が一緒に祀られているのも、同様の理由によると考えられます。
 古代では「呪い」や「祟り」は自明のこととして捉えられていました。そして、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖する「怨霊信仰」が存在していました。さらに、怨霊を鎮めて「御霊(ごりょう)」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰を「御霊信仰」といいます。
 高天原が「天にも届くような、ひときわ高くそびえ立つ大殿(おおどの)」を作り、本殿に御客座五神を祀ったのは、オオクニヌシが怨霊にならないように、さらにはオオクニヌシを御霊にして平穏と繁栄を実現しようとする、御霊信仰の事始めだったのではないかと思われます。
 
 以上のように、葦原の中つ国は、話し合いによって平和裡に譲られたのではなく、戦いによって奪われたのではないかと考えられます。
 しかし、それでも「この戦い」には、日本的な要素が多分に含まれています。次回以降のブログで検討したいと思います。(続く)
 
 

参考文献

・三浦佑之:口語訳 古事記 [完全版].文藝春秋,東京,2002.

井沢元彦:逆説の日本史 1⃣古代黎明編 封印された「倭」の謎.小学館,東京,1993.