前回までのブログで、オオクニヌシノは、古事記で記されるように平和的な国譲りをしたのではなく、高天原との戦いに敗れて国を奪い取られた可能性が高いことを検討しました。オオクニヌシは、納得して葦原の中つ国を明け渡したのではなく、国を奪われた恨みを残して、非業の死を遂げた王だったと考えられます。そうであれば出雲大社は、恨みを残したオオクニヌシが怨霊とならないように霊を鎮め、「御霊(ごりょう)」とするために建立された神社だと捉えることができます。
恨みを残して死んだ人を丁重に祀ることで、御霊となって平穏と繁栄を実現させることができると信じることを「御霊信仰」といいます。出雲大社は、日本で最初に御霊信仰が生まれた場所ではないかとわたしは考えています。
それにしても、恨みを残して死んだ者が、平穏と繁栄をもたらす神(カミ)に生まれ変わることなどあり得るのでしょうか。この”信じられない信仰”は、世界で類を見ない非常に特異な思想、または哲学であると言えるでしょう。
今回からのブログでは、旧約聖書に記されている聖戦と比較しながら、日本で生まれた御霊信仰の特徴を掘り下げてみたいと思います。
殺戮につぐ殺戮が記されている旧約聖書
古事記の記述と対極を成す宗教の聖典が、旧約聖書です。御霊信仰の特徴を明確にするために、ここでは旧約聖書に記された聖戦を取り上げてみましょう。
旧約聖書には、ヤハウェに導かれたイスラエルの民が、やがて「約束の地」カナンを征服し、イスラエル王国を建国する過程が記されています。なかでも『ヨシュア記』には、ヤハウェに導かれた戦闘の状況が余すことなく記されています。
あらかじめ断っておきますが、それは宗教の聖典に残される記述とはとても思えないものです。忌むべき事柄からはなるべく遠ざかろうとする日本人の感覚からすると、全く理解できない出来事が記されています。それは凄惨で残虐で、正視するに堪えないおぞましい内容であると言えるでしょう。
それでは、その一部を以下にまとめてみましょう。
男も女も若者も老人も滅ぼし尽くした
モーセの後継者ヨシュアに対して、神はヨルダン川を越えてそこに住む民族と戦うように命じます。神はイスラエルの民に戦い方を指示し、時には戦闘に神が自ら援助を与えました。
最初に戦いの地となったエリコでは、神は自らが城壁を崩すと告げます。そして、エリコの町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして神に捧げるように命じました。
「角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(「ヨシュア記」6・20-21)
イスラエルの民は、神の命令に従い、エリコの町に住む「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」という大虐殺を敢行しました。
全住民を一人残さず殺した
神の命令による虐殺は、アイの町でも行われました。
「ヨシュアの率いる全イスラエルは、伏兵が町を占領し、町から煙が立ち昇るのを見ると、向きを変えてアイの兵士に打ちかかり、伏兵も町を出て彼らに向かったので、彼らはイスラエル軍の挟み撃ちに遭い、生き残った者も落ちのびた者も一人もいなくなるまで打ちのめされた。
アイの王は生け捕りにされ、ヨシュアのもとに引き出された。イスラエルは、追って来たアイの全住民を野原や荒れ野で殺し、一人残らず剣にかけて倒した。全イスラエルはアイにとって返し、その町を剣にかけて撃った。その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった」(「ヨシュア記」8・21-25)
イスラエルの民は、ここでも兵だけでなく、アイの全住民1万2千人を一人残らず剣にかけて殺したのでした。
五人の王は殺されて木にさらされた
神の命令による虐殺は、さらに続きます。
イスラエルの進撃を聞いたエルサレムの王は、同じアモリ人の四人の王と連合してヨシュア軍と戦います。神はこの戦いでもイスラエルの兵を助けました。
「ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、ヨシュアはギブオンで敵に大打撃を与え、更に彼らを追ってベト・ホロンの坂道を登り、アゼカ、マケダまで彼らを追撃した。
彼らがイスラエルの前から敗走し、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主は天から大石を降らせた。それはアゼカまで続いたので、雹(ひょう)に打たれて死んだ者はイスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった」(「ヨシュア記」10・9-11)
こうしてヨシュアの率いたイスラエル軍は、敵に決定的な大打撃を与え、ついに全滅させたのです。
捕らえられた五人の王は、兵士たちに首を踏みつけられたうえで打ち殺され、五本の木にさらされました。
虐殺と略奪をほしいままに
さらにイスラエル軍は、マケダ、リブナ、ラキシュ、エグロン、デビルへと進軍し、その地の王と全住民を一人も残さず滅ぼし尽くしました。
ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息ある者をことごとく滅ぼし尽くしました。
この報を聞いたハツォルの王は、周辺の王と同盟を結び、全軍を率いてイスラエル軍と対峙します。それは、浜辺の砂の数ほどの大軍となりました。しかし、ヨシュアは神の命令に従って、敵の馬の筋を切り、戦車を焼き払うという急襲をしかけ、大軍を追撃して一人も残さず敵の兵を撃いました。
この後イスラエルの民は、またも虐殺と略奪を行いました。
「ヨシュアは引き返して、ハツォルを占領し、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは昔、これらの王国の盟主であったからである。彼らは、剣をもってハツォルの全住民を撃ち、滅ぼし尽くして息ある者を一人も残さず、ハツォルを火で焼いた。
ヨシュアは他の王の町町をすべて占領し、王たちを捕らえ、主の僕モーセが命じたように剣をもって彼らを撃ち、これを滅ぼし尽くしたが、ヨシュアが焼き払ったのはハツォルだけで、その他の丘の上に建てられた町々をイスラエルは焼き払わなかった。これらの町々の分捕り品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。
彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息ある者は一人も残さなかった」(「ヨシュア記」11・10-14)
このようにイスラエルの民は、神の命令に従って、虐殺と略奪をほしいままにしました。それは敵の兵士は言うまでもなく、男も女も、若者も老人も剣で打ち殺し、息ある者は一人も残さない徹底ぶりでした。そして、神が許した場合は、侵略した町々の略奪品と家畜はすべて、自分たちのために奪い取ったのです。
聖戦の原理
これほどの虐殺につぐ虐殺を繰り返したイスラエルの民は、良心が痛んだり後悔したりすることはなかったのでしょうか。兵士はまだしも、女や子どもまでもすべて殺害することに躊躇はなかったのでしょうか。
残念ながら、イスラエルの民にそのような気持ちが生じることはなかったでしょう。なぜなら、彼らは神の命令に従って忠実に行動しただけであり、神の命令こそ絶対に守らなければならない規範そのものだったからです。つまり、『ヨシュア記』で記された物語は、典型的な聖戦を示した例であると共に、聖戦における行動原理をも現しているのです。
現在、パレスチナの武装組織ハマスとイスラエルの間で行われている、女や子ども、さらに赤ん坊までも巻き込んだ血で血を洗う戦闘の原型が、旧約聖書の中にあると言えるでしょう。
それに比べ、古事記の中に記されている「国譲りの神話」には、全く別の原理が流れています。その原理を、次回のブログで検討したいと思います。(続く)
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