出雲大社 戦争の文化を持ち込んだ人々(1)

 日本には縄文時代に、戦争のない平和な社会が1万4000年もの間続いていたことを検討してきました。しかも縄文時代は、わたしたちが教科書で教えられてきたような、文明が存在しない遅れた未開社会などではありませんでした。

 縄文人は、世界最古の土器と奇抜で芸術性に富んだ土偶を生み出し、遠方の島々を行き来する航海術を持っていました。さらに、定住して植物の栽培を行い、大きな集落を形成していたことも分かってきました。

 最近のゲノム研究が明らかにしたところによれば、驚くべきことにアズキや稲の品種改良を行い、それが半島や大陸に伝えられた可能性が指摘されるようになりました。さらに、3000年前にはすでに、畦畔(けいはん=あぜ道)と灌漑施設を伴った、現代とさほど見劣りのない水田で稲作を行っていたことも明らかになっています。縄文時代の先進性が明らかになるにつれ、縄文文化が世界から注目を集めるようになっています。それを知らないのは、わたしたち日本人だけなのです。

 さて、先進的な文化を有しながらも、戦争のない社会を1万4000年以上維持してきた日本列島に、ついに戦争の文化が伝えられることになります。

 今回からのブログでは、日本に戦争の文化を伝えたのは誰だったのか、そして戦争の文化は、日本の社会をどのように変容させたのかを検討したいと思います。

 

朝鮮半島に5000年間人が存在しなかった

 わたしたちは教科書で、弥生時代朝鮮半島から渡来人が日本列島に移住し、稲作と戦争の文化を伝えたと教わってきました。ところが、この定説では説明できない事実が、次々に明らかになっています。

 まず、1万2000年前から7000年前までの間、朝鮮半島では遺跡が存在しないことが明らかになりました。これが何を意味するのかというと、半島から人が生活した痕跡が消えていること、すなわち、この5000年間は半島に人が存在していなかったことが明らかになったのです。その原因はまだ分かっていません。

 一方この頃日本列島では、縄文人たちが定住生活を送っていました。1万2000年前の島根県の板屋Ⅲ遺跡や鹿児島県の遺跡から、イネやキビのプラント・オパールが検出されています。プラント・オパールは、植物の細胞組織に充填されるケイ酸=ガラス成分で、植物が枯死した後にも腐敗せずに残存して土壌に保存され続けます。1万2000年前の遺跡からイネやキビのプラント・オパールは検出されたことから、島根や鹿児島の地域に住んでいた縄文人たちが、イネやキビが栽培していたことが窺われます。この事実も、農耕としての稲作の起源が大陸ではなく、日本列島だったことの証左の一つとして挙げることができるでしょう。

 

朝鮮半島縄文人が移住していた

 さて、7300年前に薩摩半島から約50キロメートル南の海で、火山の大噴火が起こりました。その跡は、鬼界カルデラと呼ばれています。この大噴火は、過去1万年以内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達したと推定されています。そのため、九州南部では人が生活できない環境になりました。さらに、火山灰が気候変動をもたらした結果、西日本の縄文文化に壊滅的な影響を与えました。その影響もあって、縄文時代前期から中期(7000年前~4420年前まで)にかけては、縄文文化と人口の中心は関東・東北地方にありました。

 7300年前の大噴火と火山灰による気候変動は、人の大移動をもたらしました。7000年前頃から、九州から沖縄と朝鮮半島への移住が始まったのです。沖縄はまだしも、朝鮮半島縄文人が移住したというのは、にわかには信じ難いことかも知れません。しかし、7000年前から半島で「縄文土器」が出土するようになっていることや、半島で発掘された人骨が、縄文人の特徴と多くの点で一致していることがそれを裏付けています(『日本人の祖先は縄文人だった!』1)104-105頁)。

 このように縄文時代の前期から中期には、文化と人口の中心は関東・東北にあったものの、九州北部と沖縄、そして朝鮮半島にも縄文人の集団が生活していたのです。

 

寒冷化と縄文人の西方移動

 およそ1万5000年前から北半球では気温の上昇が始まり、それに伴って徐々に海面が上昇しました。1万4000年前からの8000年間で海面は100メートル上昇し、6000年前には海面が現在よりも2~3メートル高くなっていました(10メートルという説もあります)。そのため、海が陸地の奥にまで入り込んで海岸線が後退しました。この現象は、「縄文海進」と呼ばれています。縄文海進によって日本列島は大陸や半島から隔てられ、これが戦争の文化を持たない縄文人を、他民族から守る自然の要塞としての役割を果たしていました。

 ところが、4200年前から気候は寒冷化に転じます。それに伴って、二つの大きな変化が起こりました。

 一つは、寒冷化に伴う食糧事情の悪化です。東北や関東で栄えていた縄文時代の集落は、気温の高い西日本に移動して行きます。

 もう一つは、寒冷化に伴って海面が下がり、大陸や半島と日本列島の距離が近くなったことです。そのことによって、大陸や半島から人々が往来することが容易になりました。

 こうして、縄文時代の後期から晩期(4220年前~2350年前まで)には、西日本、特に九州に人が集まる状況が生じました。

 

天孫降臨はこの時期に起こった

 古事記に記された日本神話には、高天原に住むアマテラスを初めとする天津国の神々が、地上世界である葦原の中つ国を支配するようになった経緯が綴られています。オオクニヌシが国譲りをした結果、アマテラスの孫であるニニギが、地上を支配するために高千穂の峰に降り立ちます。

 この天孫降臨の神話は、単なる空想を描いたものではないとわたしは思います。民族の記憶は、口伝によって伝承されてきました。その伝承されてきた記憶が、神話という形にまとめられたのだと考えられます。そうだとすれば、民族に起こった現実の記憶が、天孫降臨の神話となって表現されていると捉えることができます。

 こうした捉え方はこれまでにもあって、天孫降臨は、朝鮮半島高天原があって、弥生人の祖先が半島から日本列島に移り住んできたことを現しているという説が有力でした。この説だと、天孫族弥生人であり、出雲族縄文人ということになります。

 

高天原の可能性は3カ所

 現在分かってきた縄文時代の後期から晩期(4220年前~2350年前まで)の人の移動からみると、高天原があった場所の可能性は、次の3カ所が考えられます。

 一つは、高天原は東日本の日高見国だという説です(『日本とユダヤの古代史&世界史』2)60ー62頁、105ー109頁)。この説を提唱している田中英通氏は、東日本全体が日高見国で、高天原は、茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮または筑波山の地域にあったと指摘しています。

 二つ目は、沖縄という説です。縄文時代の始まる前の1万7000年前の地球は寒冷期で、海面が現在より約140メートル低かったことが分かっています。この頃には九州から台湾にかけての海域に、巨大な島が連続する列島が出現していました。この説を提唱している小名木善行氏によれば、縄文時代にはこの列島に高天原があったのではないかと指摘しています(『縄文文明』3)88ー98頁)。

 三つ目は、朝鮮半島にあったという従来の説です。ただし、新たな可能性が生まれてきました。それは、半島から渡来してきた人々が、従来説のような弥生人ではなく、半島に移住していた縄文人だったという可能性です。そうであれば、天孫族弥生人ではなく、半島に移住していた縄文人だということになります。

 では、日本列島に戦争の文化を持ち込んだのは、この天孫族だったのでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)長浜浩明:日本人の祖先は縄文人だった! いま明かされる日本人ルーツの真実.展転者社,東京,2021.

2)田中英通 茂木誠:日本とユダヤの古代史&世界史 縄文・神話から続く日本建国の真実.ワニブックス,東京,2023.

3)小名木善行:縄文文明 世界中の教科書から消された歴史の真実.ビオ・マガジン,東京,2022.