弥生人はなぜ縄文人との棲み分けを選んだのか(2)

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 大陸や半島の戦いから逃れてきた渡来人は、日本列島で弥生文化を形成しました。彼らは、稲作だけでなく戦いの文化も日本列島にもたらしました。こうして弥生時代には、日本列島各地で本格的な戦いが始まりました。しかし、戦いの文化は、日本では大陸とは異なった発展をみせるようになります。

 

女王卑弥呼

 弥生時代に誕生した小国の動勢については、中国の文献から類推することしかできません。『魏志倭人伝などの中国の歴史書によれば、倭国では1世紀の終わり頃から2世紀の初め頃に男の王を立てていましたが、70~80年ほど体制が続いた後に戦乱状態になりました。国々は互いに攻撃し合って治まる様子がなかったので、邪馬台国の女王卑弥呼を立てて共同の王にしたところ、3世紀に入ろうとする頃にようやく戦いが終息しました。

 その結果、邪馬台国を中心とする30ばかりの小国連合が生まれました。卑弥呼が没した後に男の王を立てたものの国々が服従しなくなり、再び殺し合いが始まりました。そこで卑弥呼の一族の13歳の女子を立て、国中がようやく治まったといいます。

 なお、邪馬台国の所在については、九州北部とする説と近畿地方とする説があって未だ決着をみていません。九州説であれば邪馬台国連合は小範囲にあって、上述の戦乱は九州を中心とした限定された範囲の出来事だったことになります。一方、近畿説であれば邪馬台国連合は瀬戸内から近畿にかけて存在したことになります。そう仮定しても東海や日本海側には卑弥呼の傘下に入らなかった国々があり、西日本全体が一つの勢力の支配下にはなかったようです。

 

弥生人の戦争の文化

 弥生時代には大陸や半島から戦争の文化がもたらされ、それに伴って西日本の至るところで戦いが起こり、戦乱が繰り返されました。これほど短期間に戦争の文化が広まったのは、同時期に大陸や半島ではさらに激しい戦いが常態化していたからだと考えられます。そして、鉄などの交易の必要性もあって、倭の国々が大陸や半島と積極的に交流していたからでしょう。当時の日本は、東アジアで勃発していた戦乱の波に組み込まれ、否応なしに戦いを行わざるを得ない状況だったのです。

 しかし、倭国の社会を支配していた行動様式は、すでに大陸とはかなり異なったものになっていました。大陸での社会を支配するのは、まさに弱肉強食の原理です。戦争で相手を滅ぼし、最後に勝ち残った者が社会を支配します。一方で中国には、天から与えられた徳を有する統治者が、その徳をもって人民を治めるべきだとする徳治主義という思想があります。しかし、中国では未だかつて、戦い以外の方法で統治する王朝が交代した例は認められません。
 これに対して、倭国では戦争では国々を統一できず、「鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑(まど)はす」とされた卑弥呼が女王に立つことによって国々がまとめられました。つまり邪馬台国連合は、武力の優劣ではなく、鬼道という呪術よってまとめられた一種の宗教連合体だったのです。

 このことは、倭国の国々が戦いでは優劣がつけられないほど力が均衡していた(または、相手国を倒せるほどの武力がなかった)可能性もありますが、むしろ当時の人々が、武力に最も重要な価値を置いていなかったことを現しているのではないでしょうか。

 

縄文人との関係

 弥生時代に始まった本格的な戦闘はほぼ弥生人同士に限られ、渡来系弥生人と在来の縄文人の間ではほとんど戦いが起きなかったと言われています。武器の傷が残る縄文系の遺骸が少数しか存在せず、しかもその遺跡には、弥生人生活様式を取り入れた痕跡が認められるからです。つまり、一般の縄文人は戦闘に参加しておらず、武器の傷が残った縄文人は、弥生人の文化にとけ込み、弥生人同士の戦闘に参加していたと考えられるのです。
 では、渡来集団である弥生人と、在来集団である縄文人が戦わなかったのはなぜなのでしょうか。その最も大きな要因が、これまでに検討してきたように、縄文人が戦いの文化を持ち合わせていなかったことにあるでしょう。彼らは、1万年以上に渡って戦いから遠ざかり、平穏な日々を送ってきました。そのため、戦いの文化を携えた弥生人と対峙することになっても、にわかに戦いを始めることができなかったのです。

 一方、弥生人の側からみて、縄文人と戦わなかった理由が存在するのでしょうか。一般的には、渡来した集団の人数が少なかったとか、大規模な水耕稲作を行うための労働力として縄文人が必要だったなどの理由が挙げられています。

 しかし、そうした理由だけなら、弥生人の人口が増えた時点で本格的な戦いが始まっていたでしょう。狩猟・採集生活を主にした縄文人に比べ、稲作によって食料をより確実に確保できる弥生人の方が人口増加率が高く、その人口比は九州北部では300年ほどですっかり逆転しています。それにも拘わらず、弥生人縄文人を攻め滅ぼそうとしたり、奴隷として使役することはなかったのです。

 

アメリカ移民とインディアンとの関係

 ここで、「攻め滅ぼそうとしたり、奴隷として使役しようとする」という言葉を使ったのにはわけがあります。これらの行為は、異なった文化を持った者同士が交わるときに起こることだからです。

 17世紀のアメリカ大陸で、ヨーロッパから移民が移り住んだときがまさにそうでした。アメリカ大陸の先住民であるインディアンは、移民たちによって確実に駆逐されていきました。インディアンの虐殺と駆逐は、アメリカ建国後も着実に進められました。コロンブス北米大陸に到着した1492年には、合衆国領域に200万人以上いたと推定されるインディアンは、フロンティアが消滅した1890年には25万人まで激減していたといいます。
 さらに、戦いに敗れたインディアンは、奴隷としても使役されました。北米大陸奴隷制度は、実はインディアンを奴隷にすることから始められています。スペインが北米に侵攻することで始まったインディアンの奴隷化は、オランダが植民基地を築いたニューアムステルダムや、フランスが支配したカナダ東部とミシシッピー川流域でも進められました。そして、イギリス領植民地では、さらに広範囲にわたってインディアンの奴隷化が展開されることになったのです(18世紀になると、常時安定して獲得できないインディアンの奴隷に代わって、黒人が奴隷制度の中核を占めて行きます)。

 

縄文人との棲み分け

 これに対して、古代の日本では、弥生人縄文人は「棲み分け」という手段を選びました。
 水田稲作が九州北部に伝えられたのが紀元前10世紀後半だったとすると、稲作が南関東に広まるまでに700~800年の歳月を要しています。弥生文化の浸透は、従来考えられてきたよりもゆっくりと進められました。しかもその過程で、瀬戸内、近畿、東海の各地において、縄文土器を使う集落と弥生土器を使う集落が、100年以上近接して併存していたことも分かっています。
 この併存は、各地が弥生文化に移行し終えた後にも地域差となって残された可能性があります。稲作を行う弥生人が平野部に、狩猟・採集を行う縄文人が山間部に、それぞれ棲み分けていたのです。
 そのことを示唆する研究があります。岐阜県ミトコンドリアDNAを使って母方のルーツを試算したところ、山岳部の飛騨地方では縄文系が69%だったのに対して、平野部の美濃地方では縄文系は40%でした。また、関東甲信越地方のある県でY染色体を調べたところ、縄文人系の型は山間部では50%近かったのですが、都市部では20~30%だったといいます(以上、『ここまでわかってきた日本人の起源』1)163頁)。
 つまり古代日本では、渡来系の弥生人は、在来の縄文人を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしませんでした。弥生文化は時間をかけてゆっくり日本列島に広まり、東北地方や北海道、西南諸島には弥生文化が至らない地方も残されました。弥生文化に移行した地方にも地域差が残り、渡来系の弥生人と在来の縄文人は棲み分けを行っていました。さらに、現代に至っては弥生人縄文人の混血が進み、純粋な弥生人縄文人は存在しなくなっています。その結果、現代の本土人は、弥生系の遺伝子を概ね7~8割、縄文系の遺伝子を2~3割持っていると考えられます(同上156頁)。
 なぜ古代の日本人は、相手を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしなかったのでしょうか。それは、縄文人弥生人が共に、戦いに敗れて日本列島にたどり着いた人々だったからです。弥生人は戦争の文化を携えてきましたが、彼らもまた戦いによって傷つき、大陸や半島から敗走してきたことに変わりありません。弥生人同士は、新たな地で自らの生活の場を確保するために互いに戦闘を繰り返しました。しかし、戦いの文化を持たない縄文人までを、戦いの渦に引き込むことはしませんでした。そこには、敗者同士の惻隠の情があったと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 

自然選択説と棲み分け理論

 ちなみに、こうした行動様式の差は、現代では進化論となって現れています。西洋文化の行動様式を現しているのがダーウィン自然選択説であり、日本文化の行動様式を現しているのが今西錦司の「棲み分け理論」です。

 自然選択説の中心概念は、自然淘汰と適者生存です。優れたものが生き残り、劣ったものは滅びて行くことが自然の摂理であるとする考え方は、競争社会で勝ち抜いた者を「正義」と位置づけたうえで、南北のアメリカ大陸をはじめ、世界中を植民地化して支配した西洋人の行動様式にそのまま直結します。

 一方、棲み分け理論の中心概念は棲み分けと種社会です。今西進化論では、生物は種全体として棲み分けをしており、進化は種全体が短い期間に一定方向に変わるべくして変わると考えられています。この種全体として棲み分けを行うことこそ、古代からの日本の行動様式であると言えるでしょう。
 それぞれの理論は自然を観察して創られてはいますが、自然の摂理から純粋に導かれたものではありません。そして、自然科学的にそれぞれの理論が出来上がり、その理論を根拠にして社会の行動原理が作られたわけでもないのです。この順序は逆であって、自然選択説は西洋人の目から見た自然の摂理を、棲み分け理論は日本人の目から見た自然の摂理を、それぞれ自然の一部から切り取って理論化しています。つまり、社会の行動様式を基準にして自然を理解しようとした結果、西洋では自然選択説が、日本では棲み分け理論が創られたのだと考えられます。(了)

 

 

文献)

1)産経新聞 生命ビッグバン取材班:ここまでわかってきた日本人の起源.産経新聞出版,東京,2009.