出雲大社 縄文文化の影響(2)

 前々回のブログでは、1万6500年前に世界最古の土器が造られるようになってから1万4000年もの間続いた縄文時代の遺跡には、戦いの痕跡が見つけられないことを指摘しました。すなわち、縄文人たちは、1万4000年もの長期にわたって戦争をせずにこの日本列島で共存していたのです。これはまさに、人類史における奇蹟であると言えるでしょう。

 では、縄文人たちはなぜ戦争をしなかったのでしょう。精巧な武器を作るだけの文化を持っていなかったのか。それとも侵略するに足る富を有していなかったのでしょうか。

 今回のブログでは、縄文文化が、実は当時の最先端の文化であったことを検証してみたいと思います。

 

世界最古の磨製石器が発見された

 縄文時代が始まる前に、日本には石器時代がありました。それを証明したのが、市井の考古学者である相沢忠洋(あいざわただひろ)氏です。

 相沢氏は、1949年に群馬県笠懸村の岩宿で、関東ローム層の中から黒曜石で作られた石器(槍先形尖頭器)を発見しました。この石器が3万5000年前のものだと分かり、大騒ぎになりました。なぜなら、当時の考古学会では、日本の最古の時代は縄文時代というのが常識になっていたからです。

 しかし、この岩宿遺跡の発見が契機となり、その後に日本各地から石器時代の遺跡が相次いで発見されました。それだけではありません。相沢氏が発見した石器は、磨製石器だったのです。

 

     槍先形尖頭器(相沢忠洋記念館 ホームページより)

 

 磨製石器とは、石材を砂と擦り合わせたり、他の石と擦り合わせたりする方法で、表面を滑らかに研磨加工した石器です。磨製石器が出現する時代を、新石器時代と呼びます。相沢氏の発見以降日本各地から磨製石器が発見され、静岡県沼津市の井出丸山遺跡では、3万8000年前の黒曜石でできた磨製石器が多数出土しました。

 これらの発見は、実に驚くべきものです。磨製石器が一般的に使用されるのは、世界では1万年前からだからです。早い地域でも、オーストラリアの2万5000年前の磨製石器が最古とされてきました。

 縄文人の祖先たちは、世界で最も早く磨製石器を作り(それも他の地域より1万年以上も前から)、日本列島で先進的な生活を営んでいたと考えられます。

 

定住して集落を形成

 先のブログで述べたように、縄文人の祖先の多くは、他の集団に駆逐されてしまいました。ようやく日本列島にたどり着いた人々の集団だけが、石器時代、そして縄文時代の文化を形成しました。

 縄文人の祖先たちは他の地域では生きては行けない集団でしたが、それは彼らの文化が劣っていることを意味するのではありません。彼らによって作られた縄文時代の遺跡や出土品が、それを明瞭に物語っています。
 石器時代から縄文時代へ移行する際のもっとも大きな変化は、定住でした。獲物を追って狩りをしていた生活から、竪穴住居と呼ばれる家や食料を蓄える貯蔵設備を造り、石皿や土器などの家財道具を備え、一ヶ所に腰を落ち着けて生活する文化が始まりました。

 こうした生活を可能にしたのが、温暖化による豊かな森の出現でした。森ではクリやドングリなどのナッツ類が豊富に採れ、イノシシやシカ、ウサギなどの中小動物の狩りもできました。さらに、温暖化による海流の活性化がサケやマスの遡上を促し、河川漁撈(ぎょろう)が行われた地域もあったようです。

 

巨大化した環状列石
 定住はやがて集落を生み、時の進行とともに集落は大型化して行きました。8500年前には、広場を真ん中にして竪穴住居が同心円上に並ぶ、150メートルを超す環状集落が出現しました。さらに7000年前になると、中心の広場に墓地を配し、300を超えるような住居を備えた環状集落がみられるようになりました。

 人口も徐々に増加し、遺跡数などによる推定によれば、8000年前に2万人であった人口は5000年前には8万人に増加し、最盛期の4300年前には26万人まで達していたと考えられています。

 4500年前の縄文後期になると、環状集落に代わって、中心部の墓地の部分に環状や日時計状の石組みが造られた「環状列石」が登場します。環状列石は次第にモニュメント化して巨大になりました。

 秋田県の大湯からは2つの環状列石が並んで発掘されています。

 

                    秋田県 大湯 環状列石

 

 驚くべきことに、直径が100メートル弱にもなるこの二つの列石の中心を結ぶ直線の一方が冬至の日に太陽が昇る方角を示し、他方が夏至の日に太陽が没する方角を示すように造られているのです(『列島創世記』1)139頁)。

 

華やかな縄文土器

 集落の発達は人々の生活環境を変えただけでなく、文化の発展も促すことになりました。縄文の前期から中期の頃に、東日本を中心に派手で華麗な飾りを備えた縄文土器が創られました。

 青森県外ヶ浜町で発見された土器が、放射性炭素年代測定法により、約1万6500年前の世界最古級のものであることが分かりました。さらに、1万4000年前頃には日本全国に土器が普及していることを考えると、縄文時代には、世界最古の土器普及文化であったことが分かっています。

 

       火焔型土器  縄文中期 新潟県笹山遺跡出土 十日町市博物館蔵 

 

 縄文時代の土器はその特徴によって、北陸の馬高(うまだか)式(=火焔型土器)、甲信から関東の勝坂(かつさか)式、関東の東から北地域の阿玉台(あたまだい)式、東北南部の大木(だいぎ)式、東北北部から北海道南西部の円筒上層(えんとうじょうそう)式などと呼ばれ、各地域ごとに鮮やかな個性が表現されました。

 

奇抜な縄文の土偶

 縄文後期になると派手な文様の土器が陰を潜める一方で、奇抜な姿をみせる土偶が登場します。ハート型の顔を持つハート型土偶、三角形の頭をした山形土偶、顔が鳥のミミズクに似たミミズク型土偶イヌイットが雪中行動をする際に着用する遮光器のような目を持つ遮光器型土偶などが登場しました。

 

       遮光器土偶             ハート型土偶

 

 頭部のこのような特徴に加え、体全体にもヘラ描きの文様や縄文がびっしりと付けられるなど独特の外観を呈するようになりました。その様は、人間の具象的な表現からはほど遠くなり、近代の抽象芸術さえ彷彿とさせます。
 ところで、縄文時代の遺跡は本土だけでなく、伊豆大島八丈島にも残されています。つまり、縄文人は船を使って数百キロ沖の離島まで行き来していました。この事実は、縄文人が住居の建造技術だけでなく、高い航海技術も持ち合わせていたことを示しています。

 以前のブログで述べたように、深い海峡で隔てられたオーストラリアに縄文人と近縁の人々が存在していたことから、縄文人の祖先たちもまた、優れた航海技術を有していたことを窺わせます。

 

植物を栽培していた縄文人
 各地の遺跡からはクリやトチなどのナッツ類や、エゴマやリョクトウなどの栽培植物の出土が多く認められます。特に6000年前から1500年間にわたって繁栄した青森市三内丸山遺跡では、エゴマヒョウタン、ゴボウ、マメといった栽培植物に加え、クリの栽培も行われていたようです。

 遺跡から出土したクリのDNAを分析したところ、自然状態では考えられないほど、それぞれのクリが非常に似通った遺伝子構造であることが分かっています。これは、縄文人がクリの品種を見極めながら、食用に適したクリを選別して栽培していたことを示しています。

 また、縄文土器についた種子の圧痕から、縄文時代の中期から後期にかけて、アズキの種子が急に大きくなったことが指摘されています。同時代の韓国や中国の遺跡から出るアズキが未だ小さいことと、アジア各地域のアズキのゲノム解析の結果から、アズキは6000年前くらいから日本で栽培されて改良され、その後大陸に広がっていった可能性が高いことが分かってきました(『ゲノムでたどる古代の日本列島』2)185-210頁)。

 この研究は、農耕は弥生時代に大陸から伝えられたとする、これまでの常識を覆す発見であると言えるでしょう。石器や土器と同じように、植物の栽培においても、大陸よりも日本の方が進んでいた可能性が出てきたのです。

 

縄文人水田稲作を行っていた

 それだけではありません。考古学の発展は、わたしたちが常識としていた稲作の伝来にも、コペルニクス的転回をもたらそうとしています。

 これまでにも、約4500年前の土器からイネ籾の圧痕が見つかっており、縄文時代に稲作が行われていたことは分かっていました。

 ところが、1980年から翌年にかけて発掘された佐賀県唐津市の菜畑遺跡が、これまでの常識を覆します。この遺跡からは、縄文土器とともに、畦畔(けいはん=あぜ道)と灌漑施設を伴った水田の跡が見つかりました。縄文式の甕(かめ)の底から採取したお焦げを用いて年代を測定したところ、約3000年前のものであることが判明しました。つまり、縄文時代末期に縄文人は、現代とさほど見劣りのない水田で稲作を行っていたのです。

 さらに、遺跡から出土した炭化米のDNAをアジア各地で比較したところ、東南アジア原産の熱帯ジャポニカが日本列島に持ち込まれ、長い年月をかけて温帯ジャポニカに品種改良されたことがわかってきました。そして、日本で改良された温帯ジャポニカが、水田稲作法とともに半島や大陸に伝わった可能性が出てきました(『日本人の祖先は縄文人だった』3)122-167頁)。

 縄文時代の日本列島は、農耕においても、アジアの先進地域だったと言えるでしょう。

 

 熟成した文化を育みながら、1万4000年の長きに渡って続いた縄文時代には、戦争の痕跡はありませんでした。

 しかし、その平和な時代にも終焉が訪れます。弥生時代なると、日本列島の各地で戦争が勃発するようになるのです。(続く)

 

 

文献)

1)松木武彦:全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記.小学館,東京,2007.

2)斉藤成也 監修:ゲノムでたどる古代の日本列島.東京書籍,東京,2023.

3)長浜浩明:日本人の祖先は縄文人だった! いま明かされる日本人ルーツの真実.展転者社,東京,2021.