日本人はなぜ自立できないのか(9)

 前々回のブログで、日本人が自立できない理由として、教育の問題を取り上げました。

 問題の一つは、受験教育のあり方です。日本の教育で優秀とされるのは、教師が正しいと判断している正解と同じ結論に、できるだけ早く、しかも間違いがなく到達できる生徒です。こうした生徒が受験競争を勝ち抜いて、有名大学に進学します。今回のワクチン行政において、厚労省の官僚や医師たちが政府の方針に疑問を持ち、自分なりに調べ直し、自らの考えを構築して実行に移すことができない理由の一つが、ここにあると考えられます。

 二つ目は、日本の歴史教育の問題です。GHQ連合国軍最高司令官総司令部)によって行われたWGIP(ウォーギルト・インフォメーション・プログラム)の影響を受けて、日本の歴史教育は、日本が間違っていたという前提から出発し、それをどう反省して今後に活かすのかという枠組みで構成されていることです。日本は間違っていたという前提から出発する歴史教育は、日本の子どもたちの自己肯定感を育まないばかりが、自己否定感を植え付けかねません。

 今回のブログでは、この歴史教育の問題を、中学の歴史教科書を例に挙げて検討しててみたいと思います。

 

ともに学ぶ人間の歴史

 検討に使うのは、学び舎の中学歴史教科書、『ともに学ぶ人間の歴史 中学社会 歴史的分野』です。この教科書は、進学校が採用していることで有名だそうです。

 まず、わたしが最初に違和感を感じたのは、「ともに学ぶ人間の歴史」という表題です。中学で学ぶのは、日本の歴史でも世界の歴史でもなく、人間の歴史だというのです。そんな広大なテーマを中学生から学んで、果たして理解することができるのでしょうか。

 歴史教育にはさまざまな目的がありますが、その一つに、個人の自我を支えるという目的があります。自我とは、わたしとは何者であるか、わたしとはどんな存在であるのかと認識している主体ですから、自我を支えるためには、身近な歴史を学ぶことから始めることが必要不可欠です。

 わたしとは何者であるかを知るためにまず必要になるのが、家族の歴史でしょう。両親が歩んできた人生、そして両親の親族や両家が継承してきた歴史が、個人の自我を支えます。ただしこれは、学校でなく家庭で両親や親族から教えられるべき歴史でしょう。

 次に個人の自我を支える歴史は、自分たちが住む地域の歴史です。地域との関わりが家庭を支えているからです。しかし、戦後には地域社会が崩壊し、特に都市部ではこの傾向が顕著になっています。そのため個人の自我を支える重要な部分を失っており、このことが精神疾患の増加に大きな影響を与えているとわたしは考えています。

 次に自我を支えるために必要なものが、日本の歴史でしょう。わたしたちの祖先がどのような歴史を歩んできたのか。このことを理解することが、わたしたちの地域、わたしたたちの親族、そしてわたしという存在を支えるための基盤になるのです。

 そして、日本の歴史をより深く理解するために、世界の歴史との関係を知ることが必要になります。このように、個人の自我を支えることを目的とするなら、家の歴史→地域の歴史→日本の歴史→世界の歴史という順に学ぶことが必要であると考えられます。

 これに対して、学び舎の教科書は、日本の歴史でも世界の歴史でもなく、人間の歴史から始めようとしています。その目的は、自我を支えることでないことは明らかでしょう。

 では、学び舎の教科書は、いったい何を目的として作られているのでしょうか。

 

沖縄の慰霊の日から始まる

 教科書の目次の次に、「歴史と出会うー6月23日、沖縄で」という表題で、沖縄の「慰霊の日」が取り上げられています。

 そこではまず、「遺骨と出会う、歴史と出会う」という見出しで、次のように書かれています。

 

 70年以上たった今でも、遺骨は沖縄の各地に、野に山にうもれて散らばっています。沖縄の高校生たちが、これらの遺骨をさがして集める活動に参加しました。木々や草のあいだで土をはらいのけると、歯や指や骨、頭蓋骨の一部などがでていきます。遺骨を集めた高校生たちは、「戦争は終わっていない」と感じました。

 

 遺骨採集から始まる歴史教科書に、わたしは違和感というより、気味の悪さを感じました。遺骨と出会うことが、本当に歴史と出会うことなのでしょうか。歴史とは、その民族なり文化をもつ集団が歩んできた軌跡です。その軌跡を語る教科書の最初が、「遺骨採集」から始まるのは常軌を逸しています。

 次に、「名まえを指でなぞる」という見出しで、次のように記されています。

 

 また、この日、80歳近い女性が、「平和の礎」をおとずれました。毎年、「慰霊の日」には必ず来ています。「平和の礎」には、この戦争で亡くなった人たち一人ひとりの名まえが、石にきざまれ、その数は24万人にのぼります。戦死したアメリカ兵の名まえもきざまれています。

 女性は、石にきざまれた父、母、祖母、弟の名まえを指でなぞっていました。「父たちの名まえを見ると涙がとまらない」と、孫たちと花をそなえました。女性は戦場を逃げながら、あいついで家族を失い、一人だけ残され、孤児となりました。

 

 この文章には、家族の名まえを泣きながらなぞる女性の写真が添えられています。

 上記の二つの文章は、戦争がいかに悲惨なものであるか、人々を苦しめ続けるものであるかを印象づけようとしているのでしょう。

 「遺骨と出会う」ことが、なぜ「歴史と出会う」ことになるのか、という問いへの答えがここにあります。この教科書では、戦争の悲惨さを学ぶことに、歴史を学ぶ最も重要な意義を見出そうとしています。

 つまり、学び舎の教科書は、反戦を教えることを第一の目的として作られているのです。

 

人類の誕生から始まる歴史

 次に、本文のテーマを順になぞってみましょう。

 

(1)木から下りたサル ー人類の誕生ー

(2)種が落ちないムギ ー農耕と牧畜のはじまりー

(3)ピラミッドのなぞ ーエジプト文明

(4)ブッダになった王子 ーインドの文明ー

(5)地下から出てきた大軍団 ー中国の文明ー

(6)円形競技場の熱狂 ー古代ギリシアとローマー

 

 これらのテーマは、何を目的に構成されているのでしょうか。

 人類が誕生してから、世界各地で文明が誕生した様子が記されています。「人間の歴史」と銘打った教科書の真骨頂だと言えるでしょう。

 この後にいよいよ日本の歴史が始まります。

 

(7)湖にゾウを追う ー日本列島の旧石器時代

(8)かわる気候、めぐる季節 ー縄文時代

 

 この流れからは、世界には文明が誕生しているのに、日本列島には同時代に文明らしきものがなかったと説明しているかのようです。

 縄文時代の最後には、「自然にたよった生活」という見出して、次のように記されています。

 

 5000年ほど前に、さらにあたたかな気候になると、関東や中部地方ではムラの数がふえました。ある学者は、日本列島全体で、人口が30万人をこえたと計算しています。

 そののち、狩りでえもののとり過ぎや、気候の変化などのために、多くのムラがほろび、ふたたび人口は急激に少なくなりました。乳幼児のあいだに死んでしまうことが多く、40歳以上の人の骨は、わずかしか出ません。うえ死に寸前の状態にあったことをしめす骨や、ひどい骨折のあとがあるものも見つかっています。

 

 このように縄文時代は自然に頼った生活で、自然状態が悪化すれば、容易に滅んでしまうような、未だ文明が誕生していない状態であったと書かれています。

 日本列島に存在した人々は、この教科書に書かれているように、本当に文明のない未開な社会を生きていたのでしょうか。

 以下の文章と比べてみてください。

 

集落を形成し、植物を栽培していた縄文人

 旧石器時代から縄文時代へ移行する際のもっとも大きな変化は、定住でした。獲物を追って狩りをしていた生活から、竪穴住居と呼ばれる家や食料を蓄える貯蔵設備を造り、石皿や土器などの家財道具を備え、一ヶ所に腰を落ち着けて生活する文化が始まりました。

 こうした生活を可能にしたのが、温暖化による豊かな森の出現でした。森ではクリやドングリなどのナッツ類が豊富に採れ、イノシシやシカ、ウサギなどの中小動物の狩りもできました。さらに、温暖化による海流の活性化がサケやマスの遡上を促し、河川漁撈(ぎょろう)が行われた地域もあったようです。
 定住はやがて集落を生み、時の進行とともに集落は大型化して行きました。8500年前には、広場を真ん中にして竪穴住居が同心円上に並ぶ、150メートルを超す環状集落が出現しました。さらに7000年前になると、中心の広場に墓地を配し、300を超えるような住居を備えた環状集落がみられるようになりました。

 人口も徐々に増加し、遺跡数などによる推定によれば、8000年前に2万人であった人口は5000年前には8万人に増加し、最盛期の4300年前には26万人まで達していたと考えられています。
 また、各地の遺跡からはクリやトチなどのナッツ類や、エゴマやリョクトウなどの栽培植物の出土が多く認められます。特に6000年前から1500年間にわたって繁栄した青森市の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では、エゴマヒョウタン、ゴボウ、マメといった栽培植物に加え、クリの栽培も行われていたようです。

 遺跡から出土したクリのDNAを分析したところ、自然状態では考えられないほど、それぞれのクリが非常に似通った遺伝子構造であることが分かっています。これは、縄文人がクリの品種を見極めながら、食用に適したクリを選別して栽培していたことを示しています。

 

華やかな縄文文化

 集落の発達は人々の生活環境を変えただけでなく、文化の発展も促すことになりました。縄文の前期から中期の頃に、東日本を中心に派手で華麗な飾りを備えた縄文土器が創られました。

 縄文土器は、世界で最も古い土器の一つと言われています。さらに、1万4千年前頃には日本全国に土器が普及していることを考えると、世界最古の土器普及文化であることが分かっています。

 土器はその特徴によって、北陸の馬高(うまだか)式(火炎土器)、甲信から関東の勝坂(かつさか)式、関東の東から北地域の阿玉台(あたまだい)式、東北南部の大木(だいぎ)式、東北北部から北海道南西部の円筒上層(えんとうじょうそう)式などと呼ばれ、各地域ごとに鮮やかな個性が表現されました。

 4500年前の縄文後期になると、環状集落に代わって、中心部の墓地の部分に環状や日時計状の石組みが造られた「環状列石」が登場します。環状列石は次第にモニュメント化して巨大になりました。

 秋田県の大湯からは2つの環状列石が並んで発掘されています。驚くべきことに、直径が100メートル弱にもなるこの二つの列石の中心を結ぶ直線の一方が冬至の日に太陽が昇る方角を示し、他方が夏至の日に太陽が没する方角を示すように造られているのです。

 縄文後期になると派手な文様の土器が陰を潜める一方で、奇抜な姿をみせる土偶が登場します。ハート型の顔を持つハート型土偶、三角形の頭をした山形土偶、顔が鳥のミミズクに似たミミズク型土偶イヌイットが雪中行動をする際に着用する遮光器のような目を持つ遮光器型土偶などが登場しました。

 頭部のこのような特徴に加え、体全体にもヘラ描きの文様や縄文がびっしりと付けられるなど独特の外観を呈するようになりました。その様は、人間の具象的な表現からはほど遠くなり、近代の抽象芸術さえ彷彿とさせます。
 ところで、縄文時代の遺跡は本土だけでなく、伊豆大島八丈島にも残されています。つまり、縄文人は船を使って数百キロ沖の離島まで行き来していました。この事実は、縄文人が住居の建造技術だけでなく、高い航海技術も持ち合わせていたことを示しています。

 

 以上は、わたしが歴史の本や資料からまとめたものですが、学び舎の教科書とは随分印象が異なると思いませんか。

 学び舎の教科書では、古代の日本列島は、世界の文明からは遅れた地域であるかのように描かれているのです。

 なぜ、学び舎の教科書は、このような描き方をしているのでしょうか。(続く)