皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(1)

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 令和に元号が変わって、はや5か月が過ぎようとしています。天皇陛下の御代代わりに当たって、皇室に関しての議論がかまびすしくなっています。現在の皇室に男系男子が少ないことから、女性天皇論や女性宮家の創設、さらには女系天皇容認論までが現れています。

 皇室の伝統を維持するために、女性宮家を創設したり女系天皇を容認することは必要なのでしょうか。それとも、天皇の継承ははあくまで男系男子に限られるべきなのでしょうか。

 今回以降のブログでは、こうした皇室の伝統の問題について、精神分析的に検討を行いたいと思います。

 

千八百年以上続く皇室

 三世紀の中頃、現在の奈良県桜井市に、それまでにない超大型の構造物が現れます。箸墓(はしはか)と呼ばれる、墳丘の長さ280メートル、高さ29メートルの巨大前方後円墳です。箸墓は、宮内庁が皇族の墓と認定して管理しています。つまり、三世紀中頃にはすでに巨大な皇族の墓が存在していたことになり、すると現在の皇室は、どれだけ短く見積もっても千八百年以上続いていることになります。

 建国以来千八百年以上の長きにわたって、一つの王朝が続いている国は世界に類を見ません。その意味で日本は、世界一の長寿国であると考えられます。常に戦いと栄枯盛衰が繰り返される世界の歴史の中で、皇室が現在まで続いていることは、まさに奇跡的な出来事だと言えるでしょう。

 では、日本ではなぜ、皇室が千八百年以上も継続してきたという奇跡が起こったのでしょうか。

 

和を以って貴しと為す

 聖徳太子が定めたとされる十七条憲法の第一条には、「和を以って貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為(せ)よ」とあります。聖徳太子は、和を最も尊び、争いごとをしないようにという教えを、社会の根本に据えようとしました。

 この精神は日本社会の根本原理であり続け、日本人の行動を根底から規定し続けました。現在の日本社会も、地域も、職場も、学校も、家庭も、友人関係も、良きにつけ悪しきにつけ、和を尊重するような行動原理に支配されています。つまり、日本は太古の時代から現代に至るまで、和の文化を持ち続けていると考えられます(この詳細は、2018年4月のブログ『日本人は無宗教なのか(1)(2)』をご参照ください)。

 わたしは日本が和の文化を持ち続けられていることと、皇室が現代まで続いていることは、表裏一体の関係にあると考えています。そして、皇室が千八百年以上も継続してきた要因は、この関係にあるとも考えています。

 そのことを検証するために、日本に和の文化が成立した経緯を検討することから始めましょう。

 

吹きだまりとしての日本列島

 繁栄を謳歌している現代とは異なり、アフリカから各大陸に拡散したころの人類は、絶滅の危機にたびたび瀕するような存在でした。生存も覚束ないころの人類が絶滅の危険を冒してまで新たな地に移り住んだのには、その地を離れざるを得ないやむにやまれぬ理由が存在していたはずです。そして、慣れ親しんだ環境から離れざるを得なかった理由の最たるものが、戦いに敗れ、新たな土地に移り住まざるを得ない状況に追い込まれたことにあったと考えられます。

 日本列島は、ユーラシア大陸の東端に位置しています。その地理的条件から言えることは、日本列島が、他の地を離れざるを得なかった人々の吹きだまりだったという可能性です。つまり、戦いに敗れ続けた人々の行き着く先として、日本列島が存在したのです。

 

戦いの文化を持たなかった縄文人

 そのことを象徴する出来事として、縄文時代には戦争の痕跡が認められないことが挙げられます。
 たとえば、縄文時代の遺跡からは攻撃用の武器や防具が見つかっていません。縄文時代も後期になると、剣や刀の形をした磨製石器が出現するようになりますが、石剣や石刀は先端が丸みを帯び、両側縁には刃が研がれていません。それらは武器として使用されたというよりも、それを振るう人の力や権威を呼び起こすための象徴であった可能性が高いと考えられています。
 また、道具や利器で傷つけられた人骨が、縄文の遺跡からは10例ほど知られていますが、集団で戦闘を行った形跡を示す縄文時代の人骨は発掘されていません。さらに、戦いのリーダーを奉った墓や戦いを現した芸術作品など、戦争の存在を示唆するものが縄文時代には認められないのです(以上の詳細は、2018年3月のブログ『縄文人はなぜ戦争をしなかったのか(1)(2)(3)』をご参照ください)。

 

弥生時代に持ち込まれた戦争の文化
 大陸や半島での内乱や戦争から逃れてきた人々は、稲作と共に戦いの文化も日本列島に持ち込みました。紀元前5~4世紀に九州北部で見られるようになった環濠集落や武器は、紀元前3世紀頃になると、中国・四国から近畿・東海にまで広がって行きました。それに伴い武器で傷を負った遺骸も、これらの地域で多く見つかっています。九州に上陸した戦いの文化は、こうして瞬く間に西日本一帯に広まりました。こうして縄文時代に1万年以上続いた戦いのない社会は、弥生時代になると、わずか100年余りで変容してしまいました。
 九州北部では紀元前3世紀から2世紀にかけて、中国・四国や近畿・東海では紀元前1世紀に入る頃から、戦いが激しさを増して行きます。ちょうどこの頃に朝鮮半島から、青銅や鉄といった金属製の武器がもたらされました。これと呼応するように傷を受けた遺骸の数も一気に増加しました。
 紀元後1世紀になると、西日本を中心に小国が分立する状態になりました。この頃から、九州から関東の広い範囲で鉄製の武器が普及し始めました。そして、3世紀に入るまでの期間に石から鉄へという武器の刷新がほぼ達成され、戦術においても、少人数による戦いから本格的な集団による戦いへと発展して行きました。

 

縄文人との関係
 しかし、弥生時代に始まった本格的な戦闘はほぼ弥生人同士に限られ、渡来系弥生人と在来の縄文人の間ではほとんど戦いが起きなかったと言われています。武器の傷が残る縄文系の遺骸が少数しか存在せず、しかもその遺跡には、弥生人生活様式を取り入れた痕跡が認められるからです。つまり、一般の縄文人は戦闘に参加しておらず、武器の傷が残った縄文人は、弥生人の文化にとけ込み、弥生人同士の戦闘に参加していたと考えられています。
 では、渡来集団である弥生人と、在来集団である縄文人が戦わなかったのはなぜなのでしょうか。その最も大きな要因が、縄文人が戦いの文化を持ち合わせていなかったことにあるでしょう。彼らは1万年以上に渡って戦いから遠ざかり、平穏な日々を送ってきました。そのため、戦いの文化を携えた弥生人と対峙することになっても、にわかに戦いを始めることができなかったのです。

 

縄文人との棲み分け
 一方、弥生人の側からみて、縄文人と戦わなかった理由が存在するのでしょうか。

 水田稲作が九州北部に伝えられたのが紀元前10世紀後半だったとすると、稲作が南関東に広まるまでに700~800年の歳月を要しています。弥生文化の浸透は、従来考えられてきたよりもゆっくりと進められました。しかもその過程で、瀬戸内、近畿、東海の各地において、縄文土器を使う集落と弥生土器を使う集落が、100年以上近接して併存していました。
 この併存は、各地が弥生文化に移行し終えた後にも地域差となって残された可能性があります。稲作を行う弥生人が平野部に、狩猟・採集を行う縄文人が山間部に、それぞれ棲み分けを行っていました。

 そのことを示唆する研究があります。岐阜県ミトコンドリアDNAを使って母方のルーツを試算したところ、山岳部の飛騨地方では縄文系が69%だったのに対して、平野部の美濃地方では縄文系は40%でした。また、関東甲信越地方のある県でY染色体を調べたところ、縄文人系の型は山間部では50%近かったのですが、都市部では20~30%だったといいます(以上、『ここまでわかってきた日本人の起源』1)163頁)。

 つまり古代日本では、渡来系の弥生人は、在来の縄文人を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしませんでした。弥生文化は時間をかけてゆっくり日本列島に広まり、東北地方や北海道、西南諸島には弥生文化が至らない地方も残されました。弥生文化に移行した地方にも地域差が残り、渡来系の弥生人と在来の縄文人は棲み分けを行っていたのです。

 

弥生人縄文人の混血

 さらに、現代に至っては弥生人縄文人の混血が進み、純粋な弥生人縄文人は存在しなくなっています。その結果、現代の本土人は、弥生系の遺伝子を概ね7~8割、縄文系の遺伝子を2~3割持っていると考えられます(上掲書156頁)。
 なぜ古代の日本人は、相手を攻め滅ぼしたり、奴隷として使役しようとしなかったのでしょうか。

 それは、縄文人弥生人が共に、戦いに敗れて日本列島にたどり着いた人々だったからです。弥生人は戦争の文化を携えてきましたが、彼らもまた戦いによって傷つき、大陸や半島から敗走してきたことに変わりありません。弥生人同士は、新たな地で自らの生活の場を確保するために互いに戦闘を繰り返しました。しかし、戦いの文化を持たない縄文人までを、戦いの渦に引き込むことはしませんでした。

 わたしは、そこには敗者同士の惻隠の情があったのではないかと考えていますが、いかかでしょうか。

(以上の詳細は、2018年3月のブログ『弥生人はなぜ縄文人との棲み分けを選んだのか(1)(2)』をご参照ください)。

 

 こうして縄文人弥生人が棲み分けを選んだことが、やがて和の文化を形成する基盤となって行ったのです。(続く)




文献
1)産経新聞 生命ビッグバン取材班:ここまでわかってきた日本人の起源.産経新聞出版,東京,2009.

参考文献

松木武彦:全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記.小学館,東京,2007.