出雲大社 戦争の文化を持ち込んだ人々(2)

 日本には縄文時代に、戦争のない平和な社会が1万4000年もの間続いていました。ところが、紀元前5世紀になると、大陸や半島から、日本にも戦争の文化が伝えられるようになります。

 今回のブログでは、戦争の文化が、日本の社会にどのような影響をもたらしたのかを検討したいと思います。

 

弥生人の渡来

 大陸では、紀元前8世紀から春秋時代に突入します。諸侯が群雄割拠して争う時代が始まり、その動乱は中国東北部から朝鮮半島にまで及びました。移民や難民が発生し、彼らと共に戦争の文化もこれらの地域に伝えられました。朝鮮半島では、紀元前6世紀頃には、石や青銅で作られた武器が現れています。

 紀元前5世紀の戦国時代になると鋼鉄製の武器が出現し、それに合わせて鉄製の鎧や兜が現れました。兵器技術の進歩に伴って富国強兵策がとられ、強国による弱小国併合の動きはますます強まります。弱肉強食の争いの結果残った7国は「戦国の七雄」と呼ばれ、各国はさらに存亡をかけて互いにしのぎを削りました。

 その中で朝鮮半島に影響を与えたのが、現在の北京を中心とする土地を支配した燕(えん)です。燕は紀元前4世紀半ばには、朝鮮半島近隣の遼東にまで進出しています。こうした激動の時代を通じて、大陸での戦いに敗れた人々や半島から圧迫された人々が、日本列島に逃れてきたのではないでしょうか。
 紀元前5~4世紀になると、水田の跡や集落の周りに堀をめぐらした環濠(かんごう)集落が九州北部で現れるようになります。環濠集落にみられる周囲の堀は、敵の襲撃から集落を守るための構造です。遺跡からは、朝鮮半島でみられる磨製石剣や磨製石鏃(せきぞく)といった武器が見つかっています。さらに、紀元前4世紀の王墓とみられる木棺墓からは、青銅の剣、矛、戈(か)といった武器が副葬されていました。

 つまり、この時代には戦争の文化を携えた人々が、大陸や半島から日本列島に移り住んできたのです。彼らを第1波の渡来者と呼ぶことにしましょう。

 

青銅や鉄の武器を携えた渡来人

 再び大陸に目を向けると、燕は紀元前280年頃に領地を最大に広げ、東は現在の河北省、遼寧省、さらには山東半島朝鮮半島北部までを領有しました。半島への侵攻は、その後も度々行われました。秦の後に興った漢は、積極的な軍事行動によって領土を広め、武帝の時代に広大な帝国となりました。東北方面では紀元前108年に衛氏(えいし)朝鮮を滅ぼして、朝鮮北部を直轄地としました。
 こうした大陸や半島の戦乱は、多くの移民や難民を生んだでしょう。そして、戦乱で敗れた人々の一部が、日本列島に渡ってきました。

 紀元前3世紀から2世紀に入る頃に、朝鮮半島から青銅で作られた短剣、矛、戈、といった武器がもたらされ、当時起こっていた九州北部での戦いで用いられました。紀元前1世紀頃になると、鉄で作られた短剣や矛、矢じりなどの武器が半島から伝わってきました。これら青銅や鉄製の武器は、大陸や半島から逃げ延びてきた人々が、日本列島に伝えたものだと考えられます。金属製の武器を携えて渡航してきた彼らを、第2波の渡来者と呼ぶことにしましょう。なお、第1波と第2波の渡来者の中には、弥生人だけでなく、半島に移り住んでいた縄文人の末裔も含まれていたと考えられます。

 

弥生人は中国から来た

 以上のような渡来者の存在を、裏づける遺骨の調査結果があります。1990年代に中国の山東半島で見つかった、戦国時代と前漢時代の人骨300体以上を調査したところ、九州北部や山口県の遺跡で見つかった弥生人と同じ顔長で鼻が低い特徴を持つ頭骨が多く存在しました。平均身長は男性約164cm、女性151cmで、やはり九州北部や山口県弥生人の身長(男性162~164cm、女性150~152cm)に近い値でした。

 また、「ヒラメ筋」と呼ばれる筋肉が付く頸骨部の線が突出している特徴も一致していました(以上、『ここまで分かってきた日本人の起源』1)122,124頁)。この結果は、両者が共通の祖先を持っていた可能性を示唆します。

 

弥生人は単身で渡来した?

 また、弥生人の起源を探る興味深い研究があります。縄文時代から古墳時代に相当する時期のアジア各地の遺跡(男性295遺跡、女性190遺跡)から出土した人骨の頭蓋データを集め、その最大長、最大幅など、7つの計測項目を比較検討したものです。

 それによれば、西日本の弥生人の男性と非常によく似ていたのは、縄文・弥生時代に相当する時期の中央アジア北アジアの人々でした。ところが、西日本の弥生人の女性は、男性とは異なり、同じ西日本の縄文人と最も似ていたのです(以上、『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』2)168-169頁)。
 この結果は、日本に渡来してきた人々が男性に偏っており、女性が少数だったことを示しています。つまり、西日本の弥生人集落の中では、弥生人の男性と縄文系の女性が一定数暮らしていたと考えられます。標本の数が充分でなく、ある特定の遺跡の傾向だけを表している可能性があるものの、上述の第1波、第2波の渡来者が戦争の文化や武器を携えて日本に渡ってきた人々であったとすれば、この研究結果を矛盾なく説明できるのではないでしょうか。

 

持ち込まれた戦争の文化

 大陸や半島での内乱や戦争から逃れてきた人々は、戦いの文化を日本列島に持ち込みました。紀元前5~4世紀に九州北部で見られるようになった環濠集落や武器は、紀元前3世紀頃になると、中国・四国から近畿・東海にまで広がって行きました。それに伴い武器で傷を負った遺骸も、これらの地域で多く見つかっています。九州に上陸した戦いの文化は、こうして瞬く間に西日本一帯に広まりました。縄文時代に1万4000年以上続いた戦いのない社会は、わずか100年余りで変容してしまったのです。
 最初期の戦いがいったん終息をみせた後、九州北部では紀元前3世紀から2世紀にかけて、中国・四国や近畿・東海では紀元前1世紀に入る頃から、再び戦いが激しさを増して行きます。ちょうどこの頃に朝鮮半島から、第2波の渡来者によって青銅や鉄といった金属製の武器がもたらされました。これと呼応するように傷を受けた遺骸の数も一気に増加しました。戦いが繰り返されるうちに各集団は次第に統合され、紀元前1世紀頃には九州北部にいくつもの小国が現れました。

 

本格的な戦い

 紀元後1世紀になると、西日本を中心に小国が分立する状態になりました。金印が見つかったことでその存在が知られる奴国(なこく)は、福岡平野にあった小国だと考えられています。中国の歴史書である『漢書』地理志には、「楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり、分かれて百余国と為る」と記されています。

 この頃から、九州から関東の広い範囲で鉄製の武器が普及し始めました。そして、3世紀に入るまでの期間に石から鉄へという武器の刷新がほぼ達成され、戦術においても、少人数による戦いから本格的な集団による戦いへと発展していったのです。

 

弥生人の戦争の文化

 弥生時代に誕生した小国の動勢については、中国の文献から類推することしかできません。『魏志倭人伝などの中国の歴史書によれば、倭国では1世紀の終わり頃から2世紀の初め頃に男の王を立てていましたが、70~80年ほど体制が続いた後に戦乱状態になりました。国々は互いに攻撃し合って治まる様子がなかったので、邪馬台国の女王卑弥呼を立てて共同の王にしたところ、3世紀に入ろうとする頃にようやく戦いが終息しました。

 弥生時代には大陸や半島から戦争の文化がもたらされ、それに伴って西日本の至るところで戦いが起こり、戦乱が繰り返されました。これほど短期間に戦争の文化が広まったのは、同時期に大陸や半島ではさらに激しい戦いが常態化していたからだと考えられます。そして、鉄などの交易の必要性もあって、倭の国々が大陸や半島と積極的に交流していたからでしょう。当時の日本は、東アジアで勃発していた戦乱の波に組み込まれ、否応なしに戦いを行わざるを得ない状況だったのです。

 

武力に価値を置かない文化

 しかし、倭国の社会を支配していた行動様式は、すでに大陸とはかなり異なったものになっていました。大陸での社会を支配するのは、まさに弱肉強食の原理です。戦争で相手を滅ぼし、最後に勝ち残った者が社会を支配します。中国には、天から与えられた徳を有する統治者が、その徳をもって人民を治めるべきだとする徳治主義という思想があります。しかし、中国では未だかつて、戦い以外の方法で統治する王朝が交代した例は認められません。
 これに対して、倭国では戦争では国々を統一できず、「鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑(まど)はす」とされた卑弥呼が女王に立つことによって国々がまとめられました。つまり邪馬台国連合は、武力の優劣ではなく、鬼道という呪術よってまとめられた一種の宗教連合体だったのです。

 このことは、倭国の国々が戦いでは優劣がつけられないほど力が均衡していた(または、相手国を倒せるほどの武力がなかった)可能性もありますが、むしろ当時の人々が、武力に最も重要な価値を置いていなかったことを現しているのではないでしょうか。(続く)

 

 

文献)

1)産経新聞 生命ビッグバン取材班:ここまでわかってきた日本人の起源.産経新聞出版,東京,2009.
2)溝口優司:アフリカで誕生した人類が日本人になるまで.ソフトバンク クリエイティブ,東京,2011.