出雲大社 戦争の文化を持ち込んだ人々(3)

 前回のブログでは、戦争の文化が日本に持ち込まれたの歴史的経緯について、考古学的な観点から概観しました。

 今回のブログでは、その歴史的経緯と神話の関係について検討したいと思います。

 

戦争の文化が伝えられた頃の日本

 紀元前5~4世紀になると、水田の跡や集落の周りに堀をめぐらした環濠(かんごう)集落が九州北部で現れるようになります。環濠集落にみられる周囲の堀は、敵の襲撃から集落を守るための構造です。遺跡からは、朝鮮半島でみられる磨製石剣や磨製石鏃(せきぞく)といった武器が見つかっています。さらに、紀元前4世紀の王墓とみられる木棺墓からは、青銅の武器が副葬されていました。

 この頃の九州には、地球の寒冷化に伴って関東や東北から移動してきた縄文人、鬼界カルデアの大噴火によって半島に渡っていた縄文人を祖先に持つ人々の帰還、そして大陸の戦乱から逃れてきた弥生人が共存する状況にあったと考えられます。

 大陸や半島での内乱や戦争から逃れてきた人々は、戦いの文化を日本列島に持ち込みました。それは大陸から渡ってきた弥生人だけでなく、半島に渡っていて戦争の文化に接した縄文人も含まれるでしょう。

 紀元前5~4世紀に九州北部で見られるようになった環濠集落や武器は、紀元前3世紀頃になると、中国・四国から近畿・東海にまで広がって行きました。それに伴い武器で傷を負った遺骸も、これらの地域で多く見つかっています。九州に上陸した戦いの文化は、こうして瞬く間に西日本一帯に広まりました。縄文時代に1万4000年以上続いた戦いのない社会は、わずか100年余りで変容してしまったのです。

 

金属製の武器によって戦争が激しさを増した

 戦争の文化の伝播によって、日本列島でも戦争が起こるようになりました。それでも西日本一帯に広まった戦争は、いったん終息します。日本には縄文時代という、1万4000年も続いた平和な文化が根付いていたからでしょう。

 しかし、戦争の終息は、間もなく破られることになります。紀元前3世紀から2世紀に入る頃に、半島から青銅で作られた短剣、矛、戈、といった武器がもたらされ、当時起こっていた九州北部での戦いで用いられました。さらに紀元前1世紀頃になると、鉄で作られた短剣や矛、矢じりなどの武器が半島から伝わってきました。これら青銅や鉄といった金属製の武器は、戦いをより激しいものに変容させました。これと呼応するように傷を受けた遺骸の数も一気に増加しました。戦いが繰り返されるうちに各集団は次第に統合され、紀元前1世紀頃には九州北部にいくつもの小国が現れました。

 この頃から、九州から関東の広い範囲で鉄製の武器が普及し始めました。そして、3世紀に入るまでの期間に石から鉄へという武器の刷新がほぼ達成され、戦術においても、少人数による戦いから本格的な集団による戦いへと発展していったのです。

 

出雲族は鉄製の武器に圧倒された

 鉄製の武器が九州に伝えられた紀元前1世から、それが西日本に伝わる過程で、古事記に記された「国譲り」は行われたと考えられます。

 ここで、古事記に記された「国譲りの神話」を振り返ってみましょう。

 大国主オオクニヌシ)が造った葦原の中つ国(出雲の国)は、地上で大いに繁栄しました。その様子を高天原から見ていた天照(アマテラス)が、「わが子が治めるべき国である」と仰せになりました。つまり高天原が、葦原の中つ国を征服すると宣言しました。ところが、息子たちを使わしても、葦原の中つ国を征服することができません。そこで業を煮やしたアマテラスは、ついに武力行使に出ます。

 アマテラスは、武神である建御雷タケミカヅチ)を、天空を鳥のように飛行する船の神である天鳥船(アメノトリフネ)と共に遣わしました。

 出雲の伊那佐の浜に降り立ったタケミカヅチは、十拳の剣(とつかのつるぎ)を逆さまに突き立て、尖った剣の先にあぐらをかいて座りながら、オオクニヌシに国譲りを迫りました。

 「尖った剣の先にあぐらをかいて座る」とは、何を意味するのでしょう。この描写は、空中に浮かんで制止する超能力がある、または剣を自由自在に扱える力を有することを暗示しています。転じて、タケミカヅチは常識を越えた力を持っている、すなわち圧倒的な軍事力を引き連れて伊那佐の浜に押し寄せたことを現しているのだと考えられます。そして、この剣こそ、鉄製の武器の存在を象徴的に現しているのではないでしょうか。

 

出雲には青銅製の武器しかなかった

 タケミカヅチの力に圧倒されたオオクニヌシは、自分の跡を継いだ事代主(コトシロヌシ)に尋ねるようにと返答することしかできませんでした。

 圧倒的な軍事力を持ったタケミカヅチに国譲りを迫られたコトシロヌシは、タケミカヅチの圧倒的な軍事力の前にやむなく降伏し、そして恨みを残して入水自殺を図りました。

 もう一人の息子である建御名方(タケミナカタ)は、国譲りには納得せず、タケミカヅチに力比べをしようと申し出ます。タケミカヅチは、タケミナカタの手をつかんだかと思うと「やわらかな葦のように」握りつぶし、身体ごと放り投げました。タケミナカタ信濃の国にまで追い詰められ、ついに諏訪の湖で「葦原の中つ国はすべて差しだそう」とタケミカヅチに答えました。

 ここでいう「力比べ」とは、文字通りの意味ではなく、武力を用いた戦いを暗示しています。タケミカヅチタケミナカタの手をつかみ、「やわらかな葦のように」握りつぶして身体ごと放り投げたという文は、タケミカヅチの軍がタケミナカタの軍を圧倒したことを現しています。そして「やわらかな葦のように握りつぶした」という表現は、鉄製の武器に対して、青銅製の武器が「葦のようにやわらかい」ことを示しているのではないかと考えられます。

 

出雲から358本の銅剣が発掘される

 1984年の夏、出雲市斐川町荒神谷(こうじんだに)遺跡で、青銅製の銅剣358本が発見されます。それ以前に発見されていた銅剣は合わせても300本余りでしたので、これは驚異的な出来事でした。さらに翌年には銅鐸6個、銅矛16本が出土し、古代出雲は全国から注目を集めることになりました。

 

                      

 この写真は、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されている銅剣です。

 荒神谷遺跡から出土したこの銅剣は、茎(なかご)が短く刃も薄い祭祀用のものだといいます。では、祭祀用の銅剣が一度に大量に埋められたのはどうしてなのでしょうか。

 358本の銅剣のうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で✕印が刻まれています。これは祭祀用の銅剣が意味をなさなくなった、つまり、青銅製の武器が神聖な力を備えたものではなくなったことを意味しているのではないでしょうか。それはすなわち、古代出雲大国を支えていた青銅製の武器が威力を失い、鉄製の武器に圧倒されたことを示していると考えられるのです。

 

 では、鉄製の武器に圧倒された古代出雲王国の人々は、「国譲り」の後にどのような運命を辿ることになったのでしょうか。(続く)