神谷宗弊は冷酷で不誠実なのか(1)

 参政党で、また問題が勃発しました。参政党党首の神谷宗弊氏の公設第一秘書だった女性が、昨年の12月末に自殺したことが明らかになったのです。その詳細は分かっていませんが、さっそく武田邦彦氏が参政党と神谷氏を徹底的に非難し出しました。

 今回のブログは予定を変更して、武田氏の非難には正当性があるのか、そして武田氏の主張するように、今回の出来事の原因がすべて神谷氏にあるのかを検証してみたいと思います。

 

元公設第一秘書の自殺

 衝撃的なニュースは、元公設第一秘書の娘さんから発表されました。その平岡花梨さんは、神谷宗弊氏が加賀市内で新たな学校づくりを掲げる「加賀プロジェクト」の一環である、加賀塾の代表を務められていました。

 1月26日のFacebookで、平岡さんは次のように語っています。

 

私、平岡は本日を以て

加賀塾をやめさせていただきます。

これまで

加賀プロジェクト内の

加賀塾の運営を続けて参りましたが

辛いことが重なり

続けることが難しくなりました。

未だ気持ちの整理がついておらず

詳しく申し上げるのは

差し控えさせていただきますが

昨年12月に

私の母が他界しました。

9月まで参政党の

事務の仕事を行なっており

その中では

相当の苦労、心痛もあったのだと思います。

悔やんでも悔やみきれません。

(中略)

正直に申し上げますと

神谷宗弊氏関連の事業には

今後一切関わりたくありません。

応援してくださった皆さまの

ご期待に沿うことができず

大変申し訳ございません。

(後略)

 

 この発表からは、加賀塾代表を務められていた娘さんの、ショックと無念さが伝わってきます。

 

参政党の騒動に巻き込まれた

 まず、最初にお断りしておかなければなりませんが、亡くなられた方のことを、この時期にブログで取り上げるのは適切ではないかも知れません。しかし、参政党の存続に発展しかねない問題になっていますので、ご家族にはご容赦いただきたいと思います。

 平岡さんは母親の自殺という現実をまだ受け止めきれずに、加賀塾代表の仕事自体を続けられなくなったと語っています。そして、「神谷宗弊氏関連の事業には、今後一切関わりたくありません」との発言からは、母親の死に神谷宗弊氏からの(または神谷氏が関係する活動からの)影響が大きかったことが窺われます。

 一方で、「9月まで参政党の事務の仕事を行なっており、その中では相当の苦労、心痛もあったのだと思います」という発言からは、8月30日の代表交代劇にまつわる参政党の騒動に巻き込まれたらしいこと、そして秘書の仕事は9月までで、それ以降は参政党の仕事からは離れていたことが分かります。

 

僕は特攻になれなかった

 この出来事に対して武田邦彦氏は、『僕は特攻になれなかった』(「武田邦彦先生ファンチャンネル」)と題した動画を挙げて、神谷宗弊氏と参政党を徹底的に非難しています。以下の内容は、その一部をわたしが文字興ししたものですが、全容を知りたい方には、直接 YouTube を観ていただくことをお勧めします。

 

 「参政党が候補者を出すというときに、立候補の決意をしました。そのときに既に参政党におられて、大幹部でありました方が、つい最近自ら命を絶ちました。人物としては極めて立派な方でした。参政党に耐えきれず、自ら命を絶つということになりました」

 

 亡くなった方は結党の早い時期からいた、参政党の幹部クラスの人物であったようです。武田氏によれば、その方が「参政党に耐えきれず」に自ら命を絶ったというのです。

 参政党に耐えきれずに自殺するとは、一体どういうのこなのか。その疑問に答えることなく、武田氏は唐突に、涙ながらに次のように訴えます。

 

 「私は特攻になれませんでした。この世の中で一番大切なことは、他人の命を救うために自分の命を捨てるという勇気なんです。

 親が子どものために命を捨てることがあります。それが人間にとって、一番重要だからです」

 

 「私が特攻になれなかった」の意味は後に明らかになりますが、それはともかく、「この世の中で一番大切なことは、他人の命を救うために自分の命を捨てるという勇気」なのでしょうか。

 わたしは医師を職業にしていますが、人の命を救うために大切なことは、大局に立って冷静に危機的状況に対処することです。たとえば精神科医を主人公にしたドラマでは、自殺しようと海に飛び込んだ患者を助けようとして、医師が自分も海に飛び込む場面が描かれたりしますが、それは最悪の選択です。助けるべき立場の医師が飛び込んだら、一緒におぼれ死んでしまうかも知れません。本当にその人を助けようと思ったら、医師はしっかりと陸地に足を着け、ひもの付いた浮き輪を投げ込まなければなりません(これは実際の診療の比喩としても使います)。

 涙ながらに「私は特攻になれなかった」と訴えることは、人の心情に訴えかける扇動家としては有効な手法かも知れませんが、結果を求められる政治家の手法としては不適切だと思います。

 わたしはこの時点で、武田氏の訴えに、非常に意図的、演技的なものを感じました。

 

参政党は人間性を感じられない

 ここで武田氏の非難は参政党に向かいます。

 

 「一昨年の参議院選挙の後から、急激に変貌していく参政党の中にいて、大変な危機を感じました。参政党で一生懸命やっている人を、内部分解だとか、クーデターだとか、分断だとか、工作員だとか誹謗して攻撃をするという状態は、本当に耐えられないことでありました。

 人間というものを感じられる党ではどんどんなくなった。去年の3月くらいには、参政党は通常の党とはまったくかけ離れた、人間性のない内容に変わっていったわけです」

 

 この辺りの内容は、昨年の党首の交代劇前後に繰り広げられた、参政党の内紛劇を言っているのだと思われます。

 当然神谷氏側にも言い分はあるでしょうが、神谷氏が衆議院議員選挙に向けて党勢拡大を急ぐあまり、本部が無理な人事を進めすぎたという側面があったのではないかとわたしは推察しています。

 

この人は危ないなと思いました

 さて、この内紛の中で、参政党から外されたり、自ら辞めていった人が合わせて2割近くいたと、神谷氏も最近の演説の中で認めています。

 武田氏は、この過程の中で危険なことが起きていたと指摘します。

 

 「その中で多くの人が泣いて、悔しい思いをして、そして去って行く人も多くありました。私はその中で、この人危ないなと思いました」

 

 なんと武田氏は、この時点で亡くなった秘書の方の状態が危ないと感じていたと言います。武田氏のその後の行動は、この方の危ない状態を何とかしたかったからだと言うのです。

 

 「そこでまず、党を普通にしようと。自分がそんなとこで傍観的ではダメだと思って。赤尾さんとか吉野さんとか、そういう気持ちを持った人と共に、参政党をなんとか非人間的ではない存在にしたいと思って。

 6月28日のボード会議では強く事務方を叱責し、私がなんでこんな風に言わなければいけないかを説明しました」

 

 ボード会議での事務方への叱責は、危険な状態であった秘書の方を救うために(少なくとも重要な目的の一つとして)行ったのだと武田氏は主張します。

 これは本当でしょうか。もし、秘書の方を助けたいのなら、事務方を叱責するのは良い方法だとは思えません。むしろ、「君たちが長年苦楽をともにしてきた秘書さんが大変苦しんでおられる。彼女のためにも、今のやり方を考え直してくれないか」と丁寧に語りかけた方が効果的だとわたしは思います。事実、武田氏の叱責によって、事務方は態度をさらに硬化させたといいます。

 そもそも秘書の方が悩んでおられたのは、武田氏の言うように、神谷氏や事務方の運営方針の変貌を受け入れられなかったからなのでしょうか。今となっては確認のしようがありませんが、秘書として長年支えてきた神谷氏と、武田氏、赤尾氏、吉野氏の間に挟まれ、その軋轢の中で苦しんでいた可能性はないのでしょうか。

 

命を救うために参政党非難を始めた

 武田氏は11月に入ると、SNSを使って、神谷宗弊氏と参政党への批判を連日のように発信します。武田氏によれば、この行動を起こしたのには、次のような重要な目的があったからだと言います。

 

 「10月の最初から、命を救わないといかんと思いました。あと僕ができることは、ネットで配信し、皆の協力を得ることでした」

 

 武田氏によれば、ネットで参政党の批判を始めたのは、秘書の方の命を救うためだったと言うのです。

 神谷氏や参政党の問題をあぶり出して批判することが、秘書の方の命を救うためにどのような効果があるというのでしょう。長年参政党で活動し、しかも公設第一秘書として神谷氏を支えてきた方であれば、参政党や神谷氏を徹底的にこき下ろす武田氏の話しを聞いて、果たして救われると感じるでしょうか。

 

党員の多くは武田氏に従わなかった

 武田氏の奮闘虚しく、多くの人は参政党に残りました。

 

 「今度命を絶った方と一緒にやってきた人ですら、私の言うことを理解してくれませんでした。多くの人が参政党に残り、神谷のはっきりとした二枚舌を知っている人ですら、私に反撃をしてきました。

 私の計画は失敗しました。2ヶ月にわたって、私が最後になんとか参政党を正常にしたいという思いで、内部でも発信してもダメだった。各支部には、もう本部・事務方の言うことは聞かないでくれ、それぞれの県にある支部が独立してくれ、こうお願いをしました。かなりの人はそれを理解してくれましたけど、それでもなぜか、参政党をそのままやったり、参政党の党員を続けたりしました」

 

 参政党の党員の多くが、武田氏に従わなかった理由は後に述べたいと思います。

 

僕はどうなってもいい 

 武田氏の参政党批判は、思わぬ非難を受けることになります。

 

 「参政党に関係のないジャーナリストとか、そういう人までが、武田は何を言っているんだと。いや、それは全然構わない。私なんかどうでもいい。実は僕はもっと酷い目に遭うべきだった」

 

 正しい行動を起こしたのに、賛同を得られないばかりか、なぜか非難されることすら起こる。武田氏はこうした反応に対して、「僕なんかどうでもい」と返します。他の動画でも、「僕のことはどうでもいいんです。僕なんかどうなったっていいんです」と繰り返し語っています。

 それどころか武田氏は、「実はもっと酷い目に遭うべきだった」と述べてこう続けます。

 

 「私は特攻になるべきだったんです。人の命を救うために、自分の命を捨てた方が良かったんです。こんなに老いさらばえて、若い有望で真面目な、大切な人を失うんだったら、やはり特攻であるべきだったんです」

 

 ここでまた、「特攻であるべきだった」というフレーズが出てきました。これはどういう意味なのでしょうか。

 

机を蹴って人を殴り倒す必要があった

  武田氏は、元秘書の方が亡くなったことに対して、以下のように述べました。

 

 「ものすごく反省しています。中心的な立場にいた僕が、彼女が命を絶たなければいけない状態まで何もできなかった。いや、もしかしたらあったかも知れません。

 6月28日に机を蹴って、そこにいる人たちを殴り倒す必要があったかも知れません。そして、私が殴られて死んだかも知れません。その方が良かったかも知れません」

 

 武田氏のいう特攻とは、「机を蹴って事務方の人々を殴り倒し、反撃にあった自分が殴られて死ぬ」ことのようです。さすがにこれは極端な例示でしょうが、要するに自分が犠牲になって、参政党と差し違えて党を消滅させる、またはそれができなくても、決定的な打撃を与えることを意味しているのでしょう。

 この対応が、秘書の方を救うことになるとはとても思えません。もしこのような企てが実際に起こったら、参政党の幹部であった彼女をさらに苦しめることになったとわたしは思います。

 そもそも武田氏は、参政党が民主的な組織ではなくなったと非難していたのです。それなのに、自分が特攻になるべきだった、事務方の人を殴り倒してでも参政党を変えるべきだったと訴えること自体が、大きな自己矛盾であると思われないのでしょうか。

 

周りの人が賛同さえしてくれれば

 ここから武田氏の視点は、周囲の人たちに向かいます。

 

 「去年の暮れも私の呼びかけに対して批判した人たちを非難することはできませんが、(私の呼びかけに)同意してくれれば、それが彼女の力となり、命を絶つのを思いとどまってくれるんじゃないかと思いました。

 皆が現状を批判し、それはいけないことだと、もっと民主的にやらなきゃダメなんだと言ってくれれば、お金の使い方もそれじゃだめなんだと言ってくれれば、彼女の命が救われたんじゃないかと思います」

 

 武田氏は、自分の呼びかけに周囲の人たちが同意し、参政党を批判してくれれば、彼女の命が救われたと主張します。つまり、彼女を救えなかった責任を、自分の呼びかけに賛同しなかった周囲の人たちに向けたのです。

 

神谷ということすらはばかられる

 ここで武田氏の言う、真犯人が登場します。

 

 「悪いことが勝ち、正しいことが命を絶つ。その現実は何なんでしょうか。

 私は性格も知り、参政党の中で行われたことも知って、今や神谷さんなどという名前を呼ぶことができません。神谷と、それも言うことすらはばかられるくらいの状態。耐えられない方が正しいですよ。耐えられない方の方が日本人でした」

 

 武田氏は、ここで神谷氏を悪と断定します。神谷氏が諸悪の根源だというのです。すなわち、今や神谷と呼び捨てにすることすらはばかられると武田氏は断罪し、そして、秘書の方が亡くなった責任をすべて神谷氏に負わせようとします。

 いったい神谷氏と参政党の本部は、どれほど残酷なことをしたと言うのでしょう。本当に命を絶たなければならないような、残虐な仕打ちをされたのでしょうか。

 そもそも秘書の方が亡くなった原因は、すべて神谷氏側にあるのでしょうか。武田氏には何の責任もないのでしょうか。

 

 これらの疑問については、次回のブログで検討したいと思います。(続く)