若者はなぜ死に走るのか(4)

 前回のブログでは、日本の若者は自己肯定感が低いこと、そして自己肯定感が低い若者の中には、自己否定感をもつ人たちがいることを指摘しました。さらに、自己否定感とその背景に存在する対人不信感が、周囲の者の対応によって増強してゆく過程を示しました。増強した自己否定感と対人不信感が若者に絶望感と孤立感を抱かせ、この絶望と孤立が若者の自殺を生んでいる可能性を検討しました。

 今回と次回のブログでは、日本の若者に自己肯定感が低い理由を、日本の歴史的側面から検討したいと思います。

 日本の近代史には、3つの大きなトラウマが存在します。このトラウマが、現代の若者に自己肯定感が育まれないことの重要な要因になっているとわたしは考えています。

 以下に、順を追って説明してゆきましょう。

 

ペリー来航と開国

 一つ目のトラウマは、ペリーの来航と開国です。

 近年、江戸時代は必ずしも鎖国をしていたわけではない、とする見解が主流になってきているといいます。それは幕府がスペインやポルトガルとの関係は絶っていましたが、オランダだけでなく中国や朝鮮、そして琉球との交易は続けており、日本が東アジアの中で孤立していたわけではないと認識されてきたからです。 

 しかし、日本が国を閉じていなかったにしろ、幕府が自主的に交易する相手を決め、望ましくない相手との関係を絶っていたという側面は存在するでしょう。こうした自主的な対外政策は、外国との無用な争いを避けるためには有効な手段だったでしょうし、ヨーロッパから遠く離れていた日本の位置や、四方を海に囲まれた日本列島の環境がそれを可能にしていました。江戸時代の日本は、鎖国政策のもと専ら国内に目を向け、平和で和やかな社会を維持することに専心していたのです。

 ところが、日本は太平の眠りから一気に覚醒させられました。1853年と翌54年の二度にわたって浦和に来航したペリーは、江戸幕府に開国を迫ります。黒船によって示された技術力と軍事力に、幕府はなす術もなく圧倒されました。なぜ圧倒されたかと言えば、黒船の登場によって、日本の安全が根底から覆されたからです。
 それまでの日本列島は、四方を海に囲まれた天然の要塞でした。日本がいわゆる鎖国政策を採れたのも、そうした地理的環境が有利に働いていたからです。しかし、自由に航路を決められる蒸気船の登場とそこに搭載された巨大な大砲によって、日本は四方の海のどこからでも攻撃を受け得る危険を有する国家になりました。つまり蒸気船の登場によって、日本は最も安全な国家から、最も危険に晒された国家へと180度変わりました。そのことをペリーによって思い知らされた幕府は、頑なに拒絶してきた開国要求を、一転して受け入れざるを得なくなりました。
 こうしてペリーの恫喝外交に屈した幕府は、200年以上に渡って続けてきた「鎖国」を解き、アメリカとの間に屈辱的な不平等条約を結ぶことを余儀なくされました。この事件の衝撃は計り知れず、265年間続いた江戸幕府は倒れ、新たに明治政府が樹立されたのです。

 

富国強兵と和魂洋才

 軍事力によって無理やり開国させられた日本は、欧米諸国から植民地にされることを避けるために、近代化を推し進める途を選びました。そのために文明開化を強行し、富国強兵政策に邁進しました。急速な西洋化は、ともすれば「鹿鳴館」のように猿まねと揶揄されかねないものでしたが、欧米諸国の魔の手から国を守るためにはなりふりは構っていられませんでした。

 そのかいあって日本は、短期間で近代化を達成し、強大な軍事力を保有する国家へと成長しました。20世紀初頭には世界の大半は欧米諸国の植民地または半植民地化されましたが、日本だけは独立を保ったばかりか、欧米諸国と肩を並べる軍事強国にのし上がりました。

 一方で、急速に西洋化をはかったことで、日本に継承されてきた文化を破壊する結果を招きました。西洋化に伴う日本文化の破壊は、日本人に屈辱感を湧き起こしました。この屈辱感を解消するためのスローガンが「和魂洋才」でした。

 西洋からの優れた学問・知識・技術などを一方的に取り入れて学ぶことは屈辱的ではあるが、知識や技術を取り入れても、日本に受け継がれてきた和の心を失わなければいいのではないか。こう思うことで、日本人は屈辱感を心の奥底に抑圧し、さらなる西洋化を推し進めたのです。

 

無差別爆撃と原爆の投下

 二つ目のトラウマは、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦とGHGによる6年8カ月にわたる占領です。

 急速な西洋化は、日本を欧米列強と同様の行動様式を採る国へと変貌させました。日本は日清・日露戦争の後も、第一次世界対戦、そして第二次世界大戦に参戦しました。第二次世界大戦では、戦争末期に日本は、アメリカ軍から大都市の無差別爆撃や、広島・長崎への原爆投下を受けました。

 無差別爆撃は、日本に対して徹底して行われました。1945年3月10日にアメリカ空軍によって行われた東京大空襲では、26万戸以上の家屋が焼失し、10万人もの犠牲者を出しました。日本家屋が燃えやすい木造住宅であることを計算したうえで、多量の焼夷弾が使用されました。
 アメリカ軍による空襲は、終戦までに中小都市を含む206都市に及びました。全国で26万人の死者と42万人の負傷者を出しましたが、その大部分が非戦闘員でした。空襲によって日本の各都市は、まさに廃墟と化しました。

 無差別爆撃の極致が、原爆の投下でした。アメリカ空軍は、1945年8月6日に広島に、続いて8月9日に長崎に相次いで原爆を投下しました。原爆によって両都市は破壊し尽くされ、36万人もの一般市民が犠牲となりました(原爆による死者は、広島市で24万人以上、長崎市で12万人以上と推定されています)。すでに日本の敗戦が決定的であったこの時期に、2発もの原爆投下をおこなったことを、アメリカは「戦争を早く終結させ、本土上陸が行われた場合に予想されるアメリカ人兵士の犠牲を避けるために必要であった」と正当化しました。

 このような一般民間人の大量虐殺は、どう正当化をしようとも明らかな戦争犯罪であると言えるでしょう。

 

WGIPによる洗脳政策

 こうした明らかな戦争犯罪を覆い隠すと共に、日本人が再びアメリカに対して敵愾心を抱かないように、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)は、日本国民に対してWGIP(ウォーギルト・インフォメーション・プログラム)という洗脳教育を行いました。

 WGIPとは、「悲惨な戦争を引き起こしたのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべて『軍国主義者』がもたらしたのであって、アメリカには何ら責任はない」という情報を教え込むという施策です。

 WGIPは、学校教育だけでなく、ラジオや新聞で繰り返し伝えられましたが、当初はそれほど大きな効果を上げませんでした。WGIPGHQが直接、間接に関与したことであり、占領政策の一環であることが日本国民からは明らかだったからです。

 しかし、このプログラムに影響された日本人が、自らの意見として発信するようになると、その効果は無視できないものになって行きます。

 第二次大戦による日本の惨劇は「軍国主義者」によってもたらされた、と信じる日本人は実際に出現しました。彼らは「軍国主義者」が日本国民を戦争に巻き込み、日本に歴史上最大の惨禍をもたらしたと発信するようになります。そして、「軍国主義者」という過去の日本人が悪の権化であると信じ、今も戦前の日本政府と軍人たちを糾弾し続けているのです。

 

GHQによる占領政策

 GHQは日本人に洗脳政策を行うと共に、日本の国家を根本的に改変しました。

 GHQによる日本の占領は、1945年から6年8ヶ月に渡って続けられました。この間に日本は、まず軍事機構と国家警察を解体され、極東国際軍事裁判所で東条英機A級戦犯28名が戦争責任を問われて刑に処されました。並行して憲法改正が行われ、GHQの原案をもとに日本国憲法が制定されます。この新たな憲法は、主権在民象徴天皇制戦争放棄基本的人権の尊重など、明治憲法の内容を一新したものでした。
 新憲法のもとで政治の民主化が図られ、続いて資本財閥の解体、そして農地改革が行われました。内政は日本政府が担ったもののGHQの影響下に置かれ、日本政府は外交権すら持てませんでした。

 このように日本は、アメリカから完全に支配され、統治されていたのです。

 

現在も続くアメリカからの政治支配

 驚くべきことに、アメリカからの政治的な支配はその後も継続し、GHQが去って70年以上が経過した現在も続いています。

 戦後の政治家で、アメリカから独立しようとし、日本独自の政策を行ったのは田中角栄首相と安倍晋三首相の二人だけでした。その二人の首相が、不幸な政治生命の終わり方を迎えたのは偶然ではないかも知れません。

 現在の岸田首相は、安倍首相が暗殺されてからは、アメリカの傀儡政権ではないかと見まがうばかりの対米盲従政策を連発しています。ワクチン政策、武器購入政策、LGBT法案の成立、ウクライナへの巨額支援政策などにその一端をみることができます。岸田首相はアメリカへ最大級の貢献を果たし、一方で、日本人に最も多くの損失与えた政治家となりました。その被害の甚大さから考えれば、岸田首相は民主党鳩山首相菅首相を超えた、戦後最悪のリーダーになったとわたしは考えています。

 このように日本は、軍事的にはもちろん、未だに政治的にも独立した国家になっていません。国家が自立していない状況で、そこに生まれ育った若者に自尊心が育まれないのは、ある意味当然のことだと言えるのではないでしょうか。

 

 次回のブログでは、日本近代史における三つ目のトラウマについてお話ししたいと思います。(続く)