日本政府はなぜ危険なワクチンを買い続けているのか(12)

 前回のブログでは、日本政府が国民の健康を害してまでワクチンを購入しようとする理由について、心理的な側面から分析しました。

 戦後の占領期に、GHQによって洗脳を受けた人たちは、日本が先の大戦を起こした責任は「軍国主義者」にあり、日本国民は「軍国主義者」が起こした戦争の犠牲者であるという構図を信じ込むようになりました。そして、軍国主義思想や軍備を拡充しようとする行為こそが戦争を招くと断じ、平和憲法を守って米軍を日本から撤退させれば日本には平和が訪れると主張しています。

 彼らは、不都合な現実を否認し、非現実的な理想論を主張するというこの行動様式を、新型コロナ感染症対策でも示しました。国民全員にPCR検査を行って陽性者を隔離すれば新型コロナ感染症の拡大は阻止できると主張して「ゼロ・コロナ政策」を唱えたり、ワクチンを接種しさえすれば新型コロナ感染症は終息すると主張してワクチン接種の必要性を声高に訴えました。そのお陰で、医療現場は混乱し、不必要な行動制限のために経済活動は停滞しました。また、ワクチン接種を繰り返すことによって却って感染は拡大し、コロナ死だけでなく、超過死亡数の異常な増加を招きました。

 ただし彼らは、新型コロナ感染症の恐怖を煽り、不必要な対策を後押しした扇動者ではありますが、ワクチン行政を主導した首謀者ではありません。

 今回のブログでは、ワクチン行政を主導した日本政府や厚労省が、感染を防げないだけでなく危険性が明らかになったワクチンを、なぜ未だに国民に打ち続けようとしているのかについて検討したいと思います。

 

アメリカの残忍さに戦々恐々とする

 GHQWGIP(ウォーギルト・インフォメーション・プログラム)を信じなかった人たちには、アメリカ軍の残忍さが現実のものとして記憶に残されました。

 アメリカ軍の無差別爆撃は、日本に対しては徹底して行われました。1945年3月10日にアメリカ空軍によって行われた東京大空襲では、26万戸以上の家屋が焼失し、10万人もの犠牲者を出しました。日本家屋が燃えやすい木造住宅であることを計算したうえで、多量の焼夷弾を投下したのです。実際に日本家屋の模型を作って、その威力を確認したうえで焼夷弾を使用したことからも分かるように、アメリカ軍の目的は都市の破壊と、非戦闘員の殺傷でした。
 アメリカ軍による空襲は、終戦までに中小都市を含む206都市に及びました。全国で26万人の死者と42万人の負傷者を出しましたが、その大部分が非戦闘員でした。さらに、空襲によって、日本の各都市は廃墟と化しました。

 無差別爆撃の極致が、原爆の投下でした。アメリカ空軍は、1945年8月6日に広島に、続いて8月9日に長崎に相次いで原爆を投下しました。原爆によって両都市は破壊し尽くされ、36万人もの一般市民が犠牲となりました。原爆による死者は、広島市で24万人以上、長崎市で12万人以上と推定されていますが、後遺症で亡くなった人や長年苦しんだ人を加えれば、その数はさらに膨大になります。

 アメリカ軍は、喩えでなく本当に「鬼畜」でした。敵に対しては、情け容赦のない徹底した破壊を繰り返す残忍性を持っていました。その残忍性を肌で感じた人たちにとっては、アメリカ軍は恐怖の対象でしかなかったでしょう。

 

過酷ではなかった占領政策

 戦争では情け容赦のない残忍性を示したアメリカ軍でしたが、その占領政策は、意外にも穏当なものでした。それは、アメリカ軍人の性格が本来は温厚だったからではありません。占領政策の目的が、日本が二度とアメリカに戦争を仕掛けてこないように仕向けることにあったからです。

 WGIP(ウォーギルト・インフォメーション・プログラム)による、戦争の責任は「軍国主義者」にあって、「国民」はその犠牲者に過ぎないというプロパガンダも、その一環として行われました。戦争を起こした責任はアメリカにはない。それだけでなく、日本国民のみならずアメリカ人さえも、狂信的な「軍国主義者」のせいで無駄な戦争に巻き込まれたのだという構図を作り上げようとしたのです。戦争放棄を謳った平和憲法を制定したのも、日本が復讐の戦争を起こせないようにする目的があったと考えられます。

 そして、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)は、犠牲者である「国民」に二度と無駄な戦争を起こさないよう、「正しい価値観」を教え諭す立場で人々に接しました。

 

日本国民の“保護者”になったマッカーサー

 「正しい価値観」を教え諭すという立場のトップに立ったのが、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。

 マッカーサーは、自身の回顧録の中で、次のように語っています。

 

 「私は戦争でほとんど完全に破壊された一つの国家を再建する、という仕事を課されたのであった。私はかつて学んだ道義的な教えや、自分のもつ個性や、あるいは私の心の底にある人間観といったものからとにかく何かをひきずり出して、この政治的、経済的、精神的空白の中に名誉、正義、同情の観念をつぎ込むという任務に当面していた。日本はいまや、国民を全体主義的な軍部の支配から解きはなち、政府を内部から自由化するという実験の一大研究所となったのである」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』1)182頁)

 

 このようにマッカーサーによる占領政策における課題は、政治、経済、軍事の領域を超えて、日本人の精神的な側面にまで及んだのです。

 そして、占領施策を行うマッカーサーは、日本人の保護者であると自認し、保護者としての深い責任感すら感じていました。

 

 「私が一貫して、時には自分の代表する諸大国に反対してまでも、日本国民を公正に取り扱うことを強調していることがわかってくるにつれて、日本国民は、私を征服者ではなく、保護者とみなしはじめたのである。私は、これほど劇的な形で私の責任下に置かれた日本人に対して、保護者としての深い責任感を感じていた」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』185頁)

 

 マッカーサー自身が語っているように、彼は征服者としてでなく、保護者として振る舞ったのでした。

 

父と子の関係

 マッカーサーと日本人は、まさに圧倒的な力を持った父親と子どもの関係にありました。戦後の日本人はこの関係を受け入れ、自分自身を「マッカーサーの子」と呼ぶことが習慣のようになっていたと言います。

 マッカーサー解任が発表された翌日、朝日新聞は次のような社説を掲載しています。

 

 「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」(『敗北を抱きしめて[下]』2)403頁)

 

 日本の復興を親切に導き、「子供の成長を喜ぶように」激励し続けてくれたマッカーサーに対して、日本人は最大限の感謝の言葉を贈りました。

 このように日本人は、戦争の責任を一部の軍人や政治家に負わせるGHQの政策を受け入れたうえで、自らを子どもの立場に置き換え、征服者であるマッカーサーとの間に親愛感情を沸き立たせました。そして、この親愛感情を拠りどころとし、占領政策を自ら進んで誠実に受け入れる態度を示すことによって、現実の屈辱感から目をそらしていたのです。

 

12歳の少年

 しかし、この欺瞞は、もろくも崩れ去ることになります。それは、アメリカに帰国した後に行われた上院合同委員会で、マッカーサーが発言した内容を伝え聞いたことによってもたらされました。
 日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護して行くのか、日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーは次のように答えました。

 

 「もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導をうけるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです」(『敗北を抱きしめて[下]』406頁)

 

 マッカーサーの発言の主旨は、日本が近代文明の尺度で言えばまだ未成熟な段階にあり、「柔軟で新しい考えを受け入れることができる状態」だったからこそ占領政策は非常に上手くいったのであり、その結果として占領後の日本人はドイツ人よりも信用できるようになったと主張することにありました。

 ところが、この発言においてはからずも彼が、日本人の成熟度は「12歳の少年といったところ」であり、「指導を受けるべき状態」であったと考えていたことが露呈してしまったのです。

 

屈辱的な占領政策

 これに最も反応を示したのは、日本人でした。日本人はそれまで、日本の復興に尽力したマッカーサーに対して多大の尊敬と信頼を寄せていました。彼が解任されて帰国の途につく際には、多くの日本人が感謝の念を抱き、英雄として彼を見送りました。

 しかし、「like a boy of twelve」という言葉を伝え聞いた日本人は、マッカーサーが自分たちをこのように捉えていたことに愕然とし、自尊心を打ち砕かれ、彼に対して甘い幻想を抱いていたことに恥じ入りました。
 日本人が考えていたように、マッカーサーは、日本人の誠実な態度に応えてくれていたのではありませんでした。彼は最初から日本人を、自分たちよりも低く見ていました。つまり、日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っているため、アメリカに黙従するしかない立場にあるとマッカーサーは考えていたのであり、占領政策における彼の態度は、この考えを忠実に実行に移したに過ぎませんでした。
 日本人は、マッカーサーから屈辱的な占領政策を受けていたという現実に、初めて直面せざるを得なくなったのです。

 

残されたマッカーサーの記憶

 マッカーサーが残した記憶のうち、最も重要なものは、日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にあると考えられたことです。

 マッカーサーの「日本人は12歳」発言は、精神面での優越性を心の支えとしてきた日本人の自尊心を決定的に崩壊させました。この状態から立ち直るためには、「日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にある」という考えを無意識の中に抑圧しなければなりませんでした。

 そのうえで、自らの力で復興の途を切り開き、日本文化の優越性を世界に対して実証しなければなりませんでした。「奇跡の復興」と言われた戦後日本の経済的発展は、敗戦と占領による屈辱感を解消し、日本人の自尊心を取り戻すための涙ぐましい努力の賜物でした。

 

アメリカへの恐怖と劣等感

 アメリカ軍との死闘と無残な敗戦、そしてGHQによる6年8ヶ月にも及ぶ占領は、日本人の心に何を残したでしょうか。

 それは、アメリカに対する恐怖感と劣等感です。アメリカに敵対すれば非戦闘員まで徹底して殺戮し、国土は廃墟と化すまで破壊される。そして彼らは日本文化の価値を認めず、その成熟度はたかだか12歳程度だと思っている。こうした記憶が、日本人の無意識の中に残されました。

 この無意識の記憶は折に触れて意識の中に頭をもたげ、日本人の行動に影響を与えました。日本の歴代の為政者が、ことごとくアメリカ政府の方針に黙従してきたのは、この記憶が忘れられていないからです。歴代の総理の中でアメリカの方針に従わずに独自の方針を打ち出したのは、田中角栄安倍晋三の両総理だけでした。しかし、彼らの最期を見るにつれ、為政者たちはアメリカだけには逆らってはいけないという思いを、いっそう強くしたのではないでしょうか(両氏の最期を、陰謀論として片付けてしまっていいのかという思いがわたしにはあります)。

 

ワクチン政策はアメリカ企業のため

 今回の日本政府と厚労省のワクチン政策の根源は、ここにあるのではないでしょうか。日本の為政者は、アメリカ政府の方針には逆らうことができないばかりか、アメリカ政府にただ従うことしかできません。

 アメリカの企業であるファイザーやモデルナのmRNAワクチンには、長期的に見れば感染予防効果も重症化防止効果もなく、却って感染拡大や超過死亡数の増加を招くことが明らかになりつつあります。WHO(世界保健機関)ですら、3月28日に新型コロナウイルスワクチンの接種指針を、健康な成人や子どもへの追加接種を推奨しないと改めました。それにも拘わらず日本政府は、未だに子どもへの接種や健康な成人への接種を推し進めようとしています。

 それは、日本政府の目が日本国民ではなく、アメリカ政府に向けられていることを示しています。アメリカ政府の、そしてアメリカ企業の利益が、日本国民の健康よりも優先されているのです。

 これが、惨憺たる日本の現実です。

 

 ただ、日本には希望もあります。先のWBCでの日本人選手たちの活躍です。彼らは、メジャーリーガーたちを尊敬しながらも、正々堂々と戦って彼らを打ち破りました。そこには日本の為政者たちのような、アメリカに対する恐怖感も劣等感も感じられませんでした。新たな日本を切り開いてくれる可能性を、若き侍たちに感じたからこそ、日本中がWBCの優勝に熱狂したのではないでしょうか。

 

 わたしは、日本がアメリカの呪縛から解き放たれ、日本人がワクチンを公然と拒否できる日が訪れることを願ってやみません。(了) 

 

 

文献

1)ダグラス・マッカーサー(島津一夫 訳):マッカーサー大戦回顧録[下].中公文庫,東京,2003.
2)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.