若者はなぜ死に走るのか(5)

 日本の若者に自己肯定感が低い原因として、日本近代史における三つのトラウマについて述べてきました。前回のブログでは、「ペリーの来航と開国」、「太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦とGHGによる6年8カ月にわたる占領」について検討しました。

 今回のブログでは、三つ目のトラウマである「バブルの崩壊と経済戦争の敗北」について検討したいと思います。

 

奇蹟の復興

 アメリカから政治的な支配を受け続けた日本は、経済的な復興へと舵をきりました。官民一体となった日本国民の努力は凄まじく、敗戦から10年後の1955(昭和30)年には、経済の主要指標で戦前の最高水準を突破し、「もはや戦後ではない」というフレーズが巷を駆けめぐります。

 さらに、1960年に池田内閣が提唱した「所得倍増計画」から経済成長が加速し、この後10年間の年平均実質経済成長率は11%にも及びました。それは、この時期に同様に経済成長が続いていた欧米諸国に比べても驚異的な数字であり、日本のGNP(国民総生産)は、1968(昭和43)年には西ドイツを抜いて自由主義世界で第二位になりました。このような戦後の経済的発展は、世界から奇跡の復興と呼ばれました。

 

日本文化の復活

  復興の過程で、日本文化もまた徐々に復活を遂げました。日本経済は自由主義陣営の中にあって資本主義体制を採っていますが、その内実はきわめて日本的な要素の濃いものでした。
 たとえば、日本の会社のかつての特徴として、終身雇用制と年功序列制があります。これらの制度は、日本の会社が利益を追求する目的だけでなく、生活共同体としての役割を担う存在になっていることを示しています。日本の会社は、労働者が労働力を提供し、その対価として給与を得るためだけの場所ではなくなり、社員の人生そのものをまるごと支える共同体になりました。
 戦後の日本で重工業が発展し、会社への就業人口が増加するにつれ、この傾向は強くなって行きます。戦前の村落共同体に見られた日本社会の特徴、すなわち何よりも和を重視しながら、支え合い協力し合って農業などの就労に従事する生活態度が、そのままの形で会社に持ち込まれました。農村で農民が協力して一所を懸命に耕したように、会社では全社員が協力して一生を懸命に会社のために尽くしました。

 そこに敗戦と占領への屈辱感を晴らし、自尊心を取り戻したいという欲求が加わって、戦後の日本人は脇目もふらずに働きました。こうした労働に対する態度が、日本の資本主義を発展させるエートスになったのだと考えられます。

 

ジャパン・アズ・ナンバーワン

 アメリカは、1960年代後半になると、ヴェトナム戦争に伴う軍事費の重圧が経済を圧迫し、ドルの国際的信用も急落して行きます。1971年に、ドルと金の交換を停止することを柱に据えたアメリカの経済政策によってニクソン・ショックが起こり、さらに73~74年と79年の二回にわたる石油高騰がもたらしたオイル・ショックによって、先進工業国における高度経済成長は終焉を迎えました。

 世界経済が低迷を続ける中で、日本はいち早く不況からの脱出に成功し、1979(昭和54)年の第二次石油危機以降には、経済の安定成長を軌道に乗せました。1985(昭和60)年のプラザ合意によって一層の円高が進み、輸出産業は一定の損失を被りましたが、国内需要の増加に伴って経済は回復しました。

 その後の輸出産業の不況克服によって、日本経済はさらに発展を続けます。こうして日本の経済成長は維持され、債務国に転落したアメリカを尻目に、1987(昭和62)年には、日本はイギリスを抜いて世界最大の債権国になりました。そして翌88年には、国民一人あたりのGNPがついに世界のトップに立ったのです。
 日本経済はこのとき、まさに絶頂期にありました。1979年にエズラ・ヴォーゲルが著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、日本人の自尊心を大いにくすぐりました。日本人は自信を深め、経済的な成功にのめり込んで行きました。

 

バブル経済

 1986(昭和61)年12月から1991(平成3)年2月までに4年3ヶ月続いた好景気は、後に「バブル景気」と呼ばれます。土地は必ず値上がりするという「土地神話」に支えられて投機熱が加速し、地価や住宅価格の高騰が起こりました。大規模な建設プロジェクトやリゾート地開発が推進され、これが地価上昇に拍車をかけました。空前の好景気によって、財テクと消費の過熱がもたらされました。民間企業は営業規模を拡大したり、多角経営に乗り出すようになりました。本業で着実に利益を上げるのではなく、土地や金融資産を運用して莫大な利益を上げる企業も現れました。
 こうした傾向は企業や富裕層だけでなく一般大衆をも巻き込み、株への過剰な投機や、高級輸入車、美術品、骨董品などの買いあさり現象を引き起こしました。消費の過熱は盛り場にも波及し、全国に乱立したディスコが盛況を呈するなど、一大ディスコ・ブームが到来しました。人々は堅実に生きることを忘れ、まさに踊り浮かれていたのです。

 

アメリカに勝った

 日本人は、なぜこれほどまでに浮かれていたのでしょうか。それは経済の成功によって、長年の屈辱感から解放されたためでした。アメリカによって開国を強要され、復讐を誓った太平洋戦争で祖国を徹底的に焼き尽くされ、さらに占領支配を受けたことによる積年の屈辱感が、今ようやく晴らされようとしていました。
 軍事力で敗北を喫した日本は、経済力でアメリカを打ち負かそうとしました。戦争を放棄した日本人が、アメリカへの屈辱感を晴らすには、経済力で勝利するしか道はありませんでした。

 バブル絶頂期の1989年に、日本企業がニューヨークのロックフェラー・センターコロンビア映画を買収したのは、その象徴的な出来事でした。アメリカ側に日本脅威論が噴出し、「ジャパン・バッシング」が巻き起こった背景には、日本の経済的攻撃に対する警戒感が存在したからです。

 

バブル崩壊の衝撃

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、世界経済はグローバル化の方向に流れ始めました。91年の12月にソ連が解体すると、唯一の超大国となったアメリカは、「グローバル・スタンダード」という名のアメリカ基準の経済戦略を展開して、世界の覇権を再び取り戻して行きます。
 一方、日本では1991(平成3)年にバブルが崩壊し、土地や株価の下落に伴う投機意欲の急激な減退や信用収縮が起こりました。必要以上の金融引き締め政策を行ったことも手伝って景気は急速に後退し、日本経済は長い停滞を迎えることになりました。
 浮かれていた日本社会は冷水を浴びせかけられ、人々は夢から覚めて冷徹な現実に向き合わなければなりませんでした。バブル景気に浮かれている間に、日本人が失ったものは余りにも膨大でした。

 

第二の敗戦

 日本経済の停滞とアメリカの覇権回復は、日本では「第二の敗戦」と呼ばれました。

 1993(平成5)年7月の宮沢・クリントン首脳会談による政府間合意を根拠として、1994年から毎年、アメリカから日本に「年次改革要望書」が提示されるようになります。そこには、日本の産業、経済、行政から司法に至るまで、そのすべてを対象にした様々な要求が列挙されました。この文書によって示された要求が、現実の政策となって、日本社会を改革して行きます。

 「年次改革要望書」は、正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」といい、日本政府とアメリカ政府が両国の経済発展のために、改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書です。つまりアメリカからの一方的な要求ではなく、日本がアメリカに対しても要求ができる仕組みになっています。また実際には、アメリカからの要望がすべて日本で実現しているわけではありません。
 それにも拘わらず、この問題が注目されているのは、「年次改革要望書」が相互要求の形式をとっているものの、アメリカからの要求が余りにも一方的に目に見える形で実現している点にあります。1994年以降の日本は、半ばアメリカの言うままに政策を実行してきたといっても過言ではないでしょう。

 

アメリカに黙従する日本

 2001(平成13)年から5年5ヶ月にわたった小泉政権では、日本の対米追従はいっそう顕著になります。内政では、新自由主義的な改革が推し進められ、あらゆる分野で民営化が推進されました。市場原理主義を旗印にしたアメリカ式の新自由主義経済に、日本経済は大きくシフトしました。改革の本丸と位置づけられた郵政民営化は、小泉首相のかつてからの持論ではありましたが、「年次改革要望書」でアメリカから要求されていた点も見逃すことはできません。
 また、9・11同時多発テロ以降のアメリカへの追従外交も、かつての枠組みを大きく逸脱するものでした。ブッシュ大統領が行った「テロへの報復攻撃」をいち早く支持したのは小泉首相でしたし、対米協力が強化されて自衛隊が海外に派兵されたことは、戦後の安全保障政策の大きな転換点になりました。

 以上のように、第二の敗戦後の日本は、政治においても経済においても、対米追従を鮮明にしました。対米追従が究極の形になったのが現在の岸田政権であるのは、前回のブログで述べたとおりです。

 

文化が断絶される危機

 第二の敗戦による影響は、平成の時代になってより鮮明に現れました。文化に基づく人々の行動様式が、大きな変化を見せ始めました。

 他者を畏れ礼節をわきまえる対人関係は過去のものとなり、フレンドリーで平等な対人関係が好まれるようになりました。謙虚さや奥ゆかしさを尊ぶ精神は軽んじられ、個人の権利が声高に叫ばれるようになりました。社会に対する責任や公共心が薄れ、個人の自由や個性が重要視されるようになりました。物質的豊かさが至上の目的になり、財を有することが尊敬の対象になりました。勤勉や禁欲は顧みられなくなり、消費と享楽が礼賛されました。助け合い、支え合うための均質な共同体は解体され、格差の容認と自己責任論が現れました。

 日本古来から続いてきた「和を以て貴しと為す」精神や「恥の文化」は、すでに風前の灯になりました。文化においても、自由と権利、そして個人主義や拝金主義が、大手を振って巷を闊歩するようになったのです。

 

生きる意味の喪失
 その結果日本人は、文化と伝統を分断され、歴史に根ざした誇りを根本的に失う危機に直面することになりました。この状況が日本人の精神状態にどれほど壊滅的な影響を与えるのかは、わたしたちの想像をはるかに凌駕するものがあります。
 文化の正当性と継続性は、その文化に属する個人の精神世界を構築する基盤として、必要不可欠な要素です。日本文化は、この必要不可欠な要素をまさに喪失しつつあります。文化的基盤の喪失は、人々から自尊心を奪い取り、個々人が社会に存在する意義さえも浸食して行きます。

 世界で有数の経済的な豊かさに囲まれ、戦争のない平和で恵まれた環境にありながら、現代の日本人は幸福感に浸ることができないでいます。そればかりか、日本の巷間には、生きている実感を失い、生きることの意味さえも分からない若者が溢れているのです。(了)