人はなぜ依存症になるのか 依存症をつくらない社会とは(3)

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 前回のブログでは、資本主義から宗教的な思想が失われ、貨幣が神の代わりになっていった経緯を概観しました。

 貨幣が神の代わりになると、財・サービスが取引されて価格が決定される市場が経済を支配し、市場から導かれた判断が正義だと考えられるようになりました。そして、ものを創る実業の価値が失われ、金融市場が経済の主役となる金融資本主義が幅を利かせるようになりました。

 金融資本主義では利益が最大の価値基準となり、企業が社会に対してどのような貢献を行ったかよりも、企業がどれだけ収益を上げたかが重要視されます。そのため、「国や社会が豊になる」ことや「人々が幸せになる」ことではなく、「特定の個人が豊かになる」ことや「多くの金を得る」ことが社会の目的になりました。

 こうして少しでもたくさんのものやサービスを売った企業が勝者となり、この勝者を支えるために多くのリピーターや依存症者が生まれることになったのです。

 では、依存症者をつくらない社会を目指すためには、一体どうしたらよいのでしょうか。

 

戦後の日本が目指したもの

 金融資本主義が世界を支配する前には、日本はどのような社会だったのでしょうか。少し遡って検討してみましょう。

 戦後に独立を回復した日本は、経済的な復興へ邁進しました。復興の過程で、日本文化もまた徐々に復活を遂げました。そのため、日本経済は自由主義陣営の中にあって資本主義体制を採っていますが、その内実はきわめて日本的な要素の濃いものになりました。

 日本の会社の特徴として、終身雇用制と年功序列制が挙げられます。これらの制度は、日本の会社が利益を追求する目的だけでなく、生活共同体としての役割を担う存在になったことを示しています。日本の会社は、労働者が労働力を提供し、その対価として給与を得るためだけの場所ではなくなり、社員の人生そのものをまるごと支える共同体になったのです。

 

日本式の資本主義
 戦後の日本で重工業が発展し、会社への就業人口が増加するにつれ、この傾向は強くなって行きました。戦前の村落共同体に見られた日本社会の特徴、すなわち何よりも和を重視しながら、支え合い協力し合って農業などの就労に従事する生活態度が、そのままの形で会社に持ち込まれました。農村で農民が協力して一所を懸命に耕したように、会社では全社員が協力して一生を懸命に会社のために尽くしたのです。

 そこに敗戦と占領への屈辱感を晴らし、自尊心を取り戻したいという欲求が加わって、戦後の日本人は脇目もふらずに働きました。残業過多が非難される現代では考えられませんが、当時は「24時間働けますか」と歌う栄養ドリンクのコマーシャルが公然と流される時代でした。こうした労働に対する態度が、日本の資本主義を発展させるエートスになったのだと考えられます。

 

共同体が支配する社会
 このようなエートスが発揮されたのは、なにも企業に限ったことではありません。農村や地域共同体はもとより、公務員が働く官庁や医療・教育現場、そして政治の世界に至るまで、様々な領域において村落共同体に擬した共同体が形成されました。新たな共同体の内部では伝統的な共同体に擬したルール(掟)が形成され、人々はそのルール(掟)に従って生活を送るようになりました。日本に「護送船団方式」や「談合」といったおよそ自由主義的でないルールが現れ、多くの「天下り団体」が出現したのはそのためです。また、日本の政治が民主主義の原理によらずに「永田町の論理」で動いたのも、永田町が一つの共同体になったからでした。

 こうして日本には、伝統的な地域共同体のルールを踏襲した、いくつもの新しい共同体が生まれました。そのため、英米式の国家形態を採りながらも、日本の伝統に基づいた日本式の自由主義や民主主義、そして日本式の資本主義が形成されていったのです。

 

共同体のマイナス面

 ところで、和の文化に基づいたこの共同体には、プラスの面とマイナスの面があります。

 プラスの面は、日本文化に基づいているため、人々が安心して働くことができ、しかも充分に日本人の利点を発揮できることです。戦後の日本経済が飛躍的に発展した要因は、ここにあったと考えられます。

 一方、マイナスの面は、それぞれの共同体が、共同体の利益しか追求しなくなることです。企業は自分の企業の利益を、省庁は自分の省庁の利益を、学校は自分の学校の利益を、病院は自分の病院の利益を追求するようになります。社会全体が一つの目標を共有して動いているときはよいとしても、社会の目標が多様化するとそれぞれの共同体の目標がばらばらになり、お互いに足を引っ張りかねないことが起こります。

 

目標を失った日本経済

 日本はアメリカに対する敗戦と占領への屈辱感を晴らし、自尊心を取り戻したいという欲求に従って社会の復興に邁進しました。日本経済は成長を続け、1987(昭和62)年には、債務国に転落したアメリカを尻目に、イギリスを抜いて世界最大の債権国になりました。そして翌88年には、国民一人あたりのGNPが世界のトップに立ったのです。
 日本経済はこのとき、まさに絶頂期にありました。1979年にエズラ・ヴォーゲルが著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、日本人の自尊心を大いにくすぐりました。

 一方で、このとき日本社会は、敗戦と占領への屈辱感を晴らすという目標を大方達成しました。そして同時に、それ以降の社会的な目標を失いました。目標の喪失によって、日本式共同体のマイナス面が頭をもたげるようになります。

 社会全体が一つの目標を共有できなくなると、それぞれの共同体の目標がばらばらになり、個々の共同体が自分の共同体のことしか考えなくなりました。各共同体はお互いに足を引っ張り合うことになり、日本社会は停滞して行きました。日本式の資本主義経済が欧米の新自由主義経済に敗れた原因が、ここにあるのではないかと考えられます。

 

日本の新自由主義

 1991(平成3)年にバブルが崩壊して景気が急速に後退したあとには、日本経済は長い停滞期を迎えます。日本中に閉塞感が充満した2001(平成13)年に、「自民党をぶっ壊す」と言って喝采をあびた小泉純一郎首相が誕生します。

 5年5ヶ月にわたった小泉内閣は、対米追従の姿勢を鮮明にしました。内政では新自由主義的な改革が推し進められ、あらゆる分野で民営化が推進されました。市場原理主義を旗印にしたアメリカ式の新自由主義経済に、日本経済は大きくシフトすることになりました。

 その結果、日本社会でも物質的豊かさが至上の目的になり、財を有することが尊敬の対象になりました。勤勉や禁欲は顧みられなくなり、消費と享楽が礼賛されました。助け合い、支え合うための均質な共同体は解体され、格差の容認と自己責任論が現れました。文化においても、自由と権利、そして個人主義や拝金主義が、大手を振って巷を闊歩するようになったのです。

 新自由主義経済のもとでは、多くの利益を上げることが最高の価値になりました。企業は利益を上げるために、手段を選ばなくなりました。少しでも多くのものを売り上げるためには、多くのリピーターを作り上げる必要がありました。その結果として、依存症者が多発する社会が生まれたことはこれまでに指摘した通りです。

 

新自由主義は日本には合わない

 日本は慌てて欧米式の経済を採り入れましたが、新自由主義的な経済、そして金融資本主義的な経済は、日本の文化には合わない性質のものでした。新自由主義経済では、市場が経済を支配し、市場から導かれた判断が正義だと考えられました。社会にいかに貢献したかではなく、結果としてどれだけ稼いだかが問われる弱肉強食の世界でした。この世界を勝ち抜いた者は多大な利益を得ることができる一方で、敗れた者は多くを失いました。富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなりました。アメリカでは、上位1パーセントの金持ちが、アメリカの総資産の30パーセント以上を所有していると言われています。

 和の文化を根本に据える日本社会では、結果の不平等をもたらす新自由主義の原理は受け入れられませんでした。そのため、どれほど規制緩和を行い、いかに財政出動して資金を投入しても、日本経済は一向に活気を取り戻すことができないのです。(続く)