日本人はなぜ自立できないのか(8)

 これまでのブログで述べてきたように、岸田政権は、アメリカの要求を唯々諾々と受け入れ、日本国民の健康を危険に晒し、日本の国益を損なう政策を次々に実行してきました。それはワクチン政策であり、アメリカからの武器購入であり、ウクライナ戦争への援助であり、対韓国政策の方針転換であり、LGBT理解増進法の成立でした。

 岸田首相が掲げる「決断と実行」とは、アメリカ政府の要求にはどんなことでも従うと決断し、長期的には日本がどんな不利益を被ったとしてもアメリカ追従政策を実行する、という意味であることが次第に明らかになってきました。

 さすがに岸田内閣の支持率は低下してきましたが、この危機的状況がだたの「支持率低下」で済んでいること自体が、わたしは問題であると思います。フランスのような暴動を起こせとまでは言いませんが、岸田内閣の政策を批判し、政権交代を要求する運動が起きないことに、今の日本の重大な問題があるのではないでしょうか。

 なぜ日本国民は、これほど大人しく従順なのでしょうか。

 今回からのブログでは、日本人が自立できない要因として、教育の問題を扱ってみたいと思います。

 

与えられたことをひたすらこなす教育

 今の教育の問題点の一つは、教育の究極の目的が良い成績をとって、良い大学に入ることに向けられていることです。良い大学に入るために、与えられた問題に対して決められた正解を導き出せるか、しかもより多くの問題を短い時間でこなせるかを競う教育が繰り広げられています。

 したがって、こうした教育で優秀とされるのは、教師が正しいと判断している正解と同じ結論に、できるだけ早く、しかも間違いがなく到達できる生徒です。試験で求められているのは、いかに多くの正解を出して点数を獲得するかです。

 つまり、上から与えられたものを正しいと信じ、それを実践できる能力に長けている人々が、受験競争を勝ち抜いて有名大学に進むことができるのです。

 官僚や医師は、こうした受験を勝ち抜いてきた人たちです。今回のワクチン行政において、官僚や医師たちが政府の方針に疑問を持ち、自分なりに調べ直し、自らの考えを構築して実行に移すことができない理由の一つは、彼らが与えられたものをいかに正確にこなすかを競ってきた勝者だからです。

 

受験で求められるものは

 皆さんは、過酷な受験を勝ち抜いて難関大学に入学した学生は、さぞかし優秀だと思われるでしょう。確かに、彼らは非常に優秀です。入学試験において、抜きん出た結果を修めることができたのですから。ただし、入学試験で試される能力は、数ある能力のの中の限られたものに過ぎません。その能力とは、直接的には記憶力、理解力、応用力であり、間接的には集中力や持続力でしょうか。

 これらの能力は、試験で良い点を取るためには大切な力です。試験でこれらの能力が試されるのは、ある目的を持っているとわたしは思います。それは、優秀な官僚になれる人材を選抜し、育成するためです。近代国家を形成するためには優秀な官僚を育成することが不可欠でした。そのためには、国家を統制し、運営するための膨大な情報を整理し、処理して実際の行政に繋げなければなりません。この困難な仕事を成し遂げるために必要な能力が、まさに受験で求められている能力であると言えるでしょう。それが未だに、受験教育として生き残っているのです。

 しかし、この能力は、官僚のようなデスクワークを実践する以外の仕事では、必ずしも必要な力であるとは言えません。そればかりか、間違った方針の下で発揮されると、事態をより悪化させることになりかねません。ワクチン行政における厚労省の働きをみれば、それが如実に現れていると言えるのではないでしょうか。

 

反省から始まる歴史教育

 さらに問題なのは、歴史教育です。

 戦後の教育は、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)によって行われたWGIP(ウォーギルト・インフォメーション・プログラム)の影響を受けています。このプログラムによってGHQは、国民に対する罪を犯したのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという教育を、日本国民に対して行おうとしました。

 このような目的で行われたWGIPは、学校教育だけでなく、ラジオや新聞で繰り返し伝えられましたが、当初はそれほど大きな効果を上げることはありませんでした。WGIPGHQが直接、間接に関与したことであり、占領政策の一環であることが国民からは明らかだったからです。

 しかし、このプログラムに影響された日本人が、自らの意見として発信するようになると、その効果は無視できないものになって行きます。

 彼らは、日本の歴史を間違った、失敗の歴史として捉えようとします。そのため歴史教育を、失敗からの反省として理解しようとするのです。

 

原爆投下を受けたのは日本の過ち

 広島の平和記念公園に設置されている原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい  過ちは繰り返しませぬから」という文言が記されています。

 原爆投下によって、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末まででも、約14万人が亡くなったと推計されています。一般市民を虐殺する戦争犯罪を犯した責任は、何をどうのように考えてもアメリカにあるでしょう。それなのに、戦後の日本政府は、「 過ちは繰り返しませぬから」と記しているのです。まるで過ちを犯したのは日本の方であり、もう過ちを繰り返さないと反省しているかのようです。

 これでは、原爆によって殺された人たちは、とても安らかに眠ってなどいられないでしょう。

 

元寇は話し合いで解決できた!

 歴史への反省は、大東亜戦争に対してだけではありません。日本の歴史一般に及んでいます。

 令和5年2月5日付けの朝日新聞のコラム「日曜に想う」に、有田哲文記者による「鎌倉幕府における外交の不在」と題した文章が掲載されています。

 以下は、その一部です。

 

 元寇といえば「鎌倉武士たちが勇敢に戦った」「嵐も日本側に味方した」といった話になりがちだ。それは神風神話につながり、太平洋戦争では「最後は神風が吹いて勝利する」と語られ、その名を持つ特攻隊まで生まれた。
 しかしいま鎌倉時代の史実に教訓を求めるなら、当時の日本における外交のお粗末さに目を向けるべきではないか。元側が繰り返し使節を派遣していたことを考えれば、戦いによる犠牲を避けようとする姿勢があったのは明らかだ。そこを利用し、元に服属することなく、戦争も回避する。そんな狭き道を行くような外交もありえたのではないか。当時の日本がもっと国際的な情報に通じ、交渉にたけた人材を擁していたならば。
 近代以前の日本で、元寇はまれにみる対外戦争だった。双方とも多くの兵が動員され、しかばねを重ねた。「結果オーライ」の成功物語というだけの記憶で終わらせたくない。

 

 有田氏の意見には、ただただ驚くしかありません。日本がモンゴル帝国に征服される危機にあった元寇が、外交交渉によって回避される可能性があったという超新説を披露しているからです。その根拠は、「元側が繰り返し使節を派遣していたことを考えれば、戦いによる犠牲を避けようとする姿勢があったのは明らかだ」ということのようです。

 モンゴル帝国が繰り返し使節を派遣したのは、「戦いによる犠牲を避けようとした」かったからではなく、属国になるように迫ったにも拘わらず、日本がそれに応じなかったからです。元寇を命令した第5代モンゴル帝国皇帝クビライ・カアンの方針は、あくまで日本を征服することでした。ユーラシア大陸の多くの国が、戦って征服されるか、戦わずして征服されてきました。モンゴル帝国と外交交渉をして、戦わずして国を守れたところは一つとしてありません。いったいどんな外交戦術を繰り広げたら、「元に服属することなく、戦争も回避する」ことができるのでしょうか。ぜひ、提示していただきたいものです。

 

反省で始まる教育は自己肯定感を育まない 

 WGIPから始まった、日本の歴史を間違った、失敗の歴史として捉えようとする教育は、子どもたちに重大な影響を与えました。それは、自分たちの祖先が間違った歴史を積み重ねたと教え込まれることによって起こります。

 わたしたちは、連綿と続く日本の歴史に支えられて、日本人としての自我を形成します。もしも歴史が失敗の連続であったとすれば、その歴史の上に立つ日本人としての自分は、間違った存在の末裔であると認識されます。自分の祖先が間違っていると教えられ続けたとすれば、自分の存在そのものを認め、ありのままの自分をかけがえのない存在として肯定的捉える感覚、すなわち自己肯定感が育まれない可能性が高まります。

 以下は内閣府による、2018年度の国際比較調査における、若者(13歳から29歳)の自己認識に対する調査結果です。

 

                 図1

 

 図1のように、自分自身に満足している若者の割合で、日本が特別低いことが分かります。それは、同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツと比べても顕著です。つまり日本の若者は、他国に比較して自己肯定感が極端に低いのです。

 このような状態で、日本の若者が政府の政策に対して、自らの意見を主張することなど到底できないでしょう。(続く)