鎌倉に行ってきました

 6月の22日から24日まで横浜で開催された、日本精神神経学会の学術総会に参加しました。学会の後に少し足を伸ばして、鎌倉を旅してきました。

 

 鎌倉と言えば、昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で脚光を浴びたこともあって、多くの観光客が訪れていました。特に撮影の舞台になった鶴岡八幡宮や、そこから鎌倉の街を貫く参道、そして参道と並行に走る「小町通り」は、すれ違う隙間もないほどの人で溢れていました。

 

 

 鶴岡八幡宮の他に、鎌倉大仏長谷寺にも足を運びました。写真は、おなじみの鎌倉の大仏様です。野ざらしのなかで座禅をされる姿は荘厳であり、今も厳しい修行を積んでおられる姿を、わたしたちに指し示されているかのようでした。

 鎌倉は、中世に政治の中心が置かれた場所だけに、京都や奈良に次いで歴史の匂いを感じさせる場所でした。その歴史を理解するためには、何度も鎌倉を訪れる必要があるのでしょう。 

 それはともかく、今回の旅の主な目的は、臨済宗大本山である円覚寺を訪れることにありました。

 

 

 この写真は、円覚寺の総門に入ろうとする筆者の後ろ姿です。

 

 

 

 写真は、円覚寺の仏殿に祀られたご本尊と、天井の「白龍図」です。ご本尊は冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来と呼ばれ、華厳の盧遮那仏るしゃなぶつとも称されているそうです。

 円覚寺は、鎌倉時代後半の1282年(弘安5年)、宋より招かれた無学祖元禅師によって開山されました。時の執権北条時宗は、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依しました。時宗は、国家の鎮護、禅を広めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うために円覚寺の建立を発願したといいます。

 

 今回鎌倉を訪れた目的の一つが、その北条時宗公に感謝の気持ちを捧げることでした。

 北条時宗といえば、二度にわたるモンゴル帝国からの襲来の際に、日本の武士団を率いて戦った鎌倉幕府の執権です。

 モンゴル帝国は、西は東ヨーロッパ、トルコ、シリアにまで、南はアフガニスタンチベットミャンマーにまで、東は中国、朝鮮半島にまで及んだ、ユーラシア大陸を占有する史上例を見ない大帝国でした。世界最強であったこのモンゴル帝国から、日本は征服される危機にあったのです。

 モンゴル帝国からの二度の侵攻は、日本では文永の役(1274年、文永11年)と弘安の役(1281年、弘安4年)と呼ばれています。モンゴル帝国は、文永の役では4万人の兵を、弘安の役では14万人もの兵を日本に送り込みました。この国難時宗は、御家人だけでなく非御家人にも出動を命じ、鎌倉の武士団は一致団結してモンゴル帝国軍を迎え撃ちました。鎌倉武士団の強靱な抵抗に遭ってモンゴル軍は、ついに九州に上陸することができませんでした。弘安の役の際には、隠岐から退却した兵たちの軍船に大型台風が襲いました。多くの軍船を失ったモンゴル軍は、ほうほうの体で日本から逃げ去りました。

 世界史に特筆されるべき幕府軍の勝利は、現代の日本では過小評価されています。日本は「神風」によって守られた、すなわち、元寇の勝利は台風によってもたらされたかのように捉えられています。しかし、鎌倉武士団がモンゴル帝国軍の侵攻を打ち破り、九州への上陸を防いだからこそ元寇は失敗したのです。もし、モンゴル軍が九州に上陸を果たしていたら、台風が襲来してもモンゴル軍は甚大な被害を受けることなく、その後の日本は征服されていたかも知れません。

 

 日本がモンゴル帝国の一部になることを防いだ北条時宗は、執権になったのがなんと満16歳、そして文永の役が始まったのが23歳でした。若き執権には、どれ程の重圧がかかったでしょうか。そのストレスがたたったのか、時宗は32歳の若さで亡くなります。北条時宗はまさに、日本を守るために生まれ、その生涯を日本のために尽くした人物であったと言えるでしょう。

 

 

 写真は、円覚寺の開基廟です。開基廟は、円覚寺の開基である北条時宗のご廟所(墓所)です。妻とわたしはお線香を立て、北条時宗公に、「日本を御守りいただき、本当にありがとうございました」という感謝の念を捧げました。

 それにしても北条時宗は、モンゴル帝国から日本を守ったという世界史的な偉業を成し遂げただけでなく、蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うために円覚寺の建立を発願したと伝わります。戦ったあとは相手にも礼を尽くす、そして敵の魂でさえも鎮魂するという、日本に伝わる和の文化を象徴する精神の持ち主であったと言えるでしょう。

 

 円覚寺でのもう一つの目的は、樋口季一郞中将の顕彰碑を訪れることでした。

 円覚寺内の龍隠庵という塔頭(たっちゅう、高僧の死後、弟子がその徳を慕って墓の塔のほとりに構えた寮舎)をさらに登った場所に、樋口季一郞中将の顕彰碑はあります。

 

 

 上の写真2枚は、樋口季一郎中将の顕彰碑を写したものです。 

 戦時中に多大な功績を残した旧陸軍中将の樋口季一郎氏に対して、元平塚市長の吉野稜威雄(いつお)氏ら有志が龍隠庵に顕彰碑を建立し、今年の5月21日に除幕式が行われました。 

 樋口季一郎中将の顕彰碑には、以下のように記されています。

 

 

日本国民に語り伝えたい

 陸軍中将樋口季一郎の功績

救国

 昭和二十年八月十八日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に侵攻したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。

キスカ島救出作戦

 昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。

ユダヤ難民の救済

 昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。

 

 ユダヤ難民救出と言えば、「命のビザ」を発刊した外交官の杉原千畝氏が有名ですが、樋口季一郎中将はその2年前にユダヤ難民の救出を行っています。

 1938(昭和13)年3月8日、満州国との国境にあるソ連領オトポール駅にまで、ユダヤ人難民が逃げ延びてきました。

 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口少将(当時)は、その窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料を配給しました。さらに南満州鉄道総裁であった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させる手はずを整えました。

 この脱出路は、後にユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれました。このルートを頼る難民は増え続け、その数は数千人から2万人にも上ったと言われています。

 ユダヤ人難民救出後、当然のごとくナチスドイツから日本政府へ抗議書が届けられました。関東軍司令部から出頭させられた樋口は、対面した東條参謀長(当時)に向かってこう言いました。

 

 「かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであると言わねばならないでしょう。日本はドイツの属国ではないし、満州国もまた、日本の属国でもないと信じています。東條参謀長、あなたはどのようにお考えになりますか。ヒットラーのお先棒を担いで、弱い者いじめすることを正しいと思われますか」

 

 東條はその主張に耳を傾け、樋口に懲罰を科すことはしませんでした。東條英機もまた、人道主義を理解する人物だったと言えるでしょう。

 

 1945(昭和20)8月15日年、日本はポツダム宣言を受諾して終戦に至りました。大本営は各方面軍に対し、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。やむを得ない自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと決められていました。

 しかし、ソ連スターリンは日ソ中立条約を一方的に破棄し、8月18日の未明に、千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島に侵攻してきました。スターリンは、北海道の半分を占領しようと目論んでいたのです。

 樋口中将はこの暴挙に対して、次のように述べました。

 

 「18日は戦闘行為停止の最終日であり、戦争と平和の交代の日であるべきであった。然るに何事ぞ。18日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。かかる不法行動は許されるべきではない。もしそれを許せば、いたるところでこのような不法かつ無智な敵の行動が発生し、平和的終戦はありえないであろう」

 

 そして、樋口は現地部隊に、次のように命じました。

 

 「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

 

 日本軍は果敢に戦い、ソ連軍の侵攻を食い止めました。この戦闘で、日本軍の戦死者は600名、ソ連軍の戦死者行方不明者は4,500名に上りました。スターリンは出鼻をくじかれ、北海道の占領を断念せざるを得なくなりました。樋口中将の決断は、日本の分断を未然に防ぐ成果をもたらしたのです。

 

 ソ連は樋口を戦犯に指名し、アメリカ占領軍に引き渡しを要求しました。このときに「ヒグチ・ルート」によって救われたユダヤ人たちが立ち上がり、米国ユダヤ会議を通して樋口中将を救うように働きかけました。その結果、マッカーサー総司令官はソ連の要求を拒否し、樋口中将は戦犯に指名されることもなかったのです。

 

 このように樋口季一郎氏は、北海道が分断される危機から日本を救った英雄でした。そして、多くのユダヤ難民を救った人道主義者でもありました。その多大な功績は、軍人であったという理由によって、戦後の歴史から消されかかっていました。

 有志によってその功績が掘り起こされ、顕彰されたことは大変喜ばしいことです。妻とわたしは、樋口季一郎氏の顕彰碑にも、「日本をソ連による分断から救って下さって有り難うございました」という感謝の念を捧げてきました。

 

 岸田内閣は現在、アメリカの指示をそのまま唯々諾々と受け入れ、日本の利益と日本人の健康を著しく損なう政策を執り続けています。今の日本は、なんという情けない状況なのでしょうか。

 かつての日本には、北条時宗樋口季一郎のような、自らの危険を顧みずに日本を守った人たちが存在しました。今回鎌倉を訪れて、そうした歴史を改めて心に刻むことができました。

 わたしたちは、日本を守ってきた先人たちの功績に思いを馳せつつ、これから訪れるであろう危機的な状況に対して、力を合わせて立ち向かってゆく覚悟を持たなければならないのです。(了)