安倍政権はなぜ歴代最長になったのか(1)

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 安倍総理大臣の在任期間は、昨年の11月20日で第一次政権から通算2887日に達し、桂太郎内閣を抜いて憲政史上最長となりました。安倍政権はこれまでに、2015年の安保法制の際、2017年から2018年にわたった森友・加計問題の際に支持率が30%台に落ち込み、政権の存続に黄色信号がともりました。しかし、いずれの危機も結局は致命傷に至ることなく、騒動が過ぎると支持率が回復して政権は延命しました。

 なぜ安倍政権は危機を乗り越えて歴代最長を記録し、現在も続いているのでしょうか。今回のブログでは、このテーマについて検討してみたいと思います。

 

第一次安倍内閣

 安倍総理は、以前から保守色が強いことで知られていました。そのため拒否反応を示すメディアもありましたが、第一次政権の安倍総理は、批判を恐れずに信念を貫くという姿勢を示しました。
 平成18(2006)年9月に第一次安倍内閣が発足すると、安倍総理北朝鮮の核実験に対する経済制裁の方針を打ち出しました。国連で北朝鮮制裁決議を引き出し、さらに韓国の廬武鉉大統領や中国の胡錦涛主席と会談して、北朝鮮封じ込めの戦略をとりました。

 内政では、教育基本法改正、防衛省の庁昇格、国家公務員法の改正、国民投票法などを成立させ、首相の諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置しました。さらには日本版NSC国家安全保障会議)設立に向け、国会に設置法案も提出しました。

 こうした安倍総理の強硬な姿勢が、リベラル勢力やマスコミの反感を招き、徹底した安倍批判キャンペーンが繰り広げられました。それに加えて閣僚の問題発言や自殺、事務所費問題などが相次ぎ、平成19(2007)年の参院選自民党は歴史的大敗を喫しました。安倍総理内閣改造を行って出直りを図りましたが、持病の潰瘍性大腸炎を悪化させて9月には退陣を余儀なくさせられました。

 退陣表明の記者会見の様子を、わたしはテレビで見ていました。今でも鮮明に覚えていますが、当時の安倍総理の表情は、明らかにうつ状態のそれであったと思います。

 

潰瘍性大腸炎うつ状態

 「戦後レジーム(戦後体制)からの脱却」を掲げて闘いながら、わずか1年で退陣を余儀なくされた経緯を鑑みれば、安倍総理うつ状態になったとしても何ら不思議ではありません。しかし、政治家がうつ病など精神疾患になったことが明らかになれば、一国の命運を握る総理大臣にはふさわしくないというレッテルを貼られてしまうでしょう。安倍総理が退陣した原因が潰瘍性大腸炎の悪化だと報道されているのは、こうした事情があったのではないでしょうか。

 そもそも潰瘍性大腸炎は、精神的なストレスの影響を受けやすい疾患です。心身症とは、その身体疾患の症状発現や症状の消長に心の問題の関与が大きい身体疾患の総称ですが、潰瘍性大腸炎心身症の一つに数えられています。安倍氏が政治的なストレスからうつ状態になり、これが潰瘍性大腸炎を悪化させたと理解することは十分に可能でしょう。 

 安倍氏うつ状態にあったとか、うつ病であったという報道はなされていません。しかし、わたしは精神科医としての自身の眼を信じ、退陣当時の安倍氏うつ状態であったと仮定して検討を進めたいと思います。

 

後悔と自責の日々

 政治ジャーナリストの石橋文登氏の『安倍「一強」の秘密』1)によれば、退陣後の安倍氏の様子は、次のようであったといいます。

 

 安倍晋三にとって平成19(2007)2007年9月の退陣後の5年近くは、本人も言っているように『地獄』の日々でした。『あの時にこうすればよかった』『もしあの判断を誤らなければ』と後悔の連続で、政界引退も何度も考えたそうです。自らが陣頭指揮した参院選惨敗により、衆参にねじれが生じたことにも相当な自責の念がありました」(『安倍「一強」の秘密』182頁)

 

 「あの時こうすればよかった」「もしあの判断を誤らなければ」と後悔を重ねると、人は過去に縛られて身動きが取れなくなります。失敗した自分に囚われて、そこから一歩も踏み出すことができなくなります。真面目で責任感の強い人ほど失敗に囚われやすいのですが、失敗ばかりに目を奪われると、真面目で責任感が強いことが仇になって自責感ばかりが募ります。この自分を責める気持ちが自分の心を傷つけ、意欲や気力を失わせます。意欲や気力が失われれば、人は前向きになることができず、いっそう過去に縛られるようになります。こうして後悔と自責の負のスパイラルが形成され、人はうつ状態に陥って行くのです。

 石橋文登氏は産経新聞の政治部記者として、官房副長官時代から安倍氏を間近で取材してきた人物です。ですから、安倍氏の変化には、人一倍敏感であったに違いありません。その石橋氏の記述から推察するならば、退陣当時の安倍総理の心理状態も上述のように、後悔と自責の負のスパイラルの状態にあったのではないかと思われます。

 

うつ状態からの復活

 うつ状態に陥ったならば、そこからの回復は、まず社会から離れて心身ともにしっかり休養を取ることです。休養には、通常3か月から半年の時間が必要になります。

 安倍氏は、退陣後数カ月間自宅で静養したといいます。うつ状態の休養には、家族の理解と協力が不可欠ですが、この自宅静養は、うつ状態の回復に有効に機能したでしょう。

 さて、安倍氏うつ状態からの復活には、家族と共にもう一つ大きな役割を果たした人たちがいます。それは安倍氏の後援会の人々です。

 

 「退陣後、数カ月間自宅で静養した後、安倍晋三は長く地元・山口に戻り、後援会や支持者に対する謝罪行脚(あんぎゃ)を続けました。後援会幹部を一軒一軒訪ね、詫(わ)びる毎日でしたが、ほとんどの後援会幹部は驚くほど優しく『失敗したと思うなら、それを次に生かせばいいじゃないか』と励ましてくれました。(中略)

 長州の人たちは国会に送り出す政治家に対し、地元への利益誘導をあまり求めません。その代わり首相になることを求めるのです。(中略)そういう土地柄ですから、一度政権を手放した安倍晋三に対し、後援会が引導を渡す可能性も十分ありました。安倍晋三もそれを覚悟していたようですが、多くは『わしらがしっかり支えるからもう一度頑張れ』と励ましてくれたそうです。安倍晋三は次第に気力を取り戻していきました」(『安倍「一強」の秘密』182‐183頁)

 

 謝罪行脚に出かけようとした時点で、すでにうつ状態はかなり回復していたのでしょう。復活に向けて、前向きに動き出しているからです。

 ここで後援会や支持者が安倍氏を責めるようなことがあれば、安倍氏の復活は遠のいたかも知れません。なぜなら、安倍氏はすでに十二分に自分自身を責めてきているのであり、信頼している人からさらに責められるようなことがあれば、再び後悔と自責の負のスパイラルに逆戻りしかねないからです。地元の人たちの優しさや励ましは、負のスパイラルから安倍氏を遠ざけ、安倍氏の復活に力を貸すことになったでしょう。

 

失敗から何を学ぶか

 さて、安部氏が政治家として復活し、さらに総理大臣として歴代最長の政権を今も維持している秘密の一つは、第一次政権退陣後の時期に求められます。ここで安倍氏は、自らの失敗を客観的に見つめ直し、そこから多くのことを学んだのではないでしょうか。

 上掲書によれば、それは次のようでした。

 

 「長い雌伏(しふく)の時を迎えた安倍晋三は、自分が何を失敗したか、何をすべきだったのかを見つめ直しました。その後の政権についてもどこで判断ミスをしたのか、自分ならどうするのか、克明にメモを書くようになりました」(『安倍「一強」の秘密』183頁)

 

 自らの失敗を見つめ直すことは、言うは易く行うは難しの典型です。失敗を認めることは自己の行為を、さらには自己自身を否定することに繋がるからです。そこで人は、失敗を客観的に認めることはせず、失敗の原因を他者や環境や社会や、場合によっては不運に求めます。つまり、自己正当化を行って自分を守ろうとするのです。

 しかし、自己正当化を行えば、失敗の原因は闇の中に隠されます。原因が明らかにされなければ、問題の解決はなされず、人は同じ失敗を繰り返します。そうならないためには、たとえつらくても失敗に向き合い、失敗の原因を客観的に見つめ直し、どうすべきだったかを学ぶ必要があるでしょう。

 安倍氏は、自分の失敗に向き合い、何をすべきだったのか向き合っただけでなく、その後の政権の失敗からも教訓を学び取ろうとしました。その結果、安倍氏の政治姿勢は次のように変化しました。

 

 「人間性も変わりました。『プリンスメロン』と言われた父、安倍慎太郎譲りの優しさ、優柔不断さが影を潜め、祖父、岸伸介譲りの老獪(ろうかい)さ、陰険さ、しぶとさが芽生えてきました」(『安倍「一強」の秘密』184頁)

 

 安倍氏は元来、気さくで面倒見のよい優しい人柄であったと言われています。人間として望ましいこの気質は、一国の指導者としては優柔不断さや弱さとして働きました。安倍氏は失脚後の「地獄のような日々」を経て、老獪さや陰険さ、しぶとさを身にまとって復活したのでした。(続く)

 

 

文献

1)石橋文登:安倍「一強」の秘密.飛鳥新社,東京,2019.