日本を貶めようとする人々 総理を蔑んで喜ぶ人たち(2)

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 前回のブログで、総理を蔑んで喜ぶ人たちの例として、適菜収氏の『もう、きみには頼まない 安倍晋三への退場勧告』を取り上げました。その中で適菜氏は、安倍総理に対して、「バカが総理大臣になった」「安倍晋三がやったことをひとことで言えば、国家の破壊である」「シンプルな売国である」「安倍と安倍周辺の一味は一貫して嘘をつき、社会にデマをまき散らした」などと批判しました。

 特にプーチン大統領との外交では、「プーチンがわざと会談に遅刻しても、安倍は満面の笑みを浮かべ、女の子走りですり寄っていく。目の前でひっくりかえって腹を見せる」「もはや売国奴ですらない。国土に熨斗をつけて献上するのだから、献国土である」「メンタリティーが犬。箸が持てず、犬食いなのもそれが理由だろう」などと非難しました。

 さらに適菜氏は、安倍総理を「究極の凡人」「白痴」「目の前にあるゴミ」とまで罵倒しています。それはすでに、非難のための非難、罵倒のための罵倒になっていると言えるでしょう。

  なぜ適菜氏は、日本の総理をここまでこき下ろす必要があったのでしょうか。

 

キリスト教を罵倒したニーチェ

 適菜氏の文章を読んでいて、わたしはニーチェの『アンチクリスト』を思い出しました。ニーチェはこの中で、キリスト教は被征服民族の宗教であり、その根源にはルサンチマン(怨恨)が渦巻いていると喝破します。そして、キリスト教が文化を破壊し、人類を堕落させ、人々を不幸に陥れると警告します。

 さらにニーチェは、「キリスト教の神は、地上で達成された最も腐敗しきった概念となった」「キリスト教の権力者、僧侶たちが無上の興味を持っているのは、人類を病気にすること、『善』と『悪』、『真』と『偽』の概念をねじ曲げ、生に危険な、世界を誹謗する意味に作り替えてしまうことである」と非難します。

 キリスト教の教義についても、「新約聖書の中には、自由で、善良で、あけすけで、正直なものは何一つ書かれていない」「愛とは、人間が事物をもっともあらぬ姿に歪めてみる状態であり、キリスト教の『愛』は、どんなことでも甘んじ、人生の最悪のことも超えられるために必要とされた」「キリスト教道徳とは、不幸が『罪』という概念で穢(けが)されていること、健全であることが危険、『誘惑』と見なされていること、単なる生理的不健全が良心の責め苦によるとされていることである」「キリスト教的道徳こそ、徹頭徹尾ルサンチマン道徳である」などと徹底的に非難しています。

 このような、あからさまで徹底したキリスト教批判が表明されたことは、ヨーロッパの歴史上初めてのことだったでしょう。それまでの批判は、理神論(世界の創造者、合理的な支配者としての神は認めるものの、賞罰を与えたり、啓示・奇跡をなす神には反対する思想)や無神論、そして唯物論などによって間接的に、控えめに行われてきました。しかし、ニーチェにおいては、その批判の矛先はキリスト教の聖職者に、教会に、教義に、聖書に、そして神にまで直接向けられ、罵声にも近い言葉で延々と繰り返されたのです。

 

ニーチェは近代化に殉じた

 なぜニーチェは、キリスト教にこれほどの攻撃性を向け、神にまで罵声を浴びせかけたのでしょうか。そこには、新たな時代を切り開く、魁(さきがけ)としての使命がありました。

 キリスト教が支配してきたヨーロッパ社会において、神が社会の表舞台から退場するために決定的な役割を果たしたのが、ダーウィン自然選択説でした。多種にわたる生物が存在する理由を自然選択によって説明する進化論は、万物は神が創造したとするキリスト教の教義と根本から対立しました。そして、19世紀後半には、科学と神学との間の激しい論争をまき起こす端緒となります。
 この論争は、科学の側の勝利に終わりました。すでに時代は、社会から神を排除する方向に向かって流れていました。進化論によって、人間は幾多の困難を克服してきた最高の適者としてその存在根拠が与えられました。神によって創られた僕としての地位に甘んじることは、もはや人間には必要なくなったのです。その結果、神は人々の内面を支えるという役目を終えて、社会の表舞台から退場しました。
 この時代の流れを敏感に感じ取り、自身の人生において体現したのがニーチェです。彼は「超人」となって神と対峙し、「神は死んだ」と宣告しました。そして、その後の時代を象徴するかのように、狂気の世界へと旅立ったのです(以上の詳細は、拙著『父親殺害 フロイトと原罪の系譜』をご参照ください)。

 ニーチェは、この意味でヨーロッパの近代化に大きな足跡を残し、さらに言えばヨーロッパの近代化に殉じた哲学者だったのだと言えるでしょう。

 

適菜氏は保守主義者?

 適菜氏の安倍総理への非難と罵倒の仕方は、ニーチェが神に対して行った非難と罵倒によく似ており、ニーチェを踏襲したようにみえます。では、適菜氏の非難と罵倒の目的も、ニーチェと同様に新たな時代を切り開くためだったのでしょうか。

 適菜氏は次のように語っています。

 

 「われわれの社会は、究極の凡人、白痴を総理の座に担ぎあげ、六年にわたり放置してきた。

 その結果が、現在の日本の惨状だ。

 恥を知らない国は滅びるしかない。

 では、こうした状況下において、われわれはどのように生きるべきなのか?

 ひとことで言えば、手遅れである。

 ここまで壊れた以上、日本に未来があるとしても、修復には数百年はかかりるだろう」(『もう、きみには頼まない』8‐9頁)

 

 どうやら適菜氏は、ニーチェのような革命者ではなく、日本の国体や伝統を護ろうとする保守主義者のようです。適菜氏は、安倍総理が日本の国体や伝統をことごとく壊したため、現在の日本は惨憺たる状態になり、修復すのはもはや手遅れだと言っているからです。

 では、適菜氏が、これほど憤ってまで護りたかったものとは何だったのでしょうか。修復に数百年もかかる日本の大事な国体や伝統とは、いったい何を指しているのでしょうか。

 

人間を愛せ

 適菜氏は、なんと共産主義者との対談本を出しています。その中で適菜氏は自らの保守思想を、ニーチェを引用しながら次のように語っています。

 

 ニーチェの哲学の根幹にあるのは強烈な人間愛・人類愛です。ゲーテも同じです。彼らは『抽象を警戒しろ』『大地から離れたものを妄信するな』と繰り返し言っているわけです。要するに、理念やイデオロギーに警鐘を鳴らした。(中略)

 保守思想をきちんと読むことにより、日本で保守を自称する政治家やメディア、文化人の多くがニセモノであることに気付いた。それではなぜ日本に保守が根付かなかったのかと考えるようになった。保守思想の根幹にあるのは愛です。『人間を愛せ』ということです。大地に根差したものを愛するのが、反イデオロギーたる保守の本質で、嫌韓とか親米というのはなんの関係もない」(『日本共産党政権奪取の条件』2)53‐54頁)

 

 適菜氏は、保守思想の根幹にあるのは愛だと喝破します。そして、抽象ではなく、大地に根差したものを愛するのが保守の本質だと適菜氏は訴えるのです。

 この意見自体には、わたしは異論はありません。人間を愛すること、大地に根差したものを愛することは、人にとって大切なことでしょう。

 ただし、人は愛だけでは生きてゆけません。(続く)

 

 

文献

1)適菜 収:もう、きみには頼まない 安倍晋三への退場勧告 時代への警告.KKベストセラーズ,東京,2018.

2)適菜 収 清水忠史日本共産党 政権奪取の条件.KKベストセラーズ,東京,2019.