人はなぜ依存症になるのか 移行対象としてのスマホ(4)

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 前回のブログでは、児童期に移行対象として使用されるようになったスマホについて、その役割を検討しました。

 児童期からスマホを使うようになった現代では、子どもはスマホで遊び、スマホを通して他者と関わりを持ちます。その際にスマホは、便利な機能によって子どもの万能感を満たしてくれるでしょうし、文字通り世界との繋がりを可能にしてくれます。さらにスマホは、人間関係の乏しい子どもが、心の中で創造する仲間や友達であるイマジナリーコンパニオンの役割までも果たすようになりました。このときのスマホは、単なる器械ではなく、遊び相手であり、話し相手であり、自分の望みを叶えてくれる友達になっているでしょう。

 現代に登場した移行対象としてのスマホは、子どものその後の成長と共に、どのような役割を果たすようになるのでしょうか。

 

児童期の移行対象

 近代以降に、大家族や近隣全体で子育てをせず、各家庭で主にお母さんが子育てをするようになると、赤ちゃんは一人で過ごさなければいけない時間が増えました。お母さんと離れることによって、赤ちゃんには一人でいる時間と、一人でいる空間が生じます。その結果、赤ちゃんの精神世界の中では、お母さんとの間に、時間的にも空間的にも何も存在しない空虚な間隙が出現することになりました。この空虚な間隙を埋めるものが赤ちゃんのイリュージョン(錯覚、または幻想)であり、後の移行対象(毛布やタオルケット、ぬいぐるみなど)であると考えられます。

 児童期になると、赤ちゃんと母親の関係は、自己と対象世界との関係に置き換えられます。その時に自己と対象世界の間に存在する空虚な時間と空間を埋めるために、移行対象に代わる存在が求められます。それは移行対象の性質を引き継いでおり、子どもの精神世界の中で、万能感を伴った錯覚(や妄想)と現実のものが混在して創られます。好きなおもちゃや人形を集めることに始まり、テレビやアニメのヒーローやヒロインに熱中したり、スポーツ選手や芸能人に憧れたりそのまねをすることなどが、児童期の移行対象の役割を果たしてきました。

 

スマホの登場

 最近になって、児童期の移行対象の役割を果たすようになったのがスマホタブレットです。児童期からこれらを使う子どもが増え(乳幼児期から触らせる親もいます!)、子どもの遊び道具としても扱われるようになってきました。触るだけで色鮮やかな画面が現れ、様々なコンテンツを使用でき、無限の世界と結びつくことができるスマホタブレットは、子どもの万能感を充分に満たしてくれるでしょう。それはおもちゃや人形や本やヒーローといった現実に実在する対象よりも、万能感を満たすという面では優っているかも知れません。

 子どもがスマホタブレットという移行対象を通して、対象世界と関わるようになる状況をシェーマ化すると以下のようになります。

 

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                 図1

 

 図1のように、対象世界との空虚な間隙を埋めるものが現代ではスマホタブレットになってきており、子どもはそれらを通して初めて対象世界と関わり、対象世界の存在を実感できるようになっているのです。

 

スマホは現代の必須アイテム?

  児童期以降にも、スマホは自分と他者をつなげ、自分と世界を結ぶための必須アイテムとして必要不可欠な存在になってゆきます。家族と情報を共有するのも、友達と連絡を取るのも、買い物をするのも、チケットを取るのも、情報を得るのも、調べ物をするのも、ゲームをするのも、映画を観るのも、漫画や本を読むのも、暇な時間を潰すのも、すべてスマホを通して行うようになります。スマホは日常生活の隅々にまで行き渡り、スマホのない生活は考えられなくなっているでしょう。

 しかし、スマホが便利であればあるほど、そしてスマホを日常で使用する機会が増えれば増えるほど、人はスマホに依存するようになります。スマホに依存する頻度が高まると、スマホなしでは生活することが困難になります。想像してみて下さい。もし、明日からスマホが一切使えなくなったとしたら、あなたは生活していけますか?

 

スマホは凶器にもなる

 二つ良いことさてないものよ、という河合隼雄先生の言葉通りに、便利なものにはマイナスの側面も存在します。スマホは究極の便利グッズですが、使い方によっては凶器にもなります。その例の一つが、スマホを使ったいじめです。

 学校のいじめは暴力のように明らかに分かるものから、無視や仲間はずれのように一見しただけでは分かりにくいもの、さらにはスマホを使ったインターネット空間での非難や中傷など、教室だけでは分からない陰湿なものに姿を変えています。インターネット空間でのいじめは大人が把握することが困難で、しばしばいじめられる子どもを立ち直れないほど追い詰めます。学校にいられなくなったり、心を病んだり、自傷行為や自殺企図に追い込まれることも起こります。

 さらにスマホは、通常は知らなくてもいい世界にアクセスすることができます。インターネットを通じて危険なサイトに接したり、違法なものを手に入れたり、違法行為に関わってしまうこともあります。その結果、日常生活が破綻したり、犯罪に巻き込まれたりすることさえ起こるのです。

 自動車を運転するためには、教習を受けて免許を取得することが必要です。自動車は生活に必要不可欠である反面、事故によって自分や他人を傷つけるだけでなく、死に至らしめる危険さえあるからです。

 わたしは、スマホも同じだと思います。わたしたちの生活を便利に支えている一方で、他人を傷つけたり、自らが犯罪に巻き込まれる危険性を有しています。スマホを誰でも自由に使える現在の状況は、本当にこのままでいいのでしょうか。

 わたしは、スマホを始めタブレットやパソコンでインターネットを使用するには、自動車の場合と同じように、使用するための年齢制限と、教習や免許が必要ではないかと思います。

 

子どもの精神世界に生じる幻想

 乳幼児期に一人になる時間が長く、赤ちゃんが死の不安と恐怖に苛まれる経験をする状況では、子どもがスマホに求めるものが異なってきます。

 赤ちゃんが死の不安と恐怖を感じる状況では、赤ちゃんの精神世界の中に生じた空虚な間隙と時間は、果てしなく広がり永遠に続くかのように感じられます。そして、母親の乳房の存在には実感がなく、おぼろげにしか感じられません。

 そこでお母さんとの間の空虚な間隙をイリュージョンで埋め、お母さんの乳房は自分で創造する必要があります。しかし、お母さんやお母さんの乳房に出会えることの乏しい赤ちゃんは、空虚な間隙や乳房を夢想することしか出来ません、そのためこのイリュージョンは、錯覚でなく幻想と呼ぶことがふさわしいとわたしは考えています。

 

幻想を埋めきれない移行対象

  赤ちゃんとお母さんの間に存在する空虚な時間と空間を埋めるために、移行対象の存在が必要になります。しかし、空虚な時間が永遠に続き、空虚な空間が果てしなく広がるかのように感じられる場合には、通常の移行対象だけではこの間隙を埋めきることができません。また、おぼろげにしか感じれれない母親やその乳房は、移行対象によっても実感できない部分が残されています。

 この場合には、相変わらずタオルケットやぬいぐるみに執着し続けたり、イマジナリーコンパニオン(imaginary companion )が生じることがあります。イマジナリーコンパニオンとは、現実には存在しない想像上の友達や仲間のことで、これは乳幼児期の幻想が発展して生まれると考えられます。他者と現実的な関係を結べない子どもは、自分の精神世界のなかに幻想によって創られた友達や仲間を存在させて、自己を支えざるを得なくなるのです。

 

幻想を埋めるためのスマホ

 スマホが移行対象であれば、イマジナリーコンパニオンの役割を果たすことが可能になります。スマホを使えば、未知の人たちと無限にコミュニケーションを取ることができます。一方で、このコミュニケーションには現実感が乏しく、想像上の友達や仲間と大きな違いはありません。

 この関係をシェーマ化すると、以下のようになります。

 

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                 図2

 

 図2のように、自己と対象世界は、スマホによってかろうじて繋ぎ止められています。しかし、自己と対象世界の間の空虚な間隙はスマホだけでは埋め切れませんし、スマホを通して繋がる対象世界は、現実感に乏しく幻想の要素を多く含んでいます。

 

スマホがなければ生きられない

 そうではあるものの、彼らはスマホによって空虚な間隙の一部が埋められていますし、現実感に乏しくても、スマホを通して対象世界と繋がっています。こうなると、スマホへの依存度はさらに高まります。スマホがなくなれば、心の中に空いた空虚な間隙は激しく自分に迫ってきますし、他者との繋がりを失っていっそうの孤立を感じるようになります。そして、対象世界は幻想的にしか感じられなくなり、それは妄想に発展する可能性を秘めています。

 こうした状況に至ると、スマホは生活必需品の域を超えるようになります。スマホが無くなったら、心の中に空いた間隙は絶えない不安を生み、対象世界は自分に死の恐怖と不安を抱かせるものとして捉えられます。そのため、彼らは二者択一の選択に迫られます。スマホに依存するか、さもなくば対象世界との関わりを絶って、妄想的な世界に生きるかです。

 スマホはこうして、生きていくためになくてならないものになり、スマホ依存症という新たな疾患を生むことになると考えられるのです。(了)