人はなぜ依存症になるのか 移行対象としてのスマホ(2)

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 前回のブログでは、乳幼児期の精神発達を理解するために、ウィニコットが提唱した「移行対象」について述べました。移行対象は、母親の不在を埋め、母親との一体感を蘇らせる役割を果たします。移行対象はさらに、お母さんの身体の感触が置き換えられたタオルケットや毛布などの「一次的移行対象」と、お母さんや友達の代わりになり、自分の感情を投影する対象として用いられるぬいぐるみなどの「二次的移行対象」に分けられます。

 スマホは、こうした移行対象と同じ役割を果たす「三次的移行対象」になっているのではないでしょうか。

 

文化によって異なる移行対象

 移行対象は、必ず出現するわけではありません。心理学者の井原成男氏によれば、移行対象の出現頻度は、欧米の研究では6~7割ですが、日本では3割程度と言われており、井原氏自身が行った3歳児健診の調査でも31.7%だったと言います。さらに、同氏が中国の上海で行った調査では16.5%の出現率でした。

 また、移行対象の出現率は文化による影響がみられ、韓国の子どもとアメリカで育った韓国の子ども、アメリカの子どもで比較すると、韓国の子どもは18.3%、アメリカで育った韓国の子どもは34.0%、アメリカの子どもは53.9%だったと指摘されています。(以上、『ウィニコットと移行対象の発達心理学1)11頁)

 つまり、欧米では移行対象が多く見られ、中国や韓国では少なく、日本はその中間くらいの出現頻度です。同じ韓国の子どもでも、韓国で育った子どもよりアメリカで育った子どもの方が移行対象が多く見られるわけですから、移行対象の出現頻度は欧米文化の影響が大きいのではないかと考えられます。

 では、なぜ文化によって、移行対象の出現頻度が異なるのでしょうか。

 

赤ちゃんから離れる母親
 伝統的な社会では、子どもは親子だけでなく、祖父母、年長の同胞、叔父叔母などの血縁者、近隣者などの多くの人の手によって育てられました。さらに母親が他人の赤ちゃんにも母乳を与え合って、近隣社会全体で子育てを行いました。

 他人の赤ちゃんに母乳を与えるのは、人間に特徴的な行為です。ほとんどの哺乳類では、血縁のない子どもに母乳を与えることはありません。自分の子どもに乳を与えることに精一杯だからです。そのため、母親がいなくなれば子どもは育つことはできず、餓死する運命にあります。また、サルの仲間では一般的に、子育ての間は母ザルと子ザルは常に一体になって生活しています。

 これに対して人間の母親は、子どもから一定時間離れて生活するようになりました。それに伴って、母親以外の家族が子育てに関わるようになりました。さらに、他人の赤ちゃんにも母乳を与えることによって、複数の子どもを一緒に育てることができるようになりました。
 しかし、近代以降の西洋社会では、子育ては大きく変わりました。個人主義が確立されたことによって、子どもは部族とか何々家の子どもではなくなって、個々の親の子どもになりました。さらに、家族は小家族化、核家族化し、子育ては主に母親が一人で担うようになりました。
 母親が一人で子育てを行うようになると、必然的に赤ちゃんは一人でいる時間が増えます。複数の子どもを母親だけで育てる場合には、一人でいる時間はさらに増えます。このことが赤ちゃんの精神世界に、大きな影響を及ぼすことになったと考えられます。

 

一人でいることで生じる錯覚

 一人でいるときの赤ちゃんは、世界の中で孤立した存在です。特に生後半年間の絶対的依存期では、母親の庇護を得られなけれは、赤ちゃんは生きていくことができません。赤ちゃんはお腹が減れば泣き、オムツが汚れれば泣きます。お母さんは、泣く赤ちゃんに対して、お乳をあげ、オムツを替えてあげます。
 一方で赤ちゃんからすれば、自分が泣くことによってお乳が与えられ、オムツが新しくなったと感じます。まだ他者の存在を充分に理解できない赤ちゃんは、乳房や哺乳瓶を提供し、オムツを新しくしてくれる対象を自らが創り出したと認識します。ウィニコットはこれを、絶対的依存期の錯覚と呼びました。

 絶対的依存期の錯覚には、万能感が伴います。他者の存在を充分に認識できていない 赤ちゃんにとっては、自らが願ったことが、泣いたり笑ったりするだけで実現されると感じられるからです。願ったことが努力なしに実現されること、この錯覚が人間の万能感の原点になっていると考えられます。

 ウィニコットはこの錯覚に、肯定的な意味を付与します。乳幼児期の錯覚が移行対象に、そして移行対象がやがて芸術や文化へと発展する可能性を指摘しています。

 

死の恐怖が生む幻想

 しかし、この錯覚は、肯定的に作用するばかりではありません。

  他者に頼らなければ生きていけない絶対的依存期の赤ちゃんは、お母さんの不在によって現実の死に直面します。もし、このとき何の助けもなければ、赤ちゃんは死の不安と恐怖に苛まれることになるでしょう。

 この不安と恐怖から逃れるために、赤ちゃんは必死で泣き叫びます。それでもお母さんや家族が対応してくれないときは、赤ちゃんは自分の精神世界の中に、お乳を与えてくれ、危険から身を守ってくれる対象を創り上げなければなりません。この対象を夢想することによって、死の不安や恐怖からようやく解放されるのです。

 こうした切羽詰まった状況で生じるイリュージョン(illusion)は、錯覚と訳すよりも幻想と訳す方が適切ではないかとわたしは考えています。

 

錯覚と幻想の違いとは

 では、ここで錯覚と幻想の違いについて検討してみましょう。

 そもそも、親がいつも傍にいてすべてが与えられる場合には、イリュージョン自体が生じません。子どもが24時間母親にしがみついている、サルの場合を想定してみましょう。サルの子どもは、常に現実の母親に触れ、いつでも母親からお乳をもらえ、四六時中母親に守られているため、母親は現実の存在として認識されます。そのため、子どもが不在の母親を夢想する必要はありません。大家族や近隣の者が関わる伝統的な子育てでも、これに近い状況が再現されていると思われます。

 では、赤ちゃんから母親が離れている場合はどうでしょう。母親がいない時には、赤ちゃんは対象を感じとることが出来ません。そのため、赤ちゃんの精神世界にはイリュージョンが生まれる余地ができます。こうした状況で、泣けばすぐに対応してもらえるなら、赤ちゃんには自分が望んだことは叶えられるという、万能感を伴った錯覚が生じることになります。

 最後に、泣き叫んでも母親が現れない場合です。この場合は、赤ちゃんは死の不安と恐怖に直面します。赤ちゃんはこの不安と恐怖から逃れるために、自らの精神世界の中に、お乳を与えてくれ、おむつを替えてくれ、自分を守ってくれる存在を夢想しなければなりません。この存在は現実には存在していない訳ですから、現実感覚を欠いたものとなり、より幻想的なものになってゆきます。この現実感覚を欠いた幻想が、将来の妄想の萌芽となると考えられます。

 

イリュージョンとスマホ

 母親が赤ちゃんから離れる時間が増えると、それを補うように赤ちゃんの精神世界には母親のイリュージョンが形成されます。母親の不在が比較的短時間であれば、母親のイリュージョンには現実的な感覚が多く含まれます。一方で、母親の不在が長時間に及べば、母親のイリュージョンには現実的な感覚は乏しくなります。わたしは、前者を錯覚、後者を幻想と呼んで区別することにしています。

 

 ここで、ウィニコット自身が描いたシェーマをもう一度見てみましょう。

 

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 ウィニコットは、イリュージョン(illusion)が移行対象(transitional oboject)に変わっていくと指摘しています。もし、イリュージョンが錯覚と幻想に分けられるなら、移行対象にも現実感覚の比較的残るものと、現実感覚の乏しいものが存在する可能性があります。

 スマホはどのように位置づけられるのでしょうか。次回のブログで検討したいと思います。(続く) 

 

 

文献

1)井原成男:ウィニコットと移行対象の発達心理学.福村出版,東京,2009.