人はなぜ依存症になるのか 依存症をつくる人たち(1)

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 これまでのブログでは、人がなぜ依存症になるのかを、スマホを例に挙げて検討してきました。

 今回からのブログでは、依存症をつくる側の人たち、つまり人を依存症に陥れる役割を果たす側の人たちについて検討したいと思います。

 

数字が至上価値となる現代

 資本主義が席巻している現代社会では、数字が最も大切な価値を持っています。どれだけのものが売れたのか、どれだけの利益を上げたのか、どれだけの資本が得られたのか、それらは全て数字で現わされます。数字が大きいほど価値があり、社会から評価されます。

 わたしたち自身も、幼い頃から数字で評価されてきました。成績は常に点数化され、高い点数を取れる者が、”良い学校”に進むことができます。社会に出てからも、多くの業績が数値化され、評価されます。そしてその評価も、報酬という数字で支払われるのです。

 こうした価値観に立てば、わたしたちの社会では、いかに多くのものを売ったかが重要であり、売り上げを伸ばした者こそが評価されることになります。

 この価値観が、依存症を生む大きな要素になります。食べ物依存症とも言える、摂食障害過食症で、そのことを検証してみましょう。

 

やせが美しいという価値観 

 人類が飢餓の不安から解放されたのは、ごく最近のことです。いや、現代においても、飢餓のない社会は一部で、多くの社会においては飢餓に苦しむ沢山の人々が存在しています。そのような社会では、そもそも摂食障害という疾患は存在しません。飢餓状態で拒食する人はいませんし、過食・嘔吐をしようにも食べ物自体がないからです。
 したがって、摂食障害は豊かな社会にしか生まれません。ただし、食べ物が豊富にあるだけでは疾患として発症しません。それに加え、やせた体型が美しいとされる価値観が社会で共有されていなければ、摂食障害は成立し得ないからです。やせた体型に価値があるという前提が存在するから、人々はやせを目指し、やせに執着するのです。そして、彼女たちがこだわるのは、何キロまで痩せたという数字に他なりません。

 

やせに価値があるのは
 では、やせた体型が美しいとされる価値観は、どうして生まれたのでしょう。そこには、飽食の時代が生んだ、希少価値を称える思想があるように思われます。なぜなら、やせた体型に価値があると認識しているのは豊かな社会だけで、逆に貧しい社会では豊満な体型が美しいとされるからです(念のために断っておきますが、ここで言う「豊かな社会」とは、物質的に豊かという意味で、精神的、文化的に豊かという意味ではありません)。
 たとえば、愛と美の神であるヴィーナスは西洋絵画や彫刻で数多く描かれてきましたが、いずれも豊満な体型をしています。日本でも「縄文のヴィーナス」と呼ばれる土偶は豊満な体型ですし、平安時代美人画はみな「おかめ顔」です。南米や太平洋諸国では、現代でも太っていることは美の象徴とされますし、アフリカでも太っていることが魅力的であるとする地域が多いと言われます。

 飢餓の心配のある社会では、太っていることは富の象徴として捉えられますし、子どもを産んだり健康で長生きできる能力が高いと見なされ、尊重されてきたのでしょう。

 このように、人類の歴史のほとんどは、または現代でも多くの社会では、太っていることが美の基準の重要な要素になっています。
 それが豊かな社会では、飽食の時代の到来と共に価値観が逆転してしまいました。やせていることが美しいという価値観が、新たに誕生したのです。これはもしかすると、人類史上初めての、非常に特別な価値観が生まれたことを意味するのかも知れません。わたしたちはこの価値観に慣らされてしまっていますが、仮に古代や中世の人々が現代のスレンダーな美人を見たら、いったいどこがいいのだと、顔をしかめてしまうかも知れません。

 

やせを拡大させる資本主義

 やせた体型を美しいとする価値観は、資本主義の社会ではさらに拡大再生産されることになります。いわゆる、やせることの「商品化」です。
 巷には、ダイエットに関する情報が氾濫しています。ダイエット本がいくつも出版されて、中にはベストセラーになっているものまであります。インターネットでは「◇◇キロだった私が、たった1ヶ月で△△キロに!」という文字が踊り、テレビのコマーシャルでは様々なダイエット商品が流されています。テレビではダイエットを扱った番組が流され、どれだけやせたかを競って視聴者の美意識を煽っています(その反対に、大食いを競う番組まであります。出演者の多くは、過食症ではないでしょうか?)。ダイエットに関する商品は、やせるための食品から運動器具まであらゆるものが売り出され、その効果を喧伝し合っています。
 これらは、やせることを礼賛し、やせるためのあらゆる手段を商品化し、その商品を販売して利益を得ようとする、金儲けのための連動したシステムになっています。ダイエットはもはや、経済活動に組み込まれた社会的運動であるとさえ言えるでしょう。

 

日本のダイエットブーム
 ダイエットブームは、日本では好景気に支えられて1980年代から始まりました。バブル崩壊後の不景気な時代になっても、ダイエットブームは「お金を使わない手軽なもの」に形を変えて生き延びまいた。さらに2000年以降にも、「科学的根拠に基づくもの」とか「激しい運動を伴うもの」、「食生活自体を変えるもの」などとしてブームになりました。ダイエットブームはこうして、現在に至るまで、手を変え品を変えながら連綿と続いています。
 その結果、やせることの価値観は、あらゆる地域で、あらゆる年代にまで浸透することになりました。それに伴って摂食障害は、発症患者の多様化と発症者数の爆発的増加をもたらすことになったのです。
 一方で、日本人の食生活は豊かになり、誰もが、必要以上に食べられる環境が整えられました。資本主義社会では、「食べ物を粗末にしない」とか「捨てることはもったいない」とか「腹八分目がちょうど良い」といった日本の伝統的な価値観は根絶されてゆきました。

 

コンビニと過食症

 さらに食生活の利便性が追求されるようになり、いつでも、どこでも、どれだけでも食べ物を手にすることができるようになりました。特に、コンビニエンスストアーの発展は、食生活の利便性をいっそう向上させる役割を果たしました。
 その反面、コンビニの存在は、過食症を全国的に増加させる役割を果たしたのではないかと考えられます。1980年代の後半に、バブル景気と共にコンビニは全国に展開されました。同時期以降に日本で過食症が増加したのは、決して無関係ではないように思われます。
 古典的な過食症は、「一晩で冷蔵庫を空っぽにする」と言われました。しかし、今は冷蔵庫を空っぽにする必要はありません。夜であろうと、明け方であろうと、コンビニに行けばいくらでも食べ物が手に入るからです。
 昔の小売店ではこうはいきませんでした。夜間に店が閉まっているから、という理由だけではありません。たくさんの食べ物をいっぺんに買うと、顔見知りの店のおじさんやおばさんにいぶかしまれたからです。「どうしたの、そんなにたくさん買って」と言われるし、場合によってはそれが元で相談に乗ってくれることさえあったでしょう。ところがコンビニでは、どのような理由があろうとも、たくさん買ってくれる客ほどいい客です。笑顔で、「ありがとうございました。またおこし下さい」と言ってもらえるだけなのです。

 

自己誘発性嘔吐と下剤の乱用
 過食症の患者も、やせに対するこだわりは強くもっています。過食してしまったものは、体の外に出さなければなりません。いわゆる浄化(purging)です。浄化の手段は自己誘発性嘔吐と下剤の乱用が主なものです。

 自己誘発性嘔吐は、自分の指を喉に突っ込んで吐く古典的な方法から、様々に変化してきました。指の代わりにキャンディの棒や歯ブラシを使う方法、ペットボトルの水を一気に飲んで吐く方法、最近ではホースを喉に差し込んで吐くという方法までが使われています。こうした方法は、インターネットを通じてあっという間に広がりました。楽に吐くための工夫として変化してるのですが、身体にとってより危険な方法になっていることを忘れはなりません。

 一方で、乱用される下剤も、現在では簡単に手に入るようになりました。薬の量販店が乱立しているからです。1カ所で買えなければ、2、3の店舗を回ればいいのです。さらに、どこから手に入れてくるのか、利尿剤を乱用する患者もいます。インターネット販売によって、より簡単に薬が手に入るようになっているのでしょう。

 その際に心配してくれたり、注意してくれる人はもはや存在しません。利便性を追求する社会は、その分なにがしかの大切なものを失っています。「ふたつ良いこと、さてないものよ」は、まさに名言なのです。(続く)