祖国を貶める人々 憲法九条の信奉者(2)

f:id:akihiko-shibata:20200630011538j:plain

 前回のブログで、憲法九条を信奉する人たちは、憲法九条が存在することで日本の平和が護られると本気で信じているという特異な現象をみてきました。

 その背景には、日本人が戦争を放棄して平和主義を宣言すれば、外国はそれを尊重して日本を攻めることはないという空想的とも言える楽観主義がありました。そして、この空想的楽観主義を支えているのが、何をしでかすかわからないという身近な日本人への不信感と、話せばわかってくれるだろうという外国(特に、中国、北朝鮮、韓国)への根拠のない信頼感でした。

 何を信頼し、何を信頼してはならないかが逆転している人々は、国際関係を現実的に理解することができず、日本を誤った方向に導く可能性があります。今回のブログでは、この点について検討してみたいと思います。

 

平和を唱えれば戦争は起きないか

 前回のブログで、自民党元幹事長の古賀誠氏が、「戦後七四年、わが国は一度として、まだ他国との戦火を交えたことはありません。平和の国として不戦を貫くことができています。これは憲法九条の力であり、だからこそ憲法九条は世界遺産なのです」(『憲法九条は世界遺産1)42頁)と述べていることを取り上げました。

 このような「憲法九条には戦争を回避し、平和を護る力がある」という主張が、憲法九条を信奉する人たちに共通する考えのようです。「国際平和を希求し、戦争を放棄する」と内外に宣言すれば、本当に日本には平和が訪れるのでしょうか。

 その主張は、まるで宗教のようです。いや、宗教のようどころか、平和と唱えれば平和が訪れ、戦争を口にすれば本当に戦争が起きるという考えは、日本にある言霊信仰そのものです。

 言霊信仰とは、言語そのものに霊力が宿っているという信仰で、ある言葉を口に出すとその内容が本当に実現すると考えます。そのため、「国際平和を希求し、戦争を放棄する」と宣言すれば、この言葉が霊力を発揮して、日本には平和が訪れると信じることができるのです。

 

科学者も言霊信仰の信奉者

 こうした考えを持っているのは、平和活動家や政治家にとどまりません。日本には、科学者を名乗る人たちにも同じ思考をする人たちがいます。

 今話題になっている日本学術会議は、「我が国の人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を内外に代表する機関」であると自称しています。いわば、日本の科学者を代表する人たちの集まりです。

 その日本学術会議が、2016年に北海道大学防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募した、「微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らす流体力学の研究」に対して、軍事に繋がる研究であるとして圧力をかけ、研究を辞退せたことが問題になっています。つまり、日本学術会議は、軍事に関連する研究を行うことが戦争に繋がることを懸念し、北海道大学の研究を妨害したのです。

 軍事に関する研究を行うことが、なぜ戦争を起こすことに繋がるのでしょうか。戦争を防ぐためには、相手国の戦力分析や防衛のための軍事に関する研究は不可欠なはずです。

 実は、軍事に関連する研究を行ってはならないという日本学術会議の考えこそ、軍事を口にすれば戦争が起こるという言霊信仰に連なっているのです。

 このように日本では、科学者、それも日本を代表する科学者たちですら、言霊信仰の信奉者であることには変わりがありません。その意味で、日本には「平和真理教」という宗教があり、憲法九条はその経典であると捉えることは、あながち間違いではないと思います。

 

平和を唱えても戦争は防げない

 戦争は嫌だ、平和こそ大切だと訴えていても戦争は防げません。過去には平和を主張し過ぎたことによって、却って大きな戦禍を招いてしまった事例がありました。その戦禍こそ、あの第二次世界大戦です。

 小室直樹氏は、『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』2)の中で、次のように指摘しています。

 

 第一次大戦が終わったとき、勝者も敗者もヘトヘトになってしまった。かつて世界の中心であったヨーロッパは、見るかげもない惨状を呈していた。(中略)

 ああもう戦争はイヤだ。どんなことがあっても戦争だけはしたくない。英国人もフランス人もドイツ人も、みんなこう叫んでうめいた。不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)なんていう、日本国憲法そっくりの国際協定ができて、国際紛争解決の手段としての戦争は、永久に放棄されることになった。こんな風潮の中から、ヨーロッパに現われた運動の一つが平和主義(パシフィズム)である。平和主義(パシフィズム)の大学生は宣言した。『われわれは、もはやどんなことがあっても、国王と祖国のために銃をとることを拒絶する』

 ところが、たいへん皮肉なことに、このような空想的平和主義こそが、第二次世界大戦の大きな原因になったのである」(『新戦争論』17‐18頁)

 

 第一次世界戦後のヨーロッパは、厭戦気分が蔓延し、平和主義が跋扈したのでした。まるで、大東亜戦争後の日本のようです。ちなみに、憲法九条に取り入れられた「戦争放棄」の条文の原点は、このケロッグ・ブリアン協定にあると言われています。

 さて、「このような空想的平和主義こそが、第二次世界大戦の大きな原因になった」とはどういうことでしょうか。

 

平和主義者がヒトラーの台頭を許した

 小室直樹氏は続けます。

 

 「空想的平和主義者の勢力が強くなったために、彼らの主張に本心で賛成であると否とにかかわらず、これに公に反対することは政治家にとって自殺行為にひとしいという世潮ができあがってしまったのである。そう、今の日本のような状態である。

 そのために英仏は条約上、当然許されている軍事行動がとれなくなり、みすみすヒットラーをして“征服のための進軍(マーチ・オブ・コンクエスト)”を許してしまったのだ」(『新戦争論』18頁)

 

 第一次大戦後のヨーロッパでは、平和主義者の勢力が強くなり、政治家は戦争を口にすることができなくなっていました。

 ヒトラーは、この状況を最大限利用します。

 ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄して再軍備を行うと、1936年にラインラントへの侵攻を開始しました。1938年にはオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアにズデーデン地方の割譲を要求します。
 これに対して、イギリス、フランスは開戦を阻止しようと、チェコスロバキアにズデーデン地方の割譲を認めるよう圧力をかけました。そして、ミュンヘン会談によって、ズデーデン地方のドイツへの割譲が決定されました。

 ズデーデン地方の割譲に成功したヒトラーは、戦争への準備を進め、翌39年にはミュンヘンでの合意を反故にして、遂にチェコスロバキアを併合すると、リトアニアのドイツ人居住地域であるメーメル地方にも侵攻しました。同年8月には、ヒトラースターリンとの間に独ソ不可侵条約を締結させたうえで、9月に入ると突如としてポーランドに侵攻しました。

 ここに至ってイギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発したのです。

 

第二次大戦を阻止する機会は何度もあった

 第二次世界大戦が勃発するまでの過程で、世界戦争を阻止する機会は何度もありました。

 ヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄して再軍備を行ったときが、最初の機会でした。イギリスやフランスは、ヴェルサイユ条約の蹂躙を名目として、ドイツを攻撃することができました。しかし、平和主義が主流であったイギリスやフランスでは、ドイツに戦争を仕掛けることはできませんでした。

 1936年にドイツ軍が、ライン川のフランス側の地帯であるラインラントへの侵攻を開始した際には、仏独間の戦いの要衝であるこの地域を奪い返すことが、フランスにとっては絶対の命題でした。ヒトラーにとっても、ラインラントへの侵攻は、自らの命運をかけた賭けでした。

 

 「これは、ヒットラーにとっても命がけ、失敗すれば首をおる飛躍であった。

 彼は後に、あの四十八時間ほど神経をすり減らしたことはなかった。いま考えてもぞっとする。いつフランスから最後通牒がつきつけられるか、それを思ってわれわれは生きた心地もなかった。そうなったら最後、負け犬のように尻尾をまいて退散する以外に方法はなかったのだ。あんな体験はもう二度としたくない、と語ったが、このときこそ、ほとんど血を流すことなしに、ナチスを打倒し、ヨーロッパに平和を確保する最後のチャンスであった」(『新戦争論』40頁)

 

 再軍備を始めたばかりのこの時のドイツ軍は、フランス軍に攻め込まれたら、ひとたまりもない戦力しか有していませんでした。このときフランスがラインラントに軍を侵攻させ、ドイツ軍を蹴散らしていれば、ヒトラードイツ国内での信用を失っていたでしょう。

 しかし、フランス政府はついに軍を派遣することはなく、ヒトラーのラインラントへの進駐は、奇蹟的に大成功を収めました。奇蹟を起こしたヒトラーの威光は神のごとく高まり、ナチス独裁政権への歩みを始めたのです。

 

第二次世界大戦を決定づけたチェンバレン

 ナチスのドイツ軍は軍拡を続け、ヨーロッパ最強になって行きます。平和主義者と彼らに支えられた政治家は、こうした好ましくない現実を見ようとせず、ひたすら平和の実現のみを追い求めました。

 ヒトラーオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアにズデーデン地方の割譲を要求した際に、開戦を阻止したかったイギリスとフランスは、なんとチェコスロバキアにズデーデン地方の割譲を認めるよう圧力をかけました。さらに宥和政策を掲げるイギリスのチェンバレン首相は、二度にわたってヒトラーを訪問し、この問題を平和的に解決するように説得しました。その結果、ミュンヘン会談によって、ズデーデン地方のドイツへの割譲が決定されたのです。

 チェンバレンは帰国後、飛行場で「われわれの時代の平和は確保された」と誇らしげにヒトラーと取り交わした合意書を振りかざしました。熱狂的にチェンバレンを迎えるイギリス国民の姿(その映像が今も残っています)は、平和主義者の姿そのものでした。

 しかし、その後の歴史が示す通り、ヨーロッパに平和は確保されませんでした。ズデーデン地方の割譲に味をしめたヒトラーは、チェコスロバキアを併合し、リトアニアのドイツ人居住地域であるメーメル地方にも侵攻し、さらに、ポーランドへの侵攻を強行しました。

 こうして、平和主義者と彼らが支持した政治家が平和を求め続けたことによって、ヒトラーの台頭と躍進を招き、結果として人類史上最悪の戦争を勃発させることになってしまったのです。

 

 この史実を、ヨーロッパに起きた一事例であると看過するべきではありません。なぜなら、ナチスとヨーロッパ諸国との関係は、現在の中国と周辺諸国の関係によく似ているからです。(続く) 

 

 

 文献

1)古賀 誠:憲法九条は世界遺産かもがわ出版,京都,2019.

2)小室直樹:新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす.光文社文庫,東京,1990.