日本仏教ではなぜ肉食妻帯が許されるのか(1)

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 日本のお坊さんは普通に結婚して食事では肉を食べ、そしてお酒も飲みますが、これは仏教徒として当たり前のことではありません。肉食妻帯や飲酒は日本仏教だけにみられる特殊な現象であり、海外の仏教徒、特に修行僧では決して認められることではありません。なぜ煩悩を克服することを目的とする仏教において、日本では肉食妻帯や飲酒が許されることになったのでしょうか。

日本仏教の変容
 日本に最も古くから伝わる宗教は神道です。神道は、山や川、滝や高木などの自然や自然現象の中に八百万の神々を見い出す多神教ですが、他の宗教にはみられない次のような特徴があります。
 まず、神道には開祖がいません。そして、明確な教義や教典がなく、救済の方法が明示されていません。ほとんどの日本人は神社に出かけて祈りを捧げますが、礼拝によって特別の救いが得られるわけではありません。それにも拘わらず、日本人はそのことに特段の不満を訴えることもないのです。
 また、『古事記』や『日本書紀』には日本列島がどのように創られたかは記されていますが、世界全体がどのように創造されたかは示されていません。さらには、神々の系譜が天皇家に連なる物語は語られているものの、天皇が絶対的な支配者になることもありません。
 このように神道は、他の宗教にはあるものが「ない宗教」です。宗教学者島田裕巳は『神道はなぜ教えがないのか』1)の中で、神道をこうした「ない宗教」と捉えています。そして、神道が「ない宗教」であったからこそ、「ある宗教」である仏教との平和的な共存が可能であったと指摘しています(同上75-83頁)。
 ところが、「ある宗教」だったはずの仏教が、日本社会においては次第に「ない宗教」へと変貌して行きます。以下にそれを概観してみましょう。

 

戒律を簡略化した最澄

 仏教における行動規範は、戒律と呼ばれます。「戒」は悟りを開くための仏教徒一般の自律的な倫理・道徳規範であり、「律」は修行僧の生活共同体である「サンガ」での集団の規則です。いずれも、悟りを開くためには必要不可欠な行動規範です。

 しかし、日本仏教においては、戒律は次第に内容が骨抜きにされ、形骸化されてしまいます。

 最初に戒律を簡略化したのが、天台宗を開いた最澄です。仏教には、男性の出家者である比丘(びく)が守るべき法が二百五十、女性の出家者である比丘尼(びくに)が守るべき法が三百四十八もあります。これらを具足戒(ぐそくかい)といいます。

 最澄はこれを、菩薩戒(大乗戒)という五十八の法でよいとしました。しかも、具足戒では女人と一切交わってはならないという不淫戒が、菩薩戒では配偶者以外とは交わってはならない不邪淫戒になっていたり、具足戒にある罰則規定が存在していないことからも分かるように、菩薩戒は本来は世俗生活における規律でした。

 

規範よりも心構えを重視

  なぜ最澄天台宗において、従来から正統とされてきた具足戒を廃し、世俗の規律である菩薩戒を採用したのでしょうか。菩薩戒は世俗の規律であると共に、菩薩を目指すための心構えが記されています(菩薩とは、仏に向かって歩み続ける求道者のことです)。つまり最澄は、出家者としての細かな行動規範よりも、菩薩になるための心構えを重視しました。そして、具足戒を廃する代わりとして、山岳寺院に籠もって12年間の修行を行う制度を創り上げました。
 また、最澄は、具足戒をただ否定したわけではありません。天台宗で12年間の籠山修行を終えた「菩薩僧」が、新たに具足戒を受けて都市の寺院に移り住み、人々の救済活動を行う道も開いていました。つまり最澄は、山岳仏教としての天台宗を拡充させる一方で、既存の体制を側面から支える意図も持っていました。

 そのような意味はありましたが、最澄天台宗の修行において具足戒を廃したことは、はからずも従来の戒律を否定し、仏教における規範を破壊する扉を開くことになったと言えるでしょう。

 

本覚思想

 戒律が失われて行く次の段階が、天台本覚論の誕生です。本覚とは「本来の覚性」のことで、生きとし生けるものはみな、悟りを得るための知恵を有していることを意味します。

 つまり、すべての生きとし生けるものは、もともと仏になる能力を備えているという思想です。このような考え方は、インドでは「如来蔵(にょらいぞう)思想」として紀元3~4世紀に出現しました。また、中国では『涅槃(ねはん)教』の中で「一切衆生、悉有仏性(しつうぶっしょう)」(すべての人間は、ことごとく仏性を有する)として記されています。

 これらの思想は、いずれの地域でも中核的な教義になることはありませんでした。ところが、日本では本覚思想として発展を遂げ、平安中期には天台宗の中心的な思想になっていきました。

 

植物や鉱物まで救われる?

 日本の本覚思想の際だった特徴は、仏性を有する対象が、動物にとどまらず植物にまで、さらには生命のない鉱物にまで拡張されたことにあります。これは、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉で表現されます。

 仏性を有するものが草木や国土にまで拡張されたのには、神道の影響があるでしょう。神道は最初にも述べたように、山や川、滝や高木などの自然や自然現象の中に八百万の神々を見い出す多神教です。山や川、滝や高木に神々が存在するなら、これらに仏性を見出すのは難しいことではないでしょう。さらに天台宗の山岳修行が、自然や自然現象に仏性を見る端緒として働いたのかも知れません。
 いずれにしても、天台本覚論によって人間や動物、さらには植物や国土にまで仏性が認められたことは、われわれと仏の間の距離感を著しく縮めることになりました。そして、それは、悟りを得るための厳しい行動規範である戒律の意義を、より小さなものに変えてしまったのです。

 

専修念仏の思想
 ここで登場するのが、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて、法然によって提唱された専修念仏の思想です。専修念仏の思想とは、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで「極楽浄土」に往生することができるというものです。なぜ、そのようなことが可能なのでしょうか。
 浄土思想は奈良時代に伝えられ、平安時代末期には大きな勢力となっていました。浄土とは、もとはインドの初期大乗仏教の「仏国土」が原義ですが、中国では仏の住む処であり、菩薩が成仏するために精進する国土として捉えられました。さまざまな仏がさまざまな浄土を建立したため、諸仏の数だけ浄土は存在すると考えられています(釈迦仏の存在するわれわれの世界も、その一つに含まれます)。しかし、日本で浄土と言えば、阿弥陀仏のいる西方の「極楽浄土」をさすことが一般的です。
 さて、阿弥陀仏の前身は、法蔵(ほうぞう)(ダルマーカラ)という名前でした。法蔵菩薩は、「あらゆる人を、漏れなく救いたい」という誓願を持ってたゆまぬ修行を続けました。そして、気の遠くなるような時間を輪廻した後に悟りを開き、阿弥陀仏となりました。その結果、阿弥陀仏は、「あらゆる人を漏れなく救う」という特別の能力を持つ存在になりました。

 

法然の発見

 ここに、すべての衆生が救われる可能性を見出したのが、法然でした。

 法然天台宗に学び、比叡山において「智慧第一」称されるほど優れた僧でした。しかし、法然は従来の教学を習得するだけに満足せず、末法の世の中で悟りを開くことができるのか、戒律を守れない一般の人々が救われる道はないのかと思い悩んでいました。そのとき、中国浄土教の善導の著した経典のなかで、「一心にただ阿弥陀仏の名号を称え続けることが、往生するための正しい行いである」という教えに出会います。

 これこそが、すべての衆生が極楽浄土に生まれ変われる方法だと法然は確信しました。なぜなら、あらゆる人を漏れなく救うことこそが、阿弥陀仏の誓願だったからです。われわれは阿弥陀仏の力にすべてを委ねると表明すること、すなわち「南無(=帰依する)阿弥陀仏」と称えることで、極楽浄土に往生することができると法然は理解したのです。

 ところで、すべてのものが仏性を有するという本覚思想と、すべての者が念仏によって救われるという専修念仏の思想は、根底において命脈を通じています。すべてのものが仏性を有するという前提があったからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えるだけですべての衆生極楽往生できるという考え方が可能になりました。そして、極楽浄土に往生できた者は、極楽浄土で菩薩として精進することによって、やがて悟りを開いて成仏することができると考えられたのです。

 

戒律と修業を要しない宗教

 ただ、専修念仏の思想を打ち立てるには、非常に高い壁が存在していました。それは、すべての者が念仏によって救われるという教義が、本来の仏教の教義を根本から問い直すことになるからです。
 仏教とはもともと、戒律を守り、修行を重ねて悟りを開くことを目的とする宗教でした。「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われるとする法然の思想は、戒律と修行を重視する従来の仏教とはまったく馴染まないものでした。

 そのため、旧仏教側から激しい迫害を受け、法然や弟子たちは流刑や死罪に処されることになりました。それでも法然はその壁を乗り越え、浄土宗を新たな宗教的見地へと導きました。そしてそれは、日本仏教から戒律と修行の存在意義を失わせる決定的な一歩となりました。なぜなら、救われるために戒律が必要なくなれば、理論上は肉食も妻帯も飲酒もできるようになるからです。(続く)

 

 

文献)

1)島田裕巳神道はなぜ教えがないのか ベスト新書395.KKベストセラーズ,東京,2013.