皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(8)

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 前回のブログでは、日本社会における中空の象徴としての天皇の役割について検討しました。

 天皇という空の象徴が日本の中心に存在するために、日本社会は対立する人物や概念が次第に中和され、均衡を保つことができました。さらに、中心統合構造を原理とする社会のように、中心の権力や権威をもとに社会を統合することがないため、権力者を頂点に据えたピラミッド構造を形成することがありませんでした。その結果として、日本社会は、身分制度さえも各階層が並列するような、より平等な社会になりました。

 こうした日本社会の中空均衡構造が、機能しなくなった時代があります。それが、天皇が中空の象徴でなくなった明治以降の時代です。そして、この時代以降の日本社会には、人々の精神面に様々な問題が生じるようになったのです。

 

明治維新後の天皇

 明治政府にとっての最重要課題は、日本を列強諸国に劣らない強国に生まれ変わらせることでした。富国強兵政策のもと、明治政府は産業の振興と軍事力の強化を目指しました。そのためには、日本を欧米諸国のような中央集権国家にする必要がありました。国家権力を一カ所に集中させて産業と軍事を強化しなければ、欧米諸国のような強国にはなり得ないからです。
 ところが、日本には欧米諸国と同様の宗教や文化が存在しないことに、明治維新の指導者たちは気づかされました。何しろ日本には、古来より信仰されてきた八百万の神々に加えて、日本流に作り替えられた仏教や儒教までが混在していたのです。
 伊藤博文は、枢密院の第一回会議で次のように述べたといいます。

 「宗教なるものありて、之(国家)が機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我が国に在りては、宗教なるもの、その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。・・・我が国に在りて機軸となすべきは、独り皇室あるのみ」(『天皇制国家と宗教』1)155頁)

 欧米諸国において、国家の機軸をなし、国民の心を一つにまとめていたのはキリスト教でした。このような宗教が日本に存在していないことに気づいた明治政府の指導者たちは、日本に連綿と受け継がれてきた皇室を活用しようと思い至りました。

 

国家神道という宗教の創設

 ところが、当時の皇室への崇拝は、キリスト教のような一神教とはまったく性質を異にするものでした。天皇神道の最高権威者として崇拝されましたが、キリスト教の神のような唯一、全能の存在ではなかったからです。
 また、歴史的には、平安時代にはすでに政治の実権は藤原氏が握り、摂関政治と呼ばれる政治体制を敷いていました。さらに鎌倉幕府によって武家政治が誕生してからは、政治権力は完全に武家政府が握り、権威は天皇が担うという統治の仕組みが日本では継承されてきました。実際の政治は幕府が執り行い、さらには江戸時代にみられるように、地方の政治は各藩において独自に行われていました。
 天皇は日本という国を一つにまとめるためには不可欠な存在でしたが、事実上は権力を失い、権威のみを有する象徴的な存在になっていました。
 このような権威と権力の分割や、実質的な地方分権制が存在していた明治以前の日本を、明治政府は欧米諸国に倣って近代国家に変革しなければなりませんでした。それは社会のあり方そのものを、まったく異なった制度に変質させるような大改革でした。

 この大改革を断行するためには、天皇が新たな役割を担う必要がありました。その役割とは、天皇が神格化され、「現人神」として生まれ変わることです。明治政府は、「現人神」を中心に据えた国家神道という新たな宗教を創造し、この宗教を機軸にして日本を中央集権国家へと生まれ変わらせたのです。

 

疑似古代国家だった明治日本

 しかしながら、それまで象徴的存在であった天皇の権威を、人を超えて神の領域にまで高めるのは容易なことではありません。近代において、国家的規模でこうした現象が起こった類例は、他には認められないでしょう。なぜ日本社会においては、この作業が大きな抵抗や混乱もなく、しかも明治維新という短い期間において達成されたのでしょうか。
 末木文美士氏は『日本宗教史』2)の中で、7世紀末から8世紀はじめ頃にこの国で起こった出来事が、江戸末期から明治維新に影響を及ぼすことになったと指摘しています。

 「この頃、大陸文化の影響下に、一気に政治体制が整えられ、それに併せて、さまざまな文化の花が開くことになる。天武・持統・文武・元明・元正と続く頃で、天皇のもとに中央集権化がなしとげられ、律令体制が完成する。そのもとで、『古事記』『日本書紀』のような歴史書が著され、『万葉集』の大歌人柿本人麻呂などが現われる。大寺院が建立され、大陸から多数の仏典がもたらされて、仏教は最新の大陸伝来文化を誇ることになる。天皇号や日本という国名がはじめて使われるようになり、早くも大陸に対して独自の文化を主張するナショナリズムの動向がうかがわれるようになる」(『日本宗教史』15頁)

 そして、末木氏は次のように続けます。

 「この時代は、江戸時代の国学復古神道から明治維新へとつながる流れの中で理想視されることになる。明治維新政府は当初、神祇官太政官という二官を置いて、擬似古代国家として出発した。その制度が解体しても、『古事記』の神話は「日本神話」として教育の中で教え込まれ、『万葉集』は『古今集』や『新古今集』に代わって重視され続けた」(『日本宗教史』15頁)

 このように日本は、明治維新後に「擬似古代国家」として再出発しました。その実体は、日本国の創成期に出現したものと同様の、天皇を中心とする中央集権国家でした。明治新政府が、神祇官太政官という二官を設置して始められたという事実が、それを如実に物語っています。
 さらに、古代日本の成立を根底から支える神話であった『古事記』と『日本書紀』が明治維新によって蘇り、「天皇を中心とする近代国家」が成立するための正統神話となった点も見逃すことはできません。
 この神話では、第一代の天皇とされる神武天皇は、天上の神界である高天原を主催する天照大神の子孫として位置づけられました。そして神武天皇に始まる皇統は、万世一系で連綿として続き、第123代の明治天皇に及ぶとされたのです。


神道の紆余曲折
 明治維新以降の歴史の流れの中で、天皇の神性は、紆余曲折を経ながら徐々に高められて行きました。その過程を、以下でたどってみましょう。
 先に述べたように、政府は明治初期において、国家の統制のもとに神道の確立を目指しました。それは日本が擬似古代国家として再出発したためですが、もう一つの要因として欧米諸国をまね、その属性を装うためでもありました。近代西洋文化の背景を成すキリスト教に相応する宗教として、神道を国家の支柱に据える必要があったからです。
 しかし、国家神道による国民強化の方針は、当初は充分な成果を上げることができませんでした。日本には多くの宗教を受け入れる文化的な素地が存在していましたし、そもそも天皇は、一神教の神のような唯一、全能、絶対の存在ではありませんでした。
 信教の自由を認めるべきだという社会的な要求が高まり、日本帝国憲法には、条件付きながら信教の自由が明文化されることになりました。仏教は、廃仏毀釈の風潮が弱まると共に勢力を回復しました。また、キリスト教は欧米の文化・思想に伴って布教され、新島襄内村鑑三のような優れた日本人信徒が現れました。こうして日本社会には、多神教的な要素が復活し始めたのです。

国家神道体制の強化
 ところが、日本が帝国主義植民地主義に傾倒して行くに従って、神道の役割が次第に強調されるようになりました。日清、日露戦争は国民に大きな犠牲を強いて遂行されましたが、これら大国との戦争を乗り切るためには、愛国心と国家意識を高めることが不可欠でした。
 そこで国民の心を一つにまとめるために、天皇を中心とした国家神道体制はより強固なものに姿を変えて行きます。明治末年の小神社の廃止合併を通じて、神社制度は、大正初期には神道を柱とした一元的神社体系として整備されました。それと共に、教派神道、仏教、キリスト教は政府から公認され、国策奉仕と国民教化を図るための役割を与えられました。その一方で、これらの諸宗教は、超宗教として君臨することになった国家神道に従属することになったのです。

大正デモクラシー
 大戦景気による空前の好況や、世界的なデモクラシーの気運の高まりに影響を受けた大正デモクラシーに伴って、大正時代に天皇の神性は一時的に低下します。第一次大戦後には大衆文化が華開き、普通選挙(男性のみ)が実施され、自由主義的な立場に立った学問や研究が広まりました。
 美濃部達吉天皇主権説を批判し、統治権の主体は「法人たる国家」であり、天皇は「国家の最高機関として、憲法の条規に従って統治権を行使する」とする天皇機関説を唱えました。また、津田左右吉は、日本古代史の実証的研究を通じて「記紀」の記述が史実ではなく、皇室の支配の由来を示すための創作であると説きました。

帝国主義の台頭
 しかし、戦後恐慌、関東大震災によって日本経済が大打撃を受け、さらにアメリカに端を発する世界恐慌の煽りを受けるに及んで、日本には再び帝国主義植民地主義の風潮が復活しました。
 軍部が台頭し、国家主義の気運が急速に高まるなか、自由主義、民主主義的な思想や学問は厳しい取り締まりの対象となりました。昭和に入ると、国家主義グループや青年将校らによるテロやクーデター未遂事件が相次いで起こります。「内外の現状打破」を叫ぶ軍部の政治的発言力が高まり、それに伴って官僚統制が強化されて行きました。

 そして、軍部や官僚を中心とする支配体制が徐々に形成され、天皇機関説の否定、国家総動員法制定、大政翼賛会の成立などにより、大日本帝国憲法によって制定された立憲主義的側面は大幅に後退しました。

天皇の威光の高まり
 日本を中心として中国大陸と南方をブロック化するという日本政府の方針は、支那事変では「東亜新秩序」の建設として、さらに大東亜戦争時には、アジア人による共存共栄を目指す「大東亜共栄圏」の建設としてスローガン化されました。国民が一致団結して戦局を乗り越えるために、国家主義的教育が推し進められました。学校教育では、天皇中心の歴史観である皇国史観が教え込まれました。
 「大東亜共栄圏」の確立と共に、大東亜戦争では「八紘一宇」というスローガンも唱えられました。八紘一宇とは、全世界が一家のようであるという意味ですが、その家の中心にあるのが日本の天皇でした。このような教育は日本の植民地でも行われ、天皇を頂点に据えた文化圏の拡大が図られました。戦局が拡大するにつれて天皇の神性はいっそうの高まりをみせ、大東亜戦争時にその神性は頂点に達したのです。

(以上の詳細については、2018年4月のブログ『日本はなぜ近代化を達成できたのか』、『天皇はなぜ現人神になったのか』をご参照ください)。

 

  以上のように、明治維新から大東亜戦争までの天皇は、本来の中空の象徴としてではなく、欧米社会の神のような役割を担うことになりました。そのことが、人の心の状態に深刻な影響を与え、精神疾患の症状にも大きな変化をもたらすことになりました。

 次回のブログでは、天皇の役割の変化がもたらした、心理的な問題について検討したいと思います。(続く)

 

 

文献


1)村上重良:天皇制国家と宗教.講談社,東京,2007.
2)末木文美士:日本宗教史.岩波書店,東京,2006.