皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(7)

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 前回のブログでは、河合隼雄氏の提唱する中空均衡構造について検討しました。中心が空であることによって、対立する人物や概念が次第に中和され、均衡を保っていく構造が、神話の中だけでなく日本の社会にも認められました。そして今日では、中空を象徴する存在として、社会の中心に位置することも天皇の重要な役割になっています。

 今回のブログでは、中空を象徴する存在としての天皇と、日本社会の構造との関係について検討したいと思います。

 

色々なものがない天皇

 前回のブログで、日本に最も古くからある神道には、開祖がなく、明確な教義や経典もなく、救いの方法も示されていない宗教であることを指摘しました。だからこそ、神道は日本の中心に位置し、中空の象徴としての役割を果たしてきました。

 同様に、天皇にも一般の人にあるはずのものがありません。まず天皇には姓がありません。そして、基本的人権である、参政権職業選択の自由がありません。さらに信教の自由や、居住地選択の自由もありません。思想や表現の自由、婚姻の自由もかなり制限されています。そもそも、天皇は国民ですらありません。

 これらの特徴は、天皇が社会の中心で、中空の象徴としての役割を果たすようになるにつれて形成されていったものと考えられます。

 

キリスト教社会の中心統合構造

 天皇を中心とした日本の社会構造を検討する前に、比較対象として、ユダヤキリスト教文化に認められる社会構造について述べてみましょう。

 河合隼雄氏は、ユダヤキリスト教のような一神教文化は、強力な中心が原理と力をもち、それによって全体が統合される構造であるとし、これを「中心統合構造」と呼びました。この中心統合構造を原理とした社会は、どのようにな構造を呈することになるでしょうか。

 その構造をシェーマ化すると、次のようになると考えられます。

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               図1

 

 図1は、中心統合構造を原理とする、キリスト教社会の構造モデルです。

 社会の中心には唯一、全能の神が存在し、この神が社会の原理を創造し、神が全能の力で社会を統括しています。この神を中心にして、神から権力を与えられた王が実際に社会を統括し、その周囲に貴族、平民、奴隷が存在しています。

 

日本社会の中空均衡構造

 これに対して、日本の社会の中心には中空が存在し、中空の象徴として天皇があります。その社会構造は、次のようになると考えられます。

 

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               図2

 

 図2は、中空均衡構造を、江戸時代に当てはめたものです。

 江戸時代は幕府が政治を行っていましたが、社会の中心には表には現れない、空の象徴としての天皇が位置していました。そして、中空の天皇の周りを、身分制度である武士、農民、職人、商人が取り囲んでいました。

 中心統合構造と中空均衡構造とは、図1と図2のように、社会の中心に強力な原理が存在することと、何もない空が存在することという違いしかありません。しかし、この違いが、両者の社会構造に大きな違いを生じさせることになります。

 

キリスト教社会はピラミッド型

 中心統合構造を原理とする社会は、図1で示したように、中心に神が存在する同心円の構造を呈しました。この同心円構造を、立体的に考えてみましょう。

 それが以下のシェーマになります。

 

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                  図3

 

 中心統合構造を原理とする社会では、中心が強力な原理と力をもち、それによって全体が統合されます。そのため、権力や権威、さらには財力も社会の中心に集められます。その結果として、権力や権威、財力を一手に集める者が現れます。そして、その権力者が社会の中心に存在し、社会の頂点にに君臨する構造が形成されます。

 一方で、社会の周辺に存在する者は、周辺に行くほど権力や権威や財力が失われて行きます。さらに、社会の周辺の者ほど抑圧や搾取を受けるため、社会の底辺に位置するようになるのです。

 

日本社会はバウムクーヘン

 これに対して、日本社会の中心には空が存在し、この空の象徴である天皇には権力や財力がありません。また天皇が、社会の原理や価値を創造することもありません。

 天皇が空の象徴として存在する日本社会は、中心の権力や権威をもとにして社会を統合することができません。そのため、中心統合構造を原理とする社会のように、権力者を頂点に据えたピラミッド構造(正確には円錐構造ですが、イメージが湧きやすいので今後もピラミッド構造と表記します)を形成することができません。その結果として、士農工商のような階層も次第に独立した存在になって行きます。

 ここに、和の文化の影響が加わります。聖徳太子が唱えた、「和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふる(逆らう)こと無きを宗(むね)と為(せ)よ」という教えが、和の文化の根本になりました。そこから、悪人も善人も、才能のあるものもないものも、努力するものもしないものもすべて、極楽浄土に往生できるという親鸞聖人の思想が生まれました。宗教における救いに対する究極の平等性は、現世の社会構造にも影響を与えました。こうして社会の階層は、和の文化の影響を受けて、上下関係よりも並列関係が重視されるようになって行きました。

 以上のようにして形成された日本社会の立体的な構造を考えると、以下のシェーマのようになります。

 

 

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                   図4

 

 日本社会の構造はピラミッド型ではなく、図4のように、天皇という空を中心に据えた並列型の構造になりました。イメージとしては、切ってお皿にのせたバウムクーヘンのようになりますから、ここではこれをバウムクーヘン型と呼ぶことにします(図4は、切り出したバウムクーヘンの縦断図になります)。

 上下関係は、武士なら武士、農民なら農民といった各階層の中で生じますが、これも年功序列のように、皆が等しく上の立場に立てるような、より平等なものになりました。こうして日本は、天皇を中心に戴いた、より平等な社会を形作ることになりました。

 

共産主義というピラミッド型社会

 ちなみに、平等な社会を目指した共産主義社会は、共産主義思想を中心に据えた中心統合構造を継承したまま社会を変革したため、社会の構造は以下の図のようになりました。

 

 

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                  図5

 

 図5のように、共産主義社会は、一神教を中心に据えた中心統合社会と同様のピラミッド型構造を呈するようになりました。

 さらに、共産主義思想はマルクス唯物史観によって神が排除されたため、社会の中心に神の代替者が位置するようになりました。そして、神の代替者が神のように振舞ったため、人民を抑圧したり反体制者を虐殺したりすることが常習化するようになりました(聖書に現された神は、「ノアの箱舟」の物語をはじめとして、人間の虐殺を何度も断行しています。その詳細については、2018年2月のブログ『共産主義社会にはなぜ独裁者が生まれるのか』をご参照ください)。

 こうして共産主義国家では、ソ連スターリン、中国の毛沢東カンボジアポル・ポトのように、人民の大虐殺を行う 独裁者が誕生したのです。現在の中国でも、習近平国家主席のもとで独裁体制が敷かれ、ウィグルやチベットで抑圧や虐殺が続けられていることは周知のとおりです。

 

日本社会の被差別民の位置

 では、日本社会には、抑圧されたり虐殺されたりする人々は存在しないのでしょうか。

 日本社会には、江戸時代までは社会から排除された被差別民は存在しました。彼らは穢多、非人などと呼ばれていました。このような被差別民は、穢れた者として差別を受け、社会からは排除されました。

 その社会構造を示すと、以下のようになります。

 

 

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                   図6

 

 図6は、日本社会における被差別民の位置づけです。彼らは身分制度の外に位置づけられることで、社会から差別を受けていました。

 しかし、日本社会において特徴的なのは、中心統合構想を有する社会のような抑圧や搾取が、被差別民に対しては起こりにくかったことです。

 なぜなら、日本社会の中心に存在する天皇が、権力を有していないからです。そればかりか、皇室の財産は国に属するものとされていますし、基本的人権に認められている自由の多くが天皇にはありません。このように日本の中心に存在する天皇は、被差別民を抑圧するどころか、被差別民と共通の特徴すら有していると言えます。姓がないことも、共通点の一つに挙げられるでしょう。

 先に述べたシェーマで譬えれば、日本社会はバウムクーヘン型の社会構造を呈していますが、被差別民はバウムクーヘンの外に追いやられている存在です。しかし、天皇もまた、バウムクーヘンの中心にあって、何もない存在としてある点においは共通しています。

 つまり天皇の存在は、一部の人々が指摘するような差別の原点などではなく、むしろ被差別民の差別を、最小限に押さえる役割を果たしていると考えられるのです。

 

 さて、これまで天皇の存在と日本社会の平等性について検討してきましたが、次回以降のブログでは、天皇の存在が日本人のこころにどのような影響を与えているのかという視点から、新たに検討を加えてみたいと思います。(続く)