皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(9)

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 前回のブログでは、日本社会において中空の象徴であった天皇が、明治以降には、中央集権国家における神のような役割を担うことになりました。つまり天皇は、河合隼雄氏のいう中空均衡構造における中空の象徴から、中心統合構造における統合の象徴になったのです。

 この劇的な変化によって、日本人の精神状態に大きな変化が生じました。その具体的な例として、狂気の変化について検討したいと思います。

 今回のブログでは、明治以降と比較するために、まず江戸時代の狂気を中心に述べてみましょう。

 

日本の狂気

 文化が神話とタブーを出発点として構築された「架空の物語」であり、人間の「本能」から離反するようなエートス(行動様式)を有しているために、それぞれの文化には、その文化を受け入れられない人々が必然的に生じることになります。彼らの言動は、文化を受け入れた人々からは「狂気」と見なされてきました。この事情は、いつの時代でも、また、いかなる文化でも認められることでしょう。

 日本文化においても事情は同じでした。日本には日本固有の文化があり、そして、日本固有の「狂気」が存在してきたのです。

 

 5世紀から6世紀にかけて中国医学が渡来して以来、日本では江戸時代に至るまで、漢方が医術の主導を担ってきました。精神疾患についても同様であり、狂気は癲狂(てんきょう)として捉えられてきました。

 『養老律令』の注釈書である『令義解』(りょうのぎげ)(833年)によれば、「癲は発するとき地に仆(たお)れ、涎沫(せんまつ)を吐き、覚ゆる所なきなり。狂はあるいは妄りに触れ走らんと欲し、あるいは自らを高賢とし、聖神者と称(とな)うものなり」(『「日本精神病治療史』1)8頁)とあることから、癲狂とは、現在でいうてんかんと精神病を包括したような概念だったようです。

 

江戸時代の狂の症状とは

 さて、癲狂とは、江戸時代にはどのように認識されていたのでしょうか。まず上掲の『日本精神病治療史』から、癲狂に関する部分を拾い上げてみましょう。
 香川修庵の『一本堂行余医言』(1788年)には、狂の症状として次のような記載がみられます。

 

 「或いは憂し、或いは怒り、或いは悲しみ、或いは人に対し人を見るを嫌忌し、あるいは間居(かんきょ)して独処(どくしょ)するを愛好する。暗地幽室に喜蟄し、あるいは人の己の短所を議するを疑い・・・」(『日本精神病治療史』38頁)

 

 ここには、抑うつ症状、易怒性、対人恐怖、引きこもり、被害関係念慮といった様々な精神症状が記されています。彼の述べる狂とは、現在でいう神経症から精神病に至る幅広い疾患群を現していたようです。

 ちなみに、『一本堂行余医言』には「不食」として神経性やせ症(神経性食思不振症)の症例が詳しく紹介されており、これは同症の世界で最も早い記載の一つです。この事実は、神経性やせ症がやせを美しいとする豊かな社会に生じることを考えれば、当時の日本が、世界で最も豊かな国の一つであったことを示唆しています。

 

激しい症状①

 次に、日本で最初の精神科専門書である土田獻(けん)の『癲癇狂(てんかんきょう)経験編』(1819年)には、次のような症例が紹介されています。

 

 「上州屋彦次郎の妹、年は十九歳で狂を発した。髪を解き放ち、着物を裂き、喜んで窓を叩いて声をあげ、食べても飢えているようで、一日中喋り続けて足も地につかない。その姿は物に憑かれた人のようである。医師、巫女などが百方手をつくしたが治すことができず、私が迎えられた。

 診察すると、脈は浮緊、胸満、上逆、臍の下に動気があり、大きな拳ほどの痂があって便秘している。これに大柴胡加黄連湯と下気圓を与えたところ、四ヶ月余りで全く元どおりになった。そしてその冬とうとう嫁に行った」(『日本精神病治療史』41頁)

 

 この症例にみられる「髪を解き放ち、着物を裂き、喜んで窓を叩いて声をあげ、食べても飢えているようで、一日中喋り続けて足も地につかない」といった症状は、躁状態と言ったらいいでしょうか。ただし、「着物を裂き、喜んで窓を叩いて声をあげ」と記されている部分では、不穏、興奮症状が目立つように思われますし、「四ヶ月余りで全く元どおりになった」という記載も考慮すると、この症例は、現在でいう非定型精神病(急性、一過性の精神病状態を示す精神疾患)に近い病態であったと思われます。

 

激しい症状②

 また、岡田靖雄氏の『日本精神科医療史』2)には、江戸時代の癲狂について以下のような記述がみられます。
 まず、和名で記された最初の病名辞典である『病名彙解(いかい)』(1686年)には、癲狂は次のように説明されています。

 

 「・・・七情鬱せらるるに由て、遂に痰涎を生じ心竅迷塞して人事をかへりみず、目瞪(みはり)て瞬(またたき)せず、妄言叫罵す。甚しき時は垣をこへ屋(いや)に上(のぼ)り、裸体にして人をうつ」(『日本精神科医療史』56頁)

 

 このように癲狂とは、平静を保てなくなってでたらめなことを叫び、ひどい場合には屋根に上ったり、裸体になって人を殴ったりするような状態を指しています。

 これは異常な興奮状態であり、統合失調症非定型精神病などに認められる症状であると考えられます。「妄言」の内容についての記述がないため何とも言えませんが、「七情鬱せらるるに由て、遂に痰涎を生じ心竅迷塞して人事をかへりみず」という経緯からは、平生にストレスを徐々にため込み、それが限界まで達したときに意識混濁を伴って不穏・興奮状態を発現させる、非定型精神病(急性・一過性の精神病)に似た病態ではないかと考えられます。

 

激しい症状③

 次に、中神琴渓の門人が中神の治験例を編集した『先生堂治験』2巻(1804年)には、癲狂に属すると思われる症例が15例記されています。そのうち、比較的重症と思われる症例を以下に取り上げてみましょう。

 

 「井筒屋喜兵衛妻、狂癇を発すれば刀で自殺をはかり、井戸に投身しようとし、終夜狂躁して、ねない。間には脱然として謹厚、女功〔つとめ〕一つもおこたることがない」(『日本精神科医療史』68頁)

 

 この症例は、躁状態の目立つ躁うつ病、または病間期に「脱然として謹厚(実直できまじめ)」な状態にあることから、非定型精神病の範疇に入るものでしょうか。

 

動物の憑依

 江戸時代には、動物の憑依(特に狐が多い)を症状とした症例が多数認められたようです。

 

 「大津の人がきていうに、16歳の娘が婚約しているが、毎夜家人の熟睡をまっておきて、清妙閑雅の舞いをまい、毎夜その曲がことなる。しかも朝には動作食欲に異常がない。これでは結婚にさしつかえると。先生診するに狐惑病で、甘草瀉心湯をあたえると、数日もせずに舞いはやんだ。そして、娘は嫁して子もある」(『日本精神科医療史』68頁)

 

 婚約した娘が深夜ごとに舞を舞うという病態は、江戸時代には、狐に惑わされた病と捉えられました。この症例は、現在でいう多重人格を呈した解離性障害でしょう。16歳で嫁に行く逡巡が、この症状には現れているのかもしれません。

 

恍惚体験

 ほかにも、次のような症状がみられます。

 

 「近江屋某の娘が狂癇を発し、発すれば心気恍惚として妄想してやまず。14歳の春になって病症増悪して、毎夜3、4回発した。諸医は手をつけかねていたが、先生は娘を浴室につれていって、これに冷水をそそいだ。しばらくして麻黄湯をあたえ、汗をふきとった。こうして2、3回すると、発作はなくなった」(『日本精神科医療史』68頁)

 

 恍惚体験は、臨床的には「催眠的もうろう状態(trance)のもとで、意識の狭窄が生じ、外界との接触が失われて一過性に感覚や運動が中断され、ある心的能力が異常に亢進する反面、他の能力が抑止されるといった対照的な精神活動の相(phase)を示す症状」と定義されています。

 恍惚体験からは、回心、啓示、悟り、預言、創造などが生まれることが知られていますが、一方で、発熱、てんかん発作の前兆、ヒステリー(解離性障害)、統合失調症、薬物の使用などによっても生じることがあります。
 この症例の場合は、思春期に発症した解離症状であるか、または麻黄湯が熱性疾患に用いられることから、何らかの熱性疾患によって誘発された症状性精神病(身体疾患に誘発された、一過性の精神疾患)の可能性も考えられます。

 

子どもの狂気

 同書には子どもの症例もみられます。

 

 「10歳余の児が神気鬱鬱として母を離れず、群児と嬉戯することをこのまなかった。先生診するに脈微弱、面色青青。鳩尾の一辺が膨起して掌をおおうようであった。涼膈散と金玉丸とをあたえると、1年あまりでもとにもどった」(『日本精神科医療史』69頁)

 

 岡田氏はこの症例を、小児うつ病ではないかと指摘しています。小児にも精神疾患がみられるとの指摘は、前出の香川修庵の『一本堂行余医言』にも認められます。

 

江戸時代の人々が狂気と呼んだ病態

 さらに、岡田氏は、江戸時代に一般人が使用していた癲狂を意味する用語として、「乱心」(その人の言動が常軌を逸して問題を起こすに至ったもの)、「肝症」(肝気の証で、その事例はヒステリー性昏迷を思わせるものー昏迷とは、意識はあるのに反応しない状態をいう)、「狐付」(突然の発症で、しかも発症についての心理的了解が不可能なもの)、「酒狂」(酩酊状態での暴行で、病的酩酊やアルコール幻覚症と思われる場合には、「酒狂」に「乱心」が併記された)、「気鬱(きうつ)」、「積気(しゃくき)」(ヒステリー性興奮)、「てんかん」などを挙げています。

 

江戸時代には典型的な統合失調症はなかった
 ところで、以上で述べてきた症例のほとんどが、重症のものでも躁うつ病非定型精神病、または解離性障害や心因反応の範疇で捉えられるものです。統合失調症に似た症状はみられるものの、統合失調症に典型的な症例、つまり妄想型(幻覚・妄想が主に訴えられるタイプ)、緊張型(興奮と無反応を繰り返すタイプ)、破瓜型(自閉的になり社会性が乏しくなるタイプ)と確実に診断されるような症状を見出すことはできません。
 狂気は文化のネガとして現れ、文化の影響を受けて様々な症状を発現させます。このことを考慮すれば、江戸時代の狂気に、近代ヨーロッパ文化の中で顕在化した統合失調症の症状が乏しいのは、ある意味当然の帰結であると考えられます。

 

 日本において統合失調症が顕在化するのは、明治以降、日本が近代西洋文化を取り入れ、模倣するようになってからです。そして、その症状には、初めて「天皇」が現れるようになるのです。(続く)

 

 

文献

1)八木剛平・田辺 英:日本精神病治療史.金剛出版,東京,2002.

2)岡田靖雄:日本精神科医療史.医学書院,東京,2002.