加藤のいう孤立への恐怖は、「世界からたったひとり取り残された感覚」として経験されました。彼は、「孤立の恐怖は耐えがたく、それよりも肉体的な死の方がまだ救いがある」とさえ述べています。それは孤立の恐怖が、幼少時の記憶、すなわち自らが消滅する不安と死への恐怖をも蘇らせるからです。それに加え、母親(またはその代替者)から自身の存在を認められなかったという絶望感までを呼び覚ますからであると考えられます。
では、加藤はこの孤立への恐怖を、どのように解消しようとしたのでしょうか。
掲示板への依存
この恐怖から逃れるために加藤がしたことが、掲示板への依存でした。
『解』1)によれば加藤は、掲示板に依存して行く理由を、「ケータイを手離さずに、常時(掲示板へ)アクセスしているようになりました。もともと他の利用者の返信は早かったため、私も即返信(レス)するようになると、あたかも一緒にいて会話をしているかのような感覚になりました」、「私と一緒にいる人の頭の中には私がいます。私と一緒にいる時間の長さは、そのまま、相手が私のことを考えている時間の長さになります。ですから私にとっては、一緒にいる時間の長さが長いほど親しく感じます」と語っています。
掲示板でアクセスし合う相手の「頭の中には私がいる」のであり、それは相手が加藤の存在を認めてくれていることに他なりません。こうして彼は、掲示板にいる間だけ孤立の恐怖から逃れることが可能になり、次第に掲示板に依存していくことになったのです。
ホンネで話せる居場所
それにしても、依存する対象は他にはなかったのでしょうか。掲示板でなく、生身の人間ではだめだったのでしょうか。せめて、携帯電話で直接話すことに意味はなかったのでしょうか。
掲示板は「ホンネ社会」なのであり、「タテマエ」を使っても、本当に不満を持って怒りをぶちまけても叩かれる場所だと加藤は言います。そして「掲示板は(中略)、現実(リアル)では使えないタテマエ0%のホンネを使える遊び場です」、「私にとっては、タテマエ100%の『いい子』とは対極にあるタテマエ0%のホンネ、つまり、素の自分でいられるということであり、だからこそ掲示板は開放感があり、楽な場所でした」と語っています。
加藤にとって現実(リアル)の人間関係は、「タテマエ」を使いこなさなければならない関係でした。また、「本当に不満を持って怒りをぶちまける」ことが起こり得る関係でもありました。
事実、成育歴において彼は母親から不満と怒りを向けられ、それから逃れるために「タテマエ」を使って「いい子」として振る舞ってきました。そこには彼の居場所はありませんでした。だからこそ彼は、現実(リアル)の人間関係から逃れ、掲示板という架空の現実の中に居場所を見つけたのです。
掲示板での嫌がらせ
ようやく見つけた安住の地であったはずの掲示板で、加藤は嫌がらせと攻撃を受けるようになります。それは、「成りすまし」と「荒らし」によってでした。
成りすましは、文字通り掲示板上で成りすましをする者のことです。加藤は、「成りすましが私になり、私は私ではなくなってしまっていました。それを『殺された』と表現しています。存在が殺されたということです」と語っています。掲示板上で加藤が演じた「不細工キャラ」は、「自分(の存在)が無い」彼が、ようやく見つけた自我の萌芽とでも言うべき存在でした。その存在を成りすまされたのであるから、彼が「存在を殺された」と感じるのは無理もないことでしょう。
そこに、掲示板での正常な交流を妨げる荒らしが加わります。加藤は、「ルールに違反した成りすましを荒らしが正当化したことに、私は許しがたい怒りを覚えました」と述べています。
成りすましや荒らしに対するこの許しがたい怒りは、われわれにも理解できるでしょう。掲示板上でとはいえ、加藤にとっては自我の萌芽とでも言うべき存在が否定されたのですから、その怒りは自らの存在を揺るがすほどのものでした。
しかし、その怒りがなぜ無差別殺傷事件へと向かったのかには、大きな疑問が残ります。彼の怒りと、掲示板とは関係のないこの事件が、直接結びつかないからです。
痛みを与えて改心させる
この疑問に対する加藤自身の説明はこうです。彼は物心ついた頃から、間違ったことをする相手に対しては、痛みを与えて改心させるという対応をしてきました。加藤によればこの対処法は、母親から受けたしつけを知らず知らずのうちにコピーしてしまったものだそうです。
彼は、成りすましたちにもこの対処法を用いました。すなわち、「成りすましらに心理的な痛みを与え、その痛みでもって成りすましらの間違った考え方を改めさせよう」としました。そして、心理的な痛みを与えるための手段が、無差別殺傷事件だったのです。
なぜ事件が必要になるかというと、掲示板上の成りすましたちに知らせるためでした。「掲示板上で宣言したうえで、その通りに大事件を起こし、それを報道で知った成りすましらに心理的な痛みを与える」のです。その「大事件」が秋葉原での無差別殺傷事件になった理由については、「一瞬で思い浮かんでしまいました。(中略)思い浮かんでしまったら、他の方法は考えませんでした」と語るなど、本人自身にも明確にはなってはいません。
なぜ無差別殺傷事件だったのか
それにしても、成りすましらに心理的な痛みを与える手段が、なぜ無差別殺傷事件だったのでしょうか。後に加藤自身が語っているように、その手段は「重要文化財の破壊」でも「人質をとって立てこもる」ことでも「自分が鉄塔によじ登る」ことでもよかったはずです。多くの人を傷つけ、殺害する必然性はあったのでしょうか。
そこには、加藤自身が気づいていない無意識の怒り、そしてその怒りから生まれる攻撃欲動が存在していたのだと考えられます。
怒りの表出と自我
ここで、無意識の怒り、そして無意識の攻撃欲動を自我との関係から考えてみましょう。
人は自我を通して現実の他者と関わり、そして現実の社会と関わっています。そのため、自らの感情の表出と他者の感情の理解、つまり相互の感情の交流も互いの自我を介して行っています。
たとえば、怒りの感情が湧き起こったとき、まず自我によってそれが怒りの感情だと認知されなければなりません。そして何に対する怒りなのかを理解し、さらに怒ることに正当性があるのかが自我によって是認される必要があります。そうなって初めて、人は怒りの感情を怒りの感情として表出できます。この過程を経ない怒りは、本人にとって理解のできない言動になるでしょう。
最後に、表出された怒りが他者の自我からも是認されると、その怒りの感情はようやく解消されるのです。
間接的な怒りの表現
さて、加藤の場合は、怒りの感情の表出はどうなっていたでしょうか。
彼が仕事をしていたり、人から何かを頼まれたりして何らかの役割があった場合は、その役割が一時的でも自我の代わりになっていました。また上述したように、掲示板上では「不細工キャラ」という自我の萌芽ができていました。
これらの「自我」によって、彼は曲がりなりにも怒りの一部を表出することが可能でした。だたしそれは、無断で仕事をやめて相手を困らせようとしたり、一緒にいてくれない友人に心理的な痛みを与える目的で自殺を企てるなど、行動を通して間接的に怒りを表現する方法でした。そのため、怒りの感情は相手には理解されず、怒りが充分に解消されることもありませんでした。怒りの表現が間接的になったのは、支えの乏しい「自我」だったために、怒ることに正当性があると是認できなかったからでしょう。
対象のない攻撃欲動
ところで、加藤には怒りの感情を表出できない関係がありました。それが母親や父親との関係です。特に幼少時から受けた母親の虐待に対して、彼は青年期の一時期を除いて怒りを表出できていません。しかも、その時期においてすら、物に当たって暴れたり、部屋の壁に穴を空けたりするなど、怒りが直接母親に向いていません。一度だけ母親の頬を殴った際も、「悲しかったです。何でこうなっちゃったんだろうという気持ちでした。涙が流れました」と語るなど、本人自身に怒りの感情が認識されていませんでした。
それは加藤の精神内界で、基本的に「自分(の存在)が無い」ことと「家族(の存在)が無い」ことに起因しています。自分、つまり自我がない状態であれば、怒りの感情を認知することができません。また、家族、つまり怒りの対象がない状態であれば、その怒りをどこに向ければいいのかも分かりません。
こうして彼の怒りは認知されることもなく、向けられる対象も失い、無意識の中で彷徨い続けました。この怒りは、彼の攻撃欲動を刺激し続けたでしょう。そして、怒りの感情が正常に解消されなかった彼の無意識には、やはり対象が失われたままの攻撃欲動が渦巻いていたと考えられます。
無差別に向かった怒り
この攻撃欲動は、向かう先を常に探し求めていました。その矛先は、自分自身に向けられることもありました。その場合に起こったのが、加藤が何度か試みようとした自殺企図です。攻撃欲動が自分自身に向かうことによって、人は自ら命を絶とうとします。様々な偶然も重なって、結局彼は自殺に至ることはありませんでした。そのために、彼の攻撃欲動はなおも鬱積し続けていました。
加藤が、成りすましらに心理的な痛みを与える目的で事件を起こそうと考えたとき、彼の鬱積した攻撃欲動の矛先が事件に向けられました。起こされる事件は、「重要文化財の破壊」や「人質をとって立てこもる」ことや、ましてや「自分が鉄塔によじ登る」ことでは不充分でした。なぜなら、これらの方法では、彼が長年にわたって他者から受け続けた心身への攻撃と、それによって被った痛みを代償できないからです。向かう先のなかった攻撃欲動は、無差別殺傷事件を起こしているまさにそのときに、初めて解放されたのです。
日本社会に横たわる攻撃欲動
以上のように考えてみると、この事件は決して特別なものではないことが分かります。日々の臨床から垣間見えてくるのは、日本社会から適切な母性や父性が確実に失われつつあることです。そして、人々の無意識の中には、対象を失った攻撃欲動がそこかしこで渦巻いているように見えます。こうした状況の中で起こされたこの事件は、日本社会に横たわる問題の氷山の一角に過ぎないのかも知れません。
そして、新幹線の中で起こされた今回の無差別殺傷事件もまた、対象を失った攻撃欲動が無差別に表出されたことの現われであったと考えられるのです。(了)
文献
1)加藤智大:解.批評社,東京,2012 .