日本の古墳はなぜ巨大化したのか

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 弥生時代の後期には、各地に大きな墳丘をもつ墓が現れ始めました。さらに3世紀後半になると、前方後円墳を中心としたより規模の大きな古墳が、西日本の各地に出現するようになりました。各地の有力な首長たちがこうした大規模な古墳を営んだ3世紀後半から7世紀までが、考古学では古墳時代と呼ばれています。

 なぜこの時代の日本には、巨大な古墳が現れたのでしょうか。

 

巨大な古墳群たち

 古墳時代における古墳の特徴は、その夥しい数と、競うように巨大化したその大きさです。北海道、東北北部と西南諸島を除く日本列島各地に古墳はみられますが、その数は実に161,560基(平成13年3月末文化庁調べ)にものぼります。古墳には様々な形があり、数が最も多いのは円墳ですが、大規模な古墳はいずれも前方後円墳です。
 出現期の前方後円墳として最大の規模をもつのが奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳で、墳丘長はすでに280mもあります。大規模な古墳は大和地方(奈良県)だけでなく、岡山市の浦間茶臼山(うらまだちゃうすやま)古墳(墳丘長138m)など吉備地方(岡山県広島県東部)や、福岡県苅田(かんだ)町の石塚山(いしづかやま)古墳(墳丘長120m)など豊前(ぶぜん)(福岡県東部)にもみられます。
 前期(3世紀後半~4世紀後半)で最大の古墳は、奈良県天理市の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(現、景行天皇陵、墳丘長310m)であり、瀬戸内でも100mを超える古墳が現れます。加えて、それまで前方後円墳が築かれなかった山陰、丹後、北陸、東日本にも墳丘長が100mを優に超える古墳が出現するようになります。

 中期(4世紀末~5世紀後半)で最大のものは大阪府堺市の大仙陵(だいせんりょう)古墳(現、仁徳天皇陵、墳丘長486m)であり、これが日本列島で最大の古墳です。ただし中期には他の地方でも巨大古墳が造られており、岡山県岡山市の造山(つくりやま)古墳(墳丘長360m)、同総社市の作山(つくりやま)古墳(墳丘長286m)や、他にも宮崎県南部、丹後地方、さらに群馬県にも大規模な前方後円墳が現れています。

 

権力の象徴

 古墳造りに費やす労力は、当時の工法としては大変なものでした。たとえば、大仙陵古墳の造築には、最盛時に1日当たり2000人が動員されたとして、延べ約680万人の人員と、約16年の歳月を要したと計算されています。これ程の人員と時間と財を投じて、古墳を造る意義は何だったのでしょうか。そして、古墳が巨大化した理由は何だったのでしょうか。
 一般的には、古墳は各地の首長たちが、自らの権威を誇示するために築かれたと考えられています。力や権威を主張する対象としては、近隣の勢力だけでなく、列島内の他の地域や、さらには朝鮮半島や大陸さえも視野に入っていたでしょう。皇帝や王族を墳墓に葬る習慣が東アジアにはありましたし、遺骸に添えた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の図案にみられる神仙思想など、古墳には中国の宗教的観念の影響が色濃く認められるからです。
 ただし、日本の古墳には、中国の皇帝陵やエジプトのピラミッドとは異なる点があります。それは、古墳が近畿地方だけでなく、九州から東北南部まで津々浦々に存在することです。しかも墳丘の長さが200mを超える大古墳が、各地に分布しています。この事実は、当時の日本が、中国やエジプトのような中央集権的な体制にはなかったことを示しています。大和に強大な力を持つ王が存在したとしても、各地にも有力な首長たちが林立していました。一人の王が全権を握るという形態をとらず、地方の権力者の連合体の上に大王が支えられる体制が、古墳時代の特徴だったと言えるでしょう。

 

前方後円墳体制

 考古学者の都出比呂志(つでひろし)は、前方後円墳の出現意義を、各地の首長同士を序列づけ、その政治的身分を古墳の形式と規模によって表現したことに求めています。そして、このような前方後円墳に象徴される大和を中心とした政治的秩序を、「前方後円墳体制」と呼んでいます(『前方後円墳と社会』1)49-88、353-357頁)。
 では、各地の首長たちは、なぜ競うように巨大な古墳を築いたのでしょうか。古墳を大きく造ることが首長の力や権威を誇示するとしても、あれ程巨大な墳墓を造営する必要はあったのでしょうか。

 同時代に古墳が大型化した高句麗では、最大の墳墓でも一辺が85mであり、日本の古墳群よりもかなり小さいと言えます。しかし、その後の歴史からも明らかなように、高句麗の国力は当時の日本よりもはるかに強大でした。このことは、朝鮮半島では古墳の大きさが必ずしも力や権威の象徴だとは見なされなかったことを示しています。つまり、古墳の巨大化には、極めて日本的な理由が存在しているのです。

 

 以下はあくまで仮説ですが、その日本的な理由とは、古墳の大きさによって各首長たちの序列化を図ることではなかったのでしょうか。そして、序列化を図ることによって、各首長間での無用な戦闘を避けることにあったのではないでしょうか。
 3世紀後半に近畿で前方後円墳が現れると、その後に短い期間で九州から東北南部まで前方後円墳が現れるようになりました。これは、前方後円墳が日本各地の人々に、同じ意味を持つものとして共有されたことを現しています。その意味とは、前方後円墳の大きさは、首長の力や権威をそのまま表現するということです。つまり、前方後円墳の大きさによって、それぞれの首長の序列が決められるのです。
 考古学的には、各首長間に階級的、身分的ヒエラルキーが存在しており、首長が亡くなった際に、彼らの階級に見合った規模の前方後円墳が造営されたと考えられているようです(『日本の歴史02王権誕生』2)300-302頁)。

 しかし、この順序は逆だったのではないでしょうか。つまり、各首長間の階級的、身分的なヒエラルキーがまだ完全には決っていない状態で前方後円墳は造られ、その後に古墳の大きさによって最終的にヒエラルキーの位置づけが決定されたのです。そのように考えないと、古墳がなぜあれほど巨大化したのかという説明がつかないからです。より上位の階級を獲得するために規模を競ったからこそ、前方後円墳は、他の東アジアの地域では見られないほど巨大化したのではないでしょうか。

 

戦わずして階級を決める方法

 一方で、古墳の大きさによって序列が決められるのは、不合理だという意見もあるでしょう。実際に戦わなければ力の優劣は分からないはずであり、当時の人々が、戦わずして序列を決めるような方法に従うはずはないという意見です。

 しかし、彼らは元来、戦いに敗れて日本列島にたどり着いた人々の末裔です。彼らの無意識の中には、戦いに対する忌避感(正確に言えば、忌避感を呼び覚ます無意識の記憶痕跡)が脈々と受け継がれています。彼らは、本心ではできるだけ戦いを避けたがっていたのではないでしょうか。もしそうだとすれば、戦わずに階級を決める方法を受け入れるのは、それほど困難なことではありません。すでに日本では邪馬台国連合が誕生した際に、戦争では国々の乱れが平定されず、共同でシャーマン的女王である卑弥呼を立て、戦わずして戦乱を収めたという前例が存在しています。
 さらに言えば、この方法には大きな利点もあります。戦闘を行えば、敗れた側はもちろん、勝った側でさえ多大な被害を被ります。破壊や損失をもたらす戦争に比べれば、古墳の造営に心血を注ぐことは、後に遺産を残すという意味でも、文字通り建設的な方法だったと言えるでしょう。

 

国内の戦争を回避する

 もちろん、古墳時代にまったく戦闘が行われなかったわけではありません。4世紀の後半に倭は百済と軍事同盟を結び、5世紀初頭には傭兵として朝鮮半島に出兵までしています。そこには朝鮮半島の鉄や先進的文物を獲得するための、止むに止まれない事情があったのでしょう。ただ、それが可能だったのは、列島内に内戦がなく、後顧の憂いがない状況で朝鮮半島に目を向けることができたからです。「倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり」と『魏志倭人伝に記された弥生時代のような状況では、とても半島に出兵することなどできなかったはずです。
 日本列島に山城が出現しなかった理由も、同じように捉えられます。4世紀の後半から5世紀にかけて、朝鮮半島では要塞としての山城が発達しました。しかし、同時期の日本列島に、山城をはじめとした要塞の類は築かれませんでした。それは古墳時代の列島では、山城を必要とするような各首長間の緊張関係が存在せず、また実際に本格的な戦闘も行われなかったからでしょう。日本では山城という実際的な防衛施設は造られず、代わりに古墳を基準にした序列化によって、戦争が起こることを防いでいたのです。

 一方で、古墳時代倭国の人々が朝鮮半島に出兵したのには、経済的な理由だけでなく、心理的な理由もあったでしょう。彼らは、かつて大陸や朝鮮半島での戦いに敗れて日本列島に逃げ延びてきた人たちの末裔です。彼らの無意識には、戦いへの忌避感だけでなく、戦いに敗れたことに対する屈辱感(正確に言えば、屈辱感を蘇らせる無意識の記憶痕跡)が脈々と受け継がれていました。

 この屈辱感は、折に触れて頭をもたげます。そこで当時の人々は、武力に対して自信を持てるようになると、かつての屈辱感を晴らすために朝鮮半島に出兵したのです(この行動様式は、その後の歴史でも幾度となく繰り返されることになります)。

 

攻撃欲動の矛先

 最後に、攻撃欲動の問題にも触れておきましょう。文化が発達して欲動の断念がより推し進められると、攻撃欲動はいっそう増大して行きます。弥生時代には、人々の攻撃欲動は頻発する戦争に向けられていました。

 古墳時代になると、増大する攻撃欲動は実際の戦闘から矛先を変えられ、古墳を巨大化させる首長間の争いに向けられたのではないでしょうか。増大する攻撃欲動のエネルギーがあったからこそ、あれ程数多くの、しかも巨大な古墳の造築が可能だったのです。逆に言えば、人々の攻撃欲動を古墳の造築に振り向けられたために、古墳時代には戦争を減らすことができたのだと言えるでしょう(了)

 

 

文献)

1)都出比呂志:前方後円墳と社会.塙書房,東京,2005.

2)寺沢 薫:日本の歴史 第2巻 王権誕生.講談社,東京,2000.