韓国はなぜ繰り返し賠償を求めてくるのか(7)

f:id:akihiko-shibata:20181220003518j:plain

 前回のブログでは、日本の併合により朝鮮が外的自己と内的自己に分裂したことを指摘しました。さらに、日本文化に従属しながら朝鮮の近代化を目指す人々と、日本帝国に反旗を翻して自らの自尊心を守ろうとする人々に分裂したことを検討しました。併合の前後には、安重根(アン・ジュングン)や姜 宇奎(カン・ウギュ)などの要人暗殺(未遂)や、三・一運動などの内的自己の暴発がありましたが、その後は外的自己が社会の中心を占めて朝鮮の近代化が推し進められました。

 では日本が敗戦したことによって独立した韓国は、戦後の日本とどのような関係を持つことになったのでしょうか。

 

独立後の韓国に残った外的自己と内的自己

 独立後の韓国の政治には、右派と左派という大きな二つの流れがあります。右派は保守であり、親米であり、在韓米軍による防衛を重視します。左派は進歩であり、親北朝鮮であり、在韓米軍の撤退を目指します。韓国では、この右派と左派の対立軸をもとに政策論争が行われ、大統領選を始めとした選挙が行われています。

 加えて、韓国にはもう一つの対立軸が存在していると考えられます。それが、外的自己と内的自己という対立軸です。

 先のブログで指摘したように、日本に併合されることによって、朝鮮は外的自己と内的自己に分裂しました。分断された後に自由主義陣営に組み込まれ、日本の影響を受け続けた韓国では、外的自己と内的自己の分裂はそのまま残されました(一方、北朝鮮は日本からの影響を受けなくなったため、外的自己は内的自己に収れんされて行きました)。韓国の外的自己と内的自己の分裂は、一般的にはあまり意識されておらず、右派と左派の対立のように明確になっていません。そのためこの対立軸は、それほど注目されてきませんでした。

 しかし、韓国の外的自己と内的自己の分裂は、韓国の行動に重要な影響を与え続けています。以下で、その影響をみていくことにしましょう。

 

独裁政治を行った李承晩と朴 正煕

 第1~3代大統領の李承晩(イ・スンマン)と第5~9代大統領の朴 正煕(パク・チョンヒ)は共に独裁政治を行いましたが、日本には対照的な態度をとりました。

 李承晩は、反日的な政策をとり続けました。1952年には一方的に海洋主権宣言である、いわゆる「李承晩ライン」を設定しました。 これはサンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復され、日本の漁船操業範囲が国際的な基準に戻される直前に主張されたのであり、日本やアメリカの同意を得て策定されたものではありません。それにも拘らず、「李承晩ライン」を越えて操業した日本漁船は、公海領域であっても拿捕され、多くの死傷者を出す事態に発展しました。

 また、「李承晩ライン」には竹島(韓国名獨島)が韓国側に取り込まれており、これもサンフランシスコ条約の交渉文書において竹島を日本領と定められたことを一方的に無視したものでした。以後竹島は韓国の実効支配下に置かれることになり、李明博(イ・ミョンバク)大統領が退任前に上陸したり、最近では韓国の中学生から島根県の中学校の先生宛に「獨島は韓国領だという正しい歴史を教えてください」という作文が送られてくるなど、韓国ナショナリズムの象徴としての役割を果たすようになっています。

 これに対して、朴 正煕は親日的な政策をとりました。1965年の日韓基本条約によって、日本との国交を正常化させました。この条約と同時に締結された日韓請求権・経済協力協定で、韓国は日本から無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドルの資金供与及び貸付けを受けました。こうした資金を元手に各種インフラの開発や企業の強化を行い、インフラが整備された後は、日本の民間企業によって大規模な投資が行われました。

 こうして朴大統領は韓国経済発展の基礎を作ったのですが、マスコミからは「この条約は屈辱的な条約だ」と批判され、条約に反対する大学生は大規模なデモを行いました(当時大学生だった李明博はこのデモに参加したために、監獄に収監されています)。

 以上のように、李承晩は韓国の内的自己を、朴 正煕は韓国の外的自己を代表する大統領だったと言えるでしょう。

 

外的自己を代表する大統領は朴 正煕、全斗煥金大中

 朴 正煕(パク・チョンヒ)以降で、韓国の外的自己を代表する大統領は、軍部出身の全斗煥(チョン・ドゥファン)と左派の金大中(キム・デジュン)の二人です。

 全斗煥は、史上初めて「朝鮮半島が日本の領土となったことは、当時の大韓帝国にも責任があった」と表明した大統領です。そして、「日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」とも述べました。さらに、歴史教科書問題によって反日感情が渦巻いていた1982年には、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないための確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らしやすい国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と述べ、日本を克服を目指すという意味で「克日」を主張したのです。日本を一方的に責めることが多い韓国において、全斗煥は、自らの問題点にも目を向けようとした稀有な大統領だったと言えるでしょう。

 金大中親日的な発言は行わなかったものの、韓国政府として天皇を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言したり、日本の安保理常任理事国入りへの韓国国内の支持を求めるなど、間接的に日本政府の立場を後押ししています。 
 また、「良い日本文化は受け入れましょう」と表明し、それまで法律で禁止されていた日本文化を電撃的に開放する途を開きました。さらに日韓ワールドカップを共同開催するなど民間交流で日韓関係を好転させ、過去で最も良好といわれる外交関係を築きました。

 

外的自己の時代は経済が発展する

 外的自己を代表する3人の大統領は、内的自己を代表する反日ナショナリストたちからは激しい非難を受けましたが、日本とは良好な関係を築きました。そして、3人の大統領の時代には、経済面ではいずれも高い経済成長率を達成しました。朴 正煕(パク・チョンヒ)が「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を導いたのを始めとして、全斗煥(チョン・ドゥファン)と金大中(キム・デジュン)時代には韓国の貿易収支を黒字に転換させるなど、韓国の経済を発展させるという共通の功績を残しています。

 こうした政治姿勢と経済の関係は、偶然の一致だとは言えないでしょう。大統領が現実をきちんと認識して、実情に合致した政策をとったから経済が好転したのか、はたまた経済が順調だったから大統領が反日ナショナリズムを意識しなくても済んだのかは分かりませんが、おそらくはこの両者がうまく絡み合って経済の発展が達成されたのではないかと思われます。

 

内的自己を代表する大統領は李承晩、金泳三、李明博朴槿恵

 一方、韓国の内的自己を代表する大統領は、李承晩(イ・スンマン)の他には、右派の金泳三(キム・ヨンサム)、右派の李明博(イ・ミョンバク)、右派の朴槿恵(パク・クネ)です。

 金泳三は、併合時代に造られた朝鮮総督府の建物を撤去する計画を発表し、独立50周年記念の際に爆破、解体しました。1995年には当時の江藤総務長官の「植民地時代に日本は韓国にいいこともした」という発言に対して、「日本のポルジャンモリ(でたらめ根性)を直してやる」と当時の江沢民国家主席との会談で発言しています。さらに竹島問題では、1995年に政府として初めて船の接岸施設を建設しました。その際に韓国政府は、「日本をしつけ直す」という大々的なキャンペーンを行っています。

 李明博は、2008年の大統領就任当時には「日本に謝罪や賠償を求めない」と発言していましたが、2012年8月に竹島に上陸し、韓国領であると改めて発言しました。さらに、日王(天皇)に対して「『痛惜の念』などという良く分からない単語を持ってくるだけなら、来る必要はない。韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪(ひざまづ)いて謝るべきだ」と謝罪を要求する発言をしました。そのため日本との外交関係は悪化し、さらに当時日本で興っていた韓流ブームは急速に下火になりました。

 朴槿恵は、2013年の三・一独立運動記念式典で、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説しました。その後、韓国内では「千年恨」という言葉がブームとなり、対馬を日本から奪還する作戦を描いた小説『千年恨、対馬』がベストセラーになりました。また、アメリカや欧州に外遊するたびに、領土問題や慰安婦問題について日本を非難する発言を繰り返し、日本のマスコミから「告げ口外交」と揶揄されました。また、オランダハーグでの首脳会談では、安倍首相がほほ笑みながら韓国語で挨拶しましたが、朴大統領が硬い表情のまま目を合わせることもなく、カメラマンが握手を求めても応じない様子が報道されました。この映像は、朴政権のもとでの冷え込んだ日韓関係を象徴的に現していると言えるでしょう。

 

内的自己の時代は経済が悪化する

 先ほど、外的自己の時代は韓国の経済が発展していることを指摘しました。内的自己の時代は逆のことが起こっています。すなわち、内的自己を代表する大統領の時代には、韓国の経済は悪化しているのです。

 李承晩(イ・スンマン)の時代は、軍事力だけでなく経済力においても、韓国よりも北朝鮮の方が圧倒的に上回っていました。

 金泳三(キム・ヨンサム)の政権時には通貨危機が起き、韓国は破産寸前の状態に陥りました。日本から援助を断られた韓国は、最終的にはIMF国際通貨基金)に資金援助を受けて経済を立て直しました。しかし、その条件に外国資本投資の自由化などが含まれていたため、外国人投資家が韓国企業の株や社債を多く保有することとなり、韓国企業が上げた利益が海外に流出する事態になりました。

 李明博(イ・ミョンバク)は、サラリーマンから社長に上り詰め、その後に政界に転出した経歴を持ちます。この経歴を活かし、選挙の際のスローガンは「経済大統領」でした。ところが、李明博政権の経済成長率は3.2%で、経済状況が悪いと批判していた前政権の4.3%より悪化しました。さらに朴槿恵(パク・クネ)政権時代には、不動産価格が上昇した一方で、経済成長率は2.9%まで下がりました。そして、李明博朴槿恵も、こうした経済の悪化から国民の目を逸らすために、反日ナショナリズムの姿勢を鮮明にしたという側面があったと思われます。(続く)

 

 

参考文献

黄成京:韓国人が書いた 韓国の大統領はなぜ悲劇的な末路をたどるのか?.彩図社,東京,2018.