憲法九条の改正はなぜ必要なのか(4)

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 これまでのブログでは、憲法九条を実際に実行し、一切の軍備を保持せずに戦争を永久に放棄した場合の危険性について検討してきました。もし憲法九条を遵守すれば、チベット民族やウイグル民族が危険に晒されているように、日本民族が浄化され、消滅させられる可能性すら存在してます。このように憲法九条は、究極の理想ではあるものの、現実の世界情勢にはまったく即していないことが分かります。

 今回のブログでは、憲法九条改正に対する意見の対立を、内的自己と外的自己の対立という側面から検討してみたいと思います。

 

内的自己と外的自己

 憲法九条の改正に対する意見は、賛成、反対に分かれて真っ向から対立しています。この対立の本質を理解するために、内的自己と外的自己という観念を用いて検討を行いたいと思います。

 ここで内的自己と外的自己について、もう一度振り返っておきましょう。

 岸田秀は、『ものぐさ精神分析1)において、R・D・レイン精神分裂病統合失調症)論をもとに、日本近代の精神分析を行っています。それによれば、ペリー・ショックによって日本国民は、外的自己と内的自己に分裂することになったと指摘されています。
 そのうえで岸田は、外的自己と内的自己について次のように説明します。


 「他者との関係、外界への適応はもっぱら外的自己にまかされ、外的自己は、他者の意志に服従し、一応の適応の役目は果たすが、当人の内的な感情、欲求、判断と切り離され、ますます無意味な、生気のないものになってゆく。
 内的自己は、そのような外的自己を自分の仮の姿、偽りの自己と見なし、外的自己の行うことに感情的に関与しなくなり、あたかも他者の行動をながめるように距離をおいて冷静に突き放してそれを観察しようとする。
 内的自己のみが真の自己とされるが、内的自己は、外的現実および他者と切り離され、遊離しているため、ますます非現実的となり、純化され、美化され、妄想的となって行く」(『ものぐさ精神分析』12頁)

 

 戦後の日本の対立軸の一つとして、日米安保に対する態度が挙げられますが、この図式で言えば、日米安保に反対するのが内的自己で、日米安保に賛成するのが外的自己だと言えるでしょう。これは以前のブログ、「朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか」(2018年7~8月)で検討した通りです。

 では憲法に対する態度ではどうなるでしょうか。

 

内的自己としての護憲派

 憲法に対する態度で考えると、内的自己と外的自己の仕分けは日米安保ほど単純ではありません。護憲派にも内的自己と外的自己が、改憲派にも内的自己と外的自己がそれぞれ存在しているからです。ここではまず、内的自己としての護憲派の検討から始めてみましょう。

 内的自己としてのの護憲派の主張は、次のようであると思われます。

 

憲法九条は世界に誇るべき平和憲法の条文である。日本人はこのような平和憲法を持っていることを誇りに思うべきである。このような世界に先駆けた先進的な憲法の条文は、ノーベル平和賞に値するものである。

・戦後70年以上にわたって日本に戦争がなかったのは、平和憲法を持っていたおかげである。平和憲法のおかげで、戦争を起こすことも戦争に巻き込まれることもなかったのである。

日米安保は日本を戦争に巻きこむものであるから反対であり、米軍基地は日本から撤退させるべきである。

 

 内的自己としての護憲派は、平和を徹底的に追求し、平和を維持するために戦争をできなくする憲法を追求します。さらに戦争を起こす可能性のあるもの、戦力や軍隊や基地などすべてのものを排除しようとします。つまり、平和を追求することに最も重要な価値を置き、平和を実現するために、戦争を起こす可能性のあるものをすべて排除するという立場をとります。

 彼らの主張は、平和を追求する立場として純化され、美化されています。その一方で、未だに弱肉強食がまかり通る世界情勢のなかでは、現実から遊離して非現実的な主張になっていると思われます。さらに、戦争に関連するものをすべて排除すれば平和が実現されると考える思考は、現実の世界情勢をまったく考慮しないという意味で妄想的であるとさえ言えるでしょう。

 彼らの主張は非現実的である一方、目立ちやすいためにマスコミでも頻繁に取り上げられ、沖縄での米軍基地移転反対活動などで広く一般に知られています。

 

外的自己としての護憲派

 護憲派にも、外的自己は存在します。彼らは憲法九条を利用して戦争を回避しようとする立場であり、日米安保を利用して他国からの侵略を防ごうと考えます。自衛隊も、日本を護る自衛の組織として存在を認めます。要するに、平和を維持するという目的のために、あらゆる現実的な手段を駆使する立場をとります。

  1950年に勃発した朝鮮戦争で、マッカーサーが日本の自衛権を肯定し、独自の軍備を所持することを求めた際の吉田茂首相の対応や、ベトナム戦争(1964~1975年)で在日米軍基地の提供や、兵站補給基地として米軍を支える立場にとどめ、戦争に直接関与しなかった佐藤栄作首相の対応がこれに当たります。両首相はアメリカの要求に対して、アメリカが押し付けた憲法九条を盾に、アメリカの戦争に参加することを拒否したのでした。

 彼らの立場は現実の世界情勢に対応し、日本の平和を護るという意味では現実的ですが、戦力の不保持を謳った憲法九条と自衛隊の存在という矛盾、米軍基地が存在してアメリカからの占領から脱していないのに日本が独立していると主張する矛盾を解決できないままでいます。彼らの主張は現実的であり堅実であるため、現在の日本人の多くが支持していると考えられますが、根本的な矛盾を孕んでいるため高らかに声を上げることができず、目立たない存在になっていると言えるでしょう。

 

外的自己としての改憲派

 一方で、外的自己としての改憲派も存在します。自衛隊の存在を明記するために、憲法九条を改正しようとする安倍首相の立場はここに属すると思われます。安倍首相の主張は、憲法九条に自衛隊の存在を明記することにとどまっています。しかし、これはあくまで実現可能性を追求した政治的判断であり、本来は自衛のための戦争は可能であると憲法に明記することも必要だと思われます。国を護るための当然の権利であり、自衛のための戦争ができなければ、現実に国を護ることができないからです。

 日米安保に対しては、日本を外国からの侵略から守るためには必然的に賛成の立場をとることになります。米軍の基地は維持して、日米共同で日本の安全政策をとることが、国防に予算を割かないという意味でも最も現実的な策と言えるでしょう。

 その反面、日本の防衛はアメリカに大きく依存していること、未だに日本国土に米軍基地が存在しいていることなどは、日本が自立した国家ではないことを示しているとも言えます。それらは、日本人の尊厳を損ない、日本人の誇りを失わせる事態であると考えられます。

 

内的自己としての改憲派

 最後に、内的自己としての改憲派についても触れておきましょう。彼らは憲法九条を改正して、戦力を保持し、戦争を可能にすることを望みます。そして、日米安保に反対して、日本は日本の軍隊で護ることを主張することになります。つまり、明治憲法に回帰することを主張するのであり、日本人及び日本国家はあくまで日本が護ることを目指す立場になります。

 この立場は、日本は日本人の手で護ると主張する面では、日本人の自尊心を支えることができると思われますが、米軍の援助なくして日本を護るためには莫大な費用が必要になると思われ、実際に行うにはかなりの困難が生じるものと考えられます。

 

 以上のように、憲法九条に対する立場は錯綜しています。次回のブログでは、こうした立場を踏まえながら、憲法九条の改正がなぜ必要なのかを検討したいと思います。(続く) 

 

 

文献

1)岸田 秀:ものぐさ精神分析青土社,東京,1977.