日本はなぜアジアに侵攻したのか(3)

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 日本人は、戦いに敗れ続けたかつての屈辱感を解消するために、明治以降アジアに侵攻を続けました。満州国の建国は、この屈辱感に刺激された社会の空気によって、人々から圧倒的に支持されました。

 この空気は、さらに日本を国際社会から孤立させることに繋がって行きます。今回のブログでは、この経緯をみていくことにしましょう。

 

日本に配慮したリットン調査団

 満州国建国を望む空気は、さらに日本を国際連盟脱退にまで導いて行きます。
 一般的には、国際連盟から派遣されたリットン調査団満州国の建国を認めなかったため、これを不服とした日本が国際連盟を脱退したと捉えられています。しかし、この事情は、もう少し複雑だったようです。
 リットン調査団が提示した報告書は、実は日本に有利な内容でした。

 

 「一見すると、『満州国』を承認せずその宋主権を中国に返還させるとした提言は、日本に厳しい対応にも映った。だが、現地経営を『国際管理』とし、そこに日本人顧問の起用も盛り込むなど、日本が実質を握ることを容認したその中身は、多分に日本に配慮されたものだった。つまり名は中国に、実は日本に。日本はこれ以上、中国で手を広げない。それで事変は幕引きとするというのが、リットン調査団が導き出した妥協点であった」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 上』1)22-23頁)

 

 国際連盟は、日本がこれ以上中国に進出することがなければ、満州の管理は事実上日本に任せるという妥協案を示したのです。

 

世論が許さなかった妥協案

 日本全権の松岡洋右(ようすけ)は、この妥協案に応じる方が得策ではないかと政府に具申しました。ところが、政府の方針は一貫しませんでした。国内世論が、安易な妥協を許さない空気を作り上げていたからです。この空気の形成には、またもや新聞が一役買っていました。

 

 「各紙の紙面には、リットン報告書は断じて受け入れられないと、全国百三十二の新聞社が世界に向けて発信した共同宣言が掲載された。
満州国の厳然たる存立を危うくするが如き解決案は、たとひ如何なる背景に於いて提起さるるを問はず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いてここに明記を声明するものである〉」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』2)20頁)

 

 新聞各社は一斉に、満州国の存立を堅持すべきだという、名も実も取る強硬論を主張しました。満州国の誕生に沸く国民世論は、この論調を歓迎しました。この世論の高まりを政府は無視できなくなっていました。さらに折り悪く日本軍が、熱河(ねっか)省にも軍事行動を拡大しました。妥協案を踏みにじられた形になった国際連盟は、満州における自治政府の樹立と日本軍の撤退を勧告する構えをみせました。

 

苦し紛れの策だった国際連盟脱退

 この勧告自体には強制力はありませんでしたが、日本が軍事行動を続けた場合には、経済制裁が科される可能性がありました。この可能性に、日本政府は慌てふためきました。そこで突如現れてきたとんでもない奇策が、国際連盟の脱退でした。脱退する国に経済制裁がかけられることはない、という理屈によって立てられた策です。つまり、国際連盟の脱退は、日本政府の確固たる外交政策は示された策ではなく、経済制裁を避けるためにひねり出された苦肉の策に過ぎなかったのです。
 この方針は全権松岡に伝えられました。連盟総会で提出され、圧倒的多数で採決された勧告に対して、松岡は「日本は断じてこの勧告の受諾を拒否する」と宣言してただちに退場しました。その後日本は、国際連盟脱退を通告しました。

 

喝采で迎えられた松岡

 松岡自身は、連盟を脱退せずに各国との妥協をはかりたいと考えていました。したがって交渉に失敗し、国際連盟を脱退した結末に対して、「とんでもない間違いをした」、「これでは日本に帰れない」と悩んでいました。ところが、驚くべきことが起こったのです。

 

 「ほとんどすべてのメディアは、堂々と退場した松岡に喝采を送り、世界を相手に物申した希代の英雄だと祭り上げた。四月十八日に帰国した松岡を待っていたのは、国民の熱狂的な歓迎だった。横浜港の岸壁には、日の丸を掲げて万歳を叫ぶ大群衆が溢れていた。駅ではもみくちゃにされ、皇居へ続く沿道には小旗を持った国民が幾重にも並んでいた」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』21頁)

 

 国民は、希代の英雄として松岡を迎えました。松岡は、「私をこんなに歓迎するとは、みんなの頭はどうかしていやしないか」と語ったといいます。

 

どうかしていた日本人

 確かに、このときの日本人はどうかしていました。世界から孤立し、そして世界と対立して日本が生きて行けるわけがありません。そんな単純な理屈も、当時の日本人には分からなくなっていました。それはどうしてでしょうか。
 当時の日本社会には、大陸に進出して行く陸軍の行動を絶対的に正しいと信じ、満州国の存続が日本にとって何よりも大切であると信じる空気が充ち満ちていました。そのような危険な空気が生まれた背景には、日本人の中に大きな屈辱感が燻っていたからだと考えられます。
 大陸に進出して行く過程で、日本は度重なる屈辱感を味わいました。日清戦争に勝利したにも拘わらず、三国干渉によって遼東半島を無理矢理返還させられました。日露戦争で勝利を得たにも拘わらず、ポーツマス条約によって日本軍は満州から撤退しなければなりませんでした。関東軍の奮闘によって満州に国家を創ったにも拘わらず、今度は国際連盟によって日本軍の撤退が勧告されました。

 日本が韓国や満州に進出しようと奮闘するたびに、欧米諸国などによって邪魔をされます。日本はむしろ被害者であり、外国によって常に虐げられていると当時の日本人は感じていました。

 もちろん、これは日本側からみた一方的な論理です。植民地化された韓国や事実上日本が支配した満州の人々からみれば、日本人こそ侵略者であり、加害者であると映ったでしょう。

 

屈辱感を晴らす戦い

 しかし、日本人が邪魔をされ、虐げられていると感じることには理由がありました。それは、日本人がそもそも戦いに敗れ、逃げ延びてきた人々の末裔だからです。

 弥生文化を形成した人々は、東北アジアで寒冷地適応した新モンゴロイドの系統であると考えられています。つまり、彼らにとっては満州は「故郷」の一つであり、その地から戦いに敗れて朝鮮半島に逃げ延び、さらにそこでの戦いにも敗れて日本列島にたどり着いた人々が日本人の一部を形成しています。戦いに敗れ続けた記憶は、彼らの無意識に記憶痕跡として伝承され続けました。

 この記憶痕跡が呼び覚まされると、日本人は虐げられてきた過去の記憶とともに、その屈辱感を蘇らせます。日清戦争からの一連の出来事は、戦いに敗れ続けた記憶痕跡を蘇らせ、人々の屈辱感を焚きつけたのです。
 こうした状況において、関東軍満州国を建国することで、遠い過去からの日本民族の屈辱感を晴らしてくれました。松岡洋右は、満州から日本軍を撤退させようとする各国の代表に向って大見得を切り、日本人の屈辱感を解消させてくれました。だからこそ彼らは、政治的には日本の国益に反する行為をしたにも拘わらず、国民から喝采を受け、英雄として祭り上げられたのです。(続く)

 

 

 

文献

1)NHK取材班編著:NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 上.NHK出版,東京,2011.
2)NHK取材班編著:NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下.NHK出版,東京,2011.