日本はなぜアジアに侵攻したのか(4)

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 国際連盟を脱退した日本は、ついに中国と戦争を始めることになります。この戦争も日本の国益を優先して行ったのではなく、日本人の屈辱感を晴らす目的で行われた側面が大きいと考えれらます。

 今回のブログでは、日中戦争が行われた背景を、心理的な側面から検討してみましょう。

 

建国当時の屈辱感

 満州国の建国で気をよくした日本人は、新たな報復行動に出ることになりました。それは倭の国の存続を脅かして人々に不安と恐怖を与え、その後も日本人に屈辱感を与え続けた、中国(日本の建国当時は唐)に対する報復です。
 ことの発端は7世紀に始まります。当時の日本には、危機的な状況が存在していました。大陸に唐という強大な国家が出現し、九州と目と鼻の先にある朝鮮半島にまで影響力を及ぼすようになっていました。ヤマト政権は百済の復興を援助するために大軍を送りましたが、白村江の戦い(663年)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫しました。

 危機感を強めたヤマト政権は、諸豪族との連携を強めて国防に専念する一方で、唐の制度を模倣して律令制度を構築しました。そしてヤマト政権の大王(おおきみ)は、新羅の国王よりも優位で、中国の皇帝と対置する名称として「天皇」号を名乗り、それまでの「やまと」や「倭」に替えて「日本」という国号を定めました。これらの事実が唐の皇帝に認知されたことによって、日本はようやく国家としての独立を果たすことができたのです。
 つまり、このときの唐は、戦いに敗れて流れ着いた人々がようやく創り上げた「安住の地」である倭の国を、滅ぼしかねない存在でした。唐との戦いに敗れた屈辱感、そして安住の地を唐に征服されるのではないかという不安感・危機感は、日本人の無意識の中に強く刻み込まれることになったと考えられます。

 

劣等生だった日本

 日本はその後も、中華思想を背景に持つ冊封(さくほう)体制に組み入れられたり、体制から距離をとったりしながら独立を保ってきました。これは日本が、中国を中心とする体制の辺縁に位置し、中国からは「東夷(とうい)」(東の野蛮人)として蔑視される立場にあったことを示しています。また、何でも日本流に作り替えてしまう日本は、中華文化から外れているという意味では「劣等生」だったと言えるでしょう(なんでも日本流に作り替えてしまうことが、日本の創造性であるとも言えるのですが)。

 これに対して、朝鮮はこの体制における「優等生」であり(朱子学のように、「師」である中国を越えて発展したものまであります)、辺縁に位置する日本に中国の文化を伝える立場にありました。したがって、長らく「劣等生」の立場にいた日本に併合され、植民地にされたことは、韓国の人々にとっては屈辱以外の何ものでもなかったでしょう。
 それはさておき、中国文化を受け続ける立場の日本は、中国はもちろん韓国にも劣等感を抱き、この立場に屈辱感を抱き続けてきたのです。

 

中国への侵攻

 さて、満州国建国後の時代に話しを戻しましょう。

 その後も陸軍は、さらに華北への進出をうかがっていました。1937年7月に北京近郊の盧溝橋(ろこうきょう)で起こった日本軍と中国軍の局地的衝突(盧溝橋事件)が発端となり、両国の全面戦争である日中戦争が勃発しました。

 日中戦争では、海軍の航空部隊が首都南京を攻撃するなど、海軍も戦争に加わりました。軍首脳は当初、短期間で中国を制圧できると考えていましたが、中国軍の激しい抵抗にあって苦戦を強いられました。そこで大部隊を増援し、同年12月にようやく南京を占領しました。
 日中戦争は、それまでのように軍部が独走して起こした戦争ではありません。盧溝橋事件の段階では、日本軍と中国との間に現地協定が成立し、むしろ事件は収束されつつありました。これに対して、近衛内閣が「重大決意」を内外に声明し、日本軍を華北に派遣することを決定したために交渉が決裂してしまいました。

 日本軍の総攻撃が始まってからも、近衛文麿首相は新しいメディアであるラジオを通して、戦意高揚のための演説を国民に向けて発信しました。さらにラジオを通じて首都南京の陥落が伝わると、国民の熱狂は頂点に達しました。デパートでは南京陥落セールが行われ、東京では戦勝祝賀の提灯行列に40万もの人々が参加したといいます。

 

中国への屈辱感と劣等感

 日中戦争は、精神的な側面からみれば、長年にわたる中国への屈辱感と劣等感を晴らすための戦いでした。

 そのため、戦勝のニュースは人々の屈辱感と劣等感を解消させ、国民全体を高揚させました。まだ戦争も終結していない段階で、南京陥落セールが行われたり、戦争祝賀と銘打った提灯行列に40万人も参加したという様子から、当時の人々が冷静さを忘れ、いかに舞い上がっていたかを窺い知ることができるでしょう。
 南京占領の際に、日本軍が多数の中国人非戦闘員や捕虜を殺害したとされる南京事件が起こりました。この事件では、殺害人数が数千人という説から30万人という説(中国政府の公式見解)までがあるようです。

 日本側からすると、広島の原爆投下での死者が14万人(1945年12月まで)であるのに、そもそも通常の武器だけでどうやって30万もの人々を殺害できるのかという物理的な問題を挙げたくなるでしょう。ここではその数はおくとして、もし規律正しかった日本軍が多数の中国人非戦闘員や捕虜を殺害した事実があったとすれば、この行為には、長年にわたる中国への屈辱感と劣等感が少なからぬ影響を与えたのではないかと考えられます。

 

中国のショック

 一方、中国側の30万人という説は、中国特有の誇大な表現もあるでしょう。しかし、そこからは長年にわたって東夷として蔑視してきた日本に、首都を占領されたという精神的なショックの大きさを窺い知ることができます。日本軍による南京の占領は、30万人を殺害されたほどの大きなショックを彼らに与えたのだと言えるでしょう。
 いずれにしても、この南京事件は中国人の抗日意識を奮い立たせ、日本軍への屈強な抵抗を生み、日中戦争を泥沼化させることに繋がったのです。(了)