聖徳太子は実在したのか(3)

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 前回のブログでは、聖徳太子が怨霊になったという梅原猛の説に対して検討を加えました。大儀のない死で、しかも冤罪によって死に追いやられた人物、そして生前に他者に強い対人恐怖を抱かせるほどの力を持った人物が怨霊になるという観点から検討したところ、聖徳太子は怨霊にはなれないと考えられました。

 それでは、法隆寺に祀られている怨霊は、いったい誰なのでしょうか。

 

蘇我入鹿の怨霊

 戸矢学は、『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』1)の中で、法隆寺に鎮魂されているのは、蘇我入鹿の怨霊だと断定しています。

 当時権力の絶頂にあった蘇我入鹿は、乙巳の変において中大兄皇子中臣鎌足によって突然惨殺されます。これはまさに冤罪に他なりませんでした。はねられた入鹿の首が、御簾(ぎょれん)に食らいついた様を描いた絵巻が残されています。当時の人々にとっても、入鹿の殺害は、さぞ恨みの残るものと感じられたのでしょう。翌日、入鹿の父、蘇我蝦夷も自殺を遂げます。ここに蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と四代に渡って権力の中枢を支配した蘇我氏本宗家は滅亡したのです。
 蘇我氏に代わって権力の中枢に入り込んだのが、藤原氏でした。山背大兄皇子殺害には中臣(藤原)鎌足が間接的に関わっていたのにも拘わらず、蘇我入鹿の単独犯行のように藤原不比等が『日本書紀』を改ざんしました。そして、蘇我入鹿の殺害を中大兄皇子鎌足による正義の復讐劇に見せかけました。
 無実の罪で謀殺した蘇我入鹿、そして計略によって滅亡させた蘇我家に対して、藤原家の人々は、心のどこかで強い「うしろめたさ」を感じていたに違いありません。惨殺された蘇我入鹿の怨霊が、ことによると自殺した蘇我蝦夷の怨霊までもが藤原家に祟りを及ぼすかも知れません。藤原家の人々はそれを恐れ、聖徳太子が建立に関わった法隆寺を再興し、以後長年にわたって怨霊の鎮魂に努めたのです。

 

聖徳太子の役割

 法隆寺に祀られた怨霊が蘇我入鹿だったとしたら、聖徳太子はいかなる役割を担うことになるのでしょうか。
 法隆寺聖霊会(しょうりょうえ)に奉納される舞楽「蘇莫者(そまくしゃ)」では、蓑をまとった山神のような格好をした蘇莫者が、舞台の上で狂ったように舞を舞います。梅原は、この蘇莫者は「蘇我(そが)の莫(な)き者、蘇我一族の亡霊という意味ではないか」と指摘しています(『隠された十字架 法隆寺論』2)575頁)。梅原はこの亡霊を聖徳太子と捉えていますが、そのまま蘇我入鹿の亡霊と考えた方が自然ではないでしょうか。

 そして、その舞台には、もう一人「御笛役」または「太子」という舞人が上がって笛を吹きます。この御笛人または太子こそが聖徳太子であり、笛を吹くことによって荒ぶる怨霊をなだめ、鎮める役を果たしています。それはまさに、入鹿の怨霊から藤原家を守る守護神としての役割をそのまま現していると言えるでしょう。

 

 聖徳太子が守護神になった理由

 では、なぜこの役割に聖徳太子が選ばれたのでしょうか。
 それは、聖徳太子蘇我一族の人物だったからです。現在の常識からすれば、蘇我入鹿の怨霊を封じるために蘇我一族の人物を選ぶのは、適切な選択とは言えないでしょう。蘇我の怨霊に対処するためには、たとえば、蘇我氏によって滅ぼされた物部氏を選択するのが理にかなうように思えます。「敵の敵は味方」という論理です。

 しかし、それは古代の日本的な考え方ではありません。日本は、怨霊を手厚く祀れば守護の神に転化して却って幸いをもたらすという御霊信仰が生まれる国です(御霊信仰が記録に残されるのは平安時代以降ですが、出雲大社にその原型が見られるように、それ以前にも同様の考え方はあったと考えられます)。怨霊を手厚く祀れば罪を許してくれるだけでなく、災いから守ってくれるようにすらなります。このような考え方は、「戦いに敗れ続けてようやく安住の地にたどり着いた者同士の仲間意識」がなければ、到底思い浮かばない発想でしょう。
 ただ、さすがに蘇我入鹿の怨霊に対しては、手厚く祀っても守護霊に化すとは思えなかったのではないでしょうか。入鹿の殺害があまりに衝撃的であり、人々の記憶にも強く残っており、入鹿の恨みが果てしなく深い(藤原家の「うしろめたさ」が非常に強い)からです。

 そこで、聖徳太子が選ばれました。表向き藤原家は、山背大兄王を殺害した入鹿の仇を討ったことになっているため、聖徳太子を祀ることには何の問題もありませんでした。太子を聖人と見なし、太子を祀り、太子への信仰を深めることによって、藤原家は蘇我一族に対する罪滅ぼしをしようとしたのです。すなわち、彼らは「現実の世界は藤原家が治めるが、信仰の世界は蘇我一族出身の聖徳太子が治める」ことで、滅亡した蘇我の怨霊に許しを請おうとしたのではないでしょうか。

 

太子が選ばれたもう一つの理由

 もう一つの理由は、厩戸王がやはり優れた人物だったからでしょう。優れた人物とは、仏教的な素養を持ち合わせていただけでなく、「和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふる(逆らう)こと無きを宗(むね)と為(せ)よ」という、その後の時代を先取りした哲学を持った人物だったという意味です。
 先のブログで述べたように大山誠一は、実際に聖徳太子像を創作したのは、唐から帰国したばかりの僧道慈だと捉えています。そして、十七条憲法の第一条についても、仏教の修行集団において大切にされる和を、『論語』や『礼記』などの儒教的表現に合わせて叙述したのだろうと指摘しています(『〈聖徳太子〉の誕生』3)146-147頁)。
 しかし、第一条の文言は仏教や儒教から導かれたものではなく、やはり厩戸王の生前の考え方に沿って書かれたものではないでしょうか。なぜなら、「和を何よりも大切にし、敵対しないことを根本にしなさい」という発想は、戦争によって易姓革命を繰り返してきた大陸の文化には存在しなかったはずで、唐から帰国したばかりの道慈には思い及ばなかったと考えられるからです。
 飛鳥時代は、権力闘争が熾烈を極め、権力者の殺害が横行した時代でした。謀殺によって権力者が交代し、物部氏から蘇我氏へと支配者が移り、最終的に権力を握ったのが藤原氏でした。藤原不比等は、藤原家の栄華を長く続けるためにも、戦いによる血なまぐさい権力闘争に終止符を打ちたかったのではないでしょうか。そこで不比等は、生前に「和」の重要性を唱えていた厩戸王に目を付けたのです。
 当時には、厩戸王蘇我馬子とともに完成させた『国記』や『天皇記』がまだ残されていた可能性がありますし、厩戸王の伝承が直接伝えられていた可能性もあります。藤原不比等らは、こうした記録や伝承をもとに、聖人伝説を創り上げました。ちなみに、藤原不比等が歴史の中から厩戸王を見いだし、聖徳太子として信仰の対象にまで高めた経緯は、パウロが歴史の中からイエスを見いだし、キリストという救世主にまで高めた経緯に喩えられます。そうだとすれば、聖徳太子の存在を証明する客観的な史料がないから聖徳太子は架空の人物だと判断するのは、キリストが起こした奇蹟を証明する客観的な史料がないからキリストは架空の人物だと判断するのと同様の主張をすることになるでしょう。

 

聖徳太子信仰の成立

 さて、藤原不比等の計略に話しを戻しましょう。不比等の願いも虚しく、謀殺の歴史に終止符は打たれませんでした。

 不比等が亡くなると、子の武智麻呂(むちまろ)ら藤原四兄弟が、政敵であった長屋王を謀略によって自刃に追い込みました。その後に天候不良、大地震の発生、疫病の流行などが続き、藤原四兄弟も次々と病で没しました。これらは当時、長屋王の祟りとして恐れられたでしょう。長屋王は高貴な出自を誇る当代きっての権力者であり、しかも自刃に追い込まれたのは紛れもなく冤罪だったからです。

 長屋王の母である御名部(みなべ)皇女は、天智天皇蘇我倉山田石川麻呂の娘を両親に持ちます。つまり、長屋王の母方は蘇我家に繋がっていることから、長屋王の怨霊の背後に、蘇我入鹿の怨霊を見た者もいたに違いありません。
 そこで不比等の娘である光明皇后は、聖徳太子の氏寺である法隆寺で、聖徳太子の「尊霊」に加護を求めました。その際に造られたのが、東院伽藍の夢殿です。その結果、長屋王(と蘇我家)の祟りは静まり、天変地異は収束して、藤原家は以後も繁栄を続けることになりました。当時の人々にとっては、これはまさに聖徳太子のご加護以外の何ものでもないと信じられたでしょう。この事件を背景として、藤原家およびに貴族の間には、聖徳太子信仰が広まったのです。

 

聖徳太子信仰の拡大

 藤原家や貴族の間に広まった聖徳太子信仰は、さらに一般庶民へと拡大しました。その経緯には、聖徳太子の玄孫と称した天台宗の開祖最澄、そして天台系の流れをくむ親鸞、一遍、日蓮といった鎌倉仏教の宗祖たちが、聖徳太子信仰を広めたことが大きく影響しています。

 しかし、重要なのは、なぜ宗祖たちが聖徳太子信仰を受け入れ、さらに一般庶民も同様に聖徳太子を信仰したのかということにあります。それは、聖徳太子が定義した和の規範が、日本人の無意識に伝承されてきた記憶に合致し、日本文化を規定して社会の方向を定める役割を果たしたからです。この点が欠けていれば、誰がどのように旗振りをしたとしても、聖徳太子信仰が社会の中で広まることはなかったでしょう。(了)

 

 

文献)

1)戸矢 学:怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺.河出書房新社,東京,2010.

2)梅原 猛:隠された十字架 法隆寺論.新潮文庫,東京,1981.

3)大山誠一:歴史文化ライブラリー65 〈聖徳太子〉の誕生.吉川弘文館,東京,1999.