聖徳太子は実在したのか(2)

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 前回のブログでは、聖徳太子は実在しなかったという史料による指摘に対して、宗教的な側面から反論を行いました。今回のブログでは、さらに聖徳太子怨霊説も加えて検討を進めたいと思います。

 

聖徳太子怨霊説

 一般的に信仰には、尊崇と畏怖の両面が表裏一体になって存在しています。したがって、聖徳太子信仰を考えるにあたっては、聖徳太子に対する畏怖の側面も検討する必要があります。

 そこで登場するのが、聖徳太子の怨霊説です。

 これを最初に唱えたのは、哲学者の梅原猛です。梅原は『隠された十字架 法隆寺論』1)の中で、法隆寺聖徳太子の鎮魂のために建てられた寺であるという説を展開しています。
 梅原はまず、日本において古来から神として祀られるのは、菅原道真崇徳上皇後醍醐天皇などいずれも不幸な死に方をし、恨みをのんで死んでいった人であると指摘します。聖徳太子自身は不幸な死に方をしたわけではありませんが、子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)(山背大兄王)をはじめ、彼の子孫はすべて絶滅しています。この恨みが、祟りとなって人々を襲うというのです。

 

 「太子は、罪なくしてその死後子孫を絶滅された政治的敗残者であった。そして、その恨みは深い。おそらく大化の改新以後、太子のたたりはいろいろな機会に現われたにちがいない。旱魃、大雨、地震、火災、病気、すべての災害において、ひとびとは太子のたたりを見たにちがいない。太子は、その度ごとに手厚く祭られたのではないかと思う。その太子にたいする最高の祭りが、法隆寺再建であったであろう」(『隠された十字架 法隆寺論』73-74頁)

 

 聖徳太子が怨霊になったという文献上の記録は存在していません。そこで梅原は、法隆寺の構造や法隆寺にまつわる史料を手がかりに、聖徳太子怨霊説を展開します。その詳細をここで述べる余裕はありませんが、梅原は最終的に次のような結論を導いています。

 

・罪なくして子孫を絶滅された聖徳太子は怨霊となり、大化の改新(乙巳(いっし)の変)後さまざまな祟りをもたらした。
蘇我入鹿の殺害だけでなく山背大兄皇子一族の滅亡にも関わっていた藤原家は、太子の怨霊を畏れて法隆寺の西院伽藍を再建して、手厚く聖徳太子を祀った。
・それにも拘わらず藤原四兄弟が次々と亡くなったため、藤原不比等の娘である光明皇后は、僧の行信に説得されて法隆寺の東院を建立し、太子の怨霊を鎮めた。

 

 このようにして梅原は、「法隆寺は、藤原氏聖徳太子の怨霊を鎮魂するために再建した」とする説を世に問うたのです。梅原の説はその奇抜さとも相まって、一世を風靡しました。

 

御霊信仰とは

 しかし、法隆寺が鎮魂する怨霊が聖徳太子かどうかについては、疑問の余地が残ります。なぜなら、聖徳太子自身が「不幸な死に方をし、恨みをのんで死んでいった」わけではないからです。
 戸矢学は、『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』2)の中で、御霊信仰について以下のように指摘します。

 

 「なによりもまず認識しておかなければならないのは、死者が怨霊と化す所以は当人の思いとはほとんど関係ないということだろう。当人の死後、取り巻く人々がその死をどうとらえたかが決め手なのだ。極論すれば、死者当人の意向は無関係である。その人を死にまで追いつめた人たちの『うしろめたさ』が御霊信仰の源である」(『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』29頁)

 

 怨霊は死者の思いとは無関係であり、その人を死にまで追いつめた人たちの「うしろめたさ」によって生じるという観点は、古代史の怨霊を検討するうえで重要な視点になります。
 さらに、この「うしろめたさ」が生まれるためには、死者は冤罪でなければならないと戸矢は指摘します。

 

 「怨霊と化す者は『冤罪』でなければならないのだ。そして冤罪に陥れた者が『祟られる』ことになる。陥れた者のうしろめたさが『負の原動力』となるからだ」(『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』39頁)

 

 もし実際に罪を犯した者がその罪によって殺害されても、それは罰としての死になります。罪の程度にもよるでしょうが、死に追いやった者にはうしろめたさが残らず、したがって殺害された者は怨霊にはなりません。

 逆に大儀のある死は、英霊となります。この場合は、残された者には大儀のために死なせてしまったという「うしろめたさ」が残ります。このうしろめたさは、「正の原動力」となって英霊の誕生に寄与するでしょう。
 以上のように考えると、大儀のない死で、しかも冤罪によって死に追いやられた者だけが怨霊になるのです。

 さらに、精神分析学的に言えば、怨霊とは対人恐怖の死者への投影です。周囲の者がその人に対して生前に抱いていた恐怖感が、死んだ後に投影されて怨霊が生まれます。つまり、怨霊に対する恐怖感の源泉は、故人に対する生前の恐怖感に他なりません。この対人恐怖がうしろめたさという「負の原動力」によって増強され、人を祟って殺害したり、自然を動かして災害を引き起こすほどの力を有するようになる(と信じられる)のです。

 そのため死者が怨霊になるには、他者に強い対人恐怖を抱かせるほどの権力(または何らかの能力)を持った人物でなければならず、しかも生前のその人物の様を周囲の者が実際に知っていることが必要なのだと考えられます。

 

日本文化と怨霊

 ところで、怨霊を手厚く祀れば守護の神に転化して却って幸いをもたらすという御霊信仰について、「このような心性は、韓国朝鮮にも中国にもあまり見られない。日本という風土が育んだ気質ではないだろうか」(同上29頁)と戸矢は指摘しています。

 怨霊が対人恐怖の死者への投影であれば、怨霊の存在は、対人恐怖を文化の根底に持つ日本社会に特有の現象であると捉えることができるでしょう。ちなみに、日本文化に対人恐怖が存在するのは、日本人が戦いに敗れ続けて日本列島に流れ着いた人々の集合体であることが重要な要因になっていると考えられます。
 驚くべきことに日本社会では、恐怖の対象である他者が共同体に受け入れられると、やがて助け合う身内へと変貌を遂げて行きます。この変貌には、和の文化が重要な役割を果たしていると考えられます。これと同様のことが怨霊信仰でも起こります。日本社会においては、怨霊も心を込めて祀れば、やがてわれわれを助けてくれる守護神へと転化して行くのです。

 

聖徳太子は怨霊になれない

 さて、話しを聖徳太子に戻しましょう。以上の検討をもとに、聖徳太子が本当に怨霊になったのかを考えてみたいと思います。
 まず、聖徳太子の死は、冤罪によって死に追いやられたものではありません。『日本書紀』には、太子が亡くなった際には諸王・諸臣以下一般民衆に至るまでが悲しみ、「これからどなたを恃みに生きたらよいのか」と悲嘆にくれる人々の様子が描かれています。

 この記述には少なからぬ脚色があるでしょうが、それにしても聖徳太子の死に対して、うしろめたさを感じる者の存在はどこにも描かれていません。聖徳太子が冤罪で惨殺されたことを裏づける史料が見つかっていない現段階では、その死の直後には聖徳太子は怨霊になっていないと考えられます。
 それでは、山背大兄王一族が滅亡させられた際はどうだったのでしょうか。

 戸矢は前掲書の中で、山背大兄王は冤罪ではなく、皇位強奪という謀反の疑いがあると指摘しています。ここではその検討は行いませんが、たとえ山背大兄王の死がまったくの冤罪だったとしても、一族を滅ぼした人々は聖徳太子に対してうしろめたさを感じたでしょうか。
 この検討を行う際に重要なのは、聖徳太子信仰を受け継いでいる現在のわれわれの視線ではなく、太子一族を滅ぼした者の当時の視線に立つことです。なぜなら、怨霊は彼らがその時代に作り出すものだからです。

 この視線に立てば、聖徳太子は事件の20年以上も前に亡くなっている被害者の父親に過ぎません。過去に聖徳太子が権勢を振るっていたとしても、当時の人々からは、すでにその記憶が薄れかけていた可能性すらあります。聖徳太子信仰が興るのは後の時代のことであり、当時の人々にとっては、厩戸王は過去に存在した皇族の一人に過ぎないからです。

 

子孫の絶滅に対しては

 一方、「罪なくして子孫を絶滅させられた」ことに対しては、人々はどう感じたでしょうか。

 この事件は、山背大兄王蘇我入鹿らに襲撃されて敗走し、後に一家で自殺を図ったものです。その際に山背大兄王は、「私が兵を起こして入鹿を伐てば、勝つことは間違いないだろう。しかし、自分のために人民を死傷させたくないから、この身を入鹿に差しだそう」と語ったと『日本書紀』には記されています。

 『日本書紀』では、蘇我入鹿の殺害を正当化するために、入鹿が死に追いやった山背大兄王を美化する必要があったのではないでしょうか。この発言は、そのために残されたものだご考えられます。ちなみに、「人民を死傷させたくないから」という理由で戦わない権力者が、それまでもそれ以降も存在したためしはないでしょう。
 結局のところ、山背大兄王の一族は、追いつめられて自ら死を選ぶしかなかったのだと考えられます。しかも、山背大兄王には自らが兵を起こして戦う力はなく、協力して入鹿らを伐ってくれる味方すらいなかった可能性があります。こうした状況では、聖徳太子の一族を滅ぼした者が、聖徳太子に対してうしろめたさを感じることはなかったでしょう。

 もし、うしろめたさや恐怖を感じることがあるとするなら、自らの手で直接死に追いやった山背大兄王自身に対してですが、山背大兄王は他者に強い対人恐怖を抱かせるほどの権力や能力を持った人物とは考えられず、やはり人々から怨霊とは見なされなかったでしょう。

 では、法隆寺で鎮魂されている怨霊の正体は、いったい誰なのでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)梅原 猛:隠された十字架 法隆寺論.新潮文庫,東京,1981.
2)戸矢 学:怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺.河出書房新社,東京,2010.