前回までのブログでは、縄文時代から弥生時代を経て飛鳥時代に和の文化が形成されてきた過程を概観してきました。今回からのブログでは、和の文化と対をなす天皇という存在について検討を始めたいと思います。
皇族の系譜は神武天皇に始まりますが、この名称は後に付与されたものです。なぜなら天皇という称号は最初からあったわけではなく、聖徳太子が隋に送った国書の中で、初めて現された称号だからです。
中華帝国は柵封体制によって、周囲の国々を臣下に据えていました。柵封体制に組み込まれた国の王は、中華帝国の皇帝の臣下として位置づけられます。つまり、王は皇帝の臣下の称号だったのです。
これに対して、聖徳太子は第3回の遣隋使国書の中で、
「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」
と記しました。
天皇とは、道教の最高神を現わす称号です。ここでは天皇は、皇帝と同列に位置づけられています。日本に王ではなく天皇が君臨することは、日本が中華帝国の柵封体制には属さないこと、つまり日本は独立した国家であることを表明したことを意味します。
こうして聖徳太子は、十七条憲法で和の文化の始まりを告げた一方で、天皇という称号を打ち立てるという、まさに日本の原型を創り上げる偉業を成し遂げました。
のちに親鸞は、聖徳太子を「和国の教主聖徳皇」と呼んでいます。今で言えばこれは、日本文化の根底を形づくる「日本教」の教主という位置づけになるでしょうか。聖徳太子が、和の文化の創始者であるとともに、天皇という称号をもって柵封体制から日本を独立させた功労者であったことを考えれば、この位置づけはまさに正鵠を射たものであると言えるでしょう。
天皇という称号が打ち立てられて以降、天皇は特異な地位を持ち続けました。それは時の権力者たちが、天皇の外戚になろうとしたことに現れています。
例えば蘇我氏は、娘たちを欽明天皇の妃とすることによって、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇をはじめとする多くの皇子、皇女の外戚になって、権力をより強固なものとしました。
藤原不比等も、娘二人を文武天皇と聖武天皇に嫁がせ、天皇との密接な結びつきを築きました。平安時代にも、藤原冬嗣が娘を仁明天皇の妃とし、冬嗣の子である良房は娘を文徳天皇の妃とし、藤原家による摂政、関白政治の基礎を作りました。
貴族だけではありません。武家も貴族にならって、天皇の外戚になろうとしました。保元・平治の乱によって権力を得た平清盛は、娘を高倉天皇の中宮に入れ、外戚となって権勢を振るいました。
皇室を滅ぼそうとしなかった
しかし、よくよく考えてみれば、権力者たちが天皇の外戚になろうとしたのは不思議なことではないでしょうか。日本以外の国であれば、わざわざ娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権力を握るというような手間暇のかかることはしないでしょう。勝ち残った権力者は天皇や皇族を滅ぼし、自らの王朝を打ち立てようとするでしょう。その結果として、日本に蘇我王朝、藤原王朝、平王朝が誕生しても何の不思議もなかったのです。
なぜ日本には、皇室を滅ぼそうとする勢力が現れなかったのでしょうか。幕府政治の時代になると、この疑問はさらに深まります。
皇室に弓を引いた北条氏
鎌倉幕府の執権となった北条氏は、政治の実権を取り戻そうとした朝廷と対立しました。そして、後鳥羽上皇が北条氏討伐の院宣を諸国の武士に発すると、北条義時、泰時親子は、大軍を京都に押し進めました。世にいう承久の乱です。
圧倒的な戦力を有する幕府軍は、1か月足らずの間に朝廷軍を壊滅させて京都を占領しました。北条義時は後鳥羽上皇を隠岐島に流し、上皇の嫡孫である仲恭天皇を退け、さらに上皇の兄の子である後堀河天皇を即位させました。
皇室に弓を引いたことだけでも前代未聞の出来事でしたが、北条氏はさらに上皇を処罰し、島流しにまでしました。この戦いによって、朝廷の威信は著しく傷つくことになりました。
権威の源として存続した皇室
それでも特筆すべきは、北条氏が新たな天皇を擁立して、その後も皇室を存続させたことです。ここでも北条氏が、自らが天皇にとって代わろうとすることなく、北条朝を打ち立てることはありませんでした。
鎌倉幕府以降も、幕府と朝廷の関係は継続されました。室町幕府では足利家が、江戸幕府では徳川家が権力を握りましたが、皇室は存在し続けました。幕府の最高権力者である征夷大将軍は、天皇の権威によって、朝廷から任命されました。幕府の時代にあっても、天皇陛下のお住まいである京都御所は、権威の源として、人々から崇拝を集めていました。
このように、時の権力者は天皇の権威を利用しましたが、天皇にとって代わろうとする者は現れませんでした。天皇とその時代の支配者は権威と権力を分け持っていたのであり、日本社会ではこれが絶対的な支配者を創り出さないための安全弁として機能しました。
もちろん、例外は存在します。 足利義満と織田信長です。
室町幕府を樹立した足利尊氏の孫である義満は、戦乱を終息させ、政権を安定させました。諸国の武士を指揮下に従え、繁栄していた京都の支配権を朝廷から奪い、明との貿易でも莫大な利益を得ました。
義満は、北朝と南朝に分裂していた朝廷の和平にも動きました。その結果、交互に皇位につくことを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が成りました。しかし、この約束は実現されず、そればかりか義満は、南朝の皇族を次々に出家させて子孫を絶ちました。南朝の人々は、義満を深く恨んだといいます。
権力の絶頂にあった義満は、ついに次男の義嗣(よしつぐ)を天皇にする計略をめぐらせました。義満は、自分の妻を天皇の准母(天皇の生母ではない女性が母に擬されること)にし、義嗣の元服を、親王が皇太子になる式と同じ形式で行いました。こうして天皇が亡くなれば、義嗣が次期天皇になり、自らは上皇になる準備を整えていたのです。
絶対的な支配者になろうとした織田信長
一方、織田信長は、義満とは別の支配者を目指しました。
信長は各地の大名を戦いで撃ち破っただけでなく、当時に大きな力を持っていた寺社勢力をも討ち滅ぼして戦国乱世をを治めました。そして、楽市楽座によって経済を振興させるなど、まったく新しい形態の国家を創ろうとしました。
信長が天皇制を廃止しようとしたかどうかは定かではありません。しかし、ルイス・フロイスが『日本史』の中で、「彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、(中略)自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神秘的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼賛されることを希望した」(『完訳フロイス日本史2』1)134頁)と述べているように、権力と権威を兼ね備えた絶対的な支配者になろうとしていたことは確かでしょう。
このことを示すかのように、信長は朝廷が定めた秩序に従おうとはしませんでした。そして、朝廷から与えられた官位を有難がらなかったばかりか、ほとんどそれを無視していたのです。
このように信長は、朝廷と征夷大将軍という権威と権力を分散させた統治システムにとらわれることなく、これまでの日本に存在しなかった絶対的な支配者になろうとしていたのだと考えられます。
皇室を排斥することはできない
しかし、日本社会では、時の権力者が天皇になったり、天皇を超える存在になったりすることはできませんでした。
足利義満は、義嗣が元服したわずか11日後に病死します。健康であった義満が急死したため、毒殺されたのではないかと考える研究者もいるようです。朝廷は義満の死後に、「鹿苑院(ろくおんいん)太上天皇」という上皇しか使用できない戒名を贈りましたが、子の義持はそれを辞退しました。義持は父の大それた行為の結末におびえ、さらなる禍を畏れたのかも知れません。
一方、周知のように織田信長は、明智光秀の謀反にあって本能寺で殺害されます。まじめで律儀であったとされる光秀が暗殺を行うのは不自然だとして、本能寺の変には黒幕が存在していたのではないかという説があります。その黒幕として、将軍足利義昭や、朝廷や、イエズス会などが挙げられているようです。
いずれにしても日本社会では、足利義満や織田信長のような権力者が、天皇を超えて存立することはできません。社会を変革するために誕生した絶対的な支配者は、その役目が終わると排除されるような社会的な力学が働くからです。そして、権威の象徴としての天皇は、日本社会に存在し続けて来たのです。
では、このような力学が働くのはなぜなのでしょうか。次回以降のブログで検討していきたいと思います。(続く)
文献
1)ルイス・フロイス(松田毅一,川崎桃太 訳):完訳フロイス日本史3 織田信長篇Ⅲ 安土城と本能寺の変.中央公論社,東京,2000.