人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(7)

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 前回までのブログで、ヨーロッパにおいて、近代化によって母性文化が消退した経過をみてきました。その結果として、母親が育児に関心を示さなくなり、多くの子どもが里子に出され、満足な育児を受けられずに放置されていたことを指摘しました。そして、母性文化を復活させるために、新たな母性神話の構築が試みられた経過を概観してきました。
 しかし、あまりに厳格な母性神話は、生身の女性には負担になり、一般の女性にはなかなか浸透してゆきませんでした。そこで、一般女性の身の丈に合った母性のモデルが、20世紀のヨーロッパでは求められていました。
 そうした母性モデルを提唱した一人に、イギリスの精神分析家であるウィニコットがいます。今回のブログでは、ウィニコットの理論のうち、特に育児に関する部分を中心に紹介したいと思います。

母子関係の重要性を訴えたウィニコット
 ドナルド・ウッズ・ウィニコット(1896 - 1971)は、イギリスの小児科医、精神科医で、精神分析家でもあります。対象関係論の領域で広く知られていますが、母子関係の重要性を主張したことでも有名です。
 これまでに述べてきたように、ヨーロッパでは近代化以降に母性文化が失われかけていました。この現象に目を向け、母性の重要性にいち早く気づいたのがウィニコットでした。そのため彼の理論には、常に母子関係に重点が置かれています。
 ウィニコットがいかに母子関係を重視したかは、彼が精神分析の訓練を受けたメラニー・クラインの理論と比べるとより鮮明になります。

死の本能で子どもを理解しようとしたクライン
 メラニー・クラインは、乳幼児の精神世界の様子を次のように描いています。

 「私が主張するのは、生体の内部において死の本能の活動から生じる不安が、絶滅(死)の恐怖として感じられ、迫害の恐怖という形をとるということである。破壊衝動への恐怖は、直ちに対象に帰せられるようにみえるが、しかしむしろ、支配的で圧倒的な力を持つ対象に対する恐怖として体験される。一次的な不安(primary anxiety)を生み出す他の重要な源泉は、出産外傷(分離不安)と、身体的欲求の挫折である。しかもこれらの体験もまた最初から、対象によってひき起こされるものとして感じられる。これらの対象はたとえ外的なものとして感じられるにしても、取り入れを通して、内的な迫害者(internal persecutors)になり、内部で破壊衝動への恐怖を強化する」(「妄想的・分裂的世界」1)7-8頁)

 絶滅(死)の恐怖、迫害の恐怖、破壊衝動、一次的な不安、内的な迫害者などといった、実におどろおどろしい言葉が並んでいます。乳幼児の精神世界は、本当にこのような恐怖と不安に満ちた世界なのでしょうか。
 クラインはその源泉を、死の本能に求めています。彼女はフロイトの本能二元論をそのまま受け入れて、生物学的な生の本能と死の本能の葛藤とその変遷が、人格発達に基本的な影響を与えるとする立場を採っていました。死の本能の存在が、乳幼児のこうした恐怖や不安を生んでいるとクラインは考えたのです。

母性の喪失によってもたらされた恐怖
 しかし、死の本能という概念を用いなくても、乳児に生じる一次的な不安、そして絶滅(死)と迫害の恐怖は説明することが可能です。
 それは、これまでに指摘した母性の喪失によってもたらされたであろう、実生活における死への恐怖感覚です。クライン自身が指摘する出産外傷と身体的欲求の挫折という要因は、母性の喪失によって増強されます。母親からの庇護を得られずに放置され、身体的欲求が満たされない状況が続けば、無力な乳児は現実の死に直面します。この状況において乳児の精神内界には、自らが消滅する不安と死への恐怖が引き起こされるのです。
 クラインは、このような精神内界の有り様を、乳児一般に認められるものと捉えていました。しかし、豊かな母性に支えられた乳児の精神内界が、死と迫害の恐怖によって占められているとは考えにくいのではないでしょうか。それはむしろ、母性の喪失が生んだ、特殊な状況がもたらす精神状態と考えた方が自然だと思われます。
 つまり、クラインが描き出した乳幼児の精神世界の特徴は、当時のヨーロッパにおいて特異的に生じた、母親が育児に関心を示さない状況で認められるものだったと言えるでしょう。

ほど良い母親
 これに対してウィニコットは、乳幼児の不安や恐怖の源泉を、本能のような身体の側ではなく、母子間の対人関係に求めました。そして、不充分な母子関係が、乳幼児、そしてそれ以降の成長段階における不安や恐怖感を生み、さらに精神疾患を生む要因になっていると考えました。
 それではウィニコットは、乳幼児の不安や恐怖感をなくすために、どのような母子関係が必要だと述べているのでしょうか。彼が育児で最も重要だとしたのが、good enough mother(ほど良い母親)です。
 ほど良い母親とは、育児を完璧にこなす立派な母親ではありません。普通に育児に没頭できるような、ときには失敗もしてしまうようなごく普通の母親です。ごく普通の母親が、ほどほどに良い子育てをすることが必要であるとウィニコットは考えたのです。

育児放棄と完璧な母親
 当時のヨーロッパ社会では、母親が育児に関心を示さずに子どもが放置されていた時代の反動から、立派で完璧な母性が求められていました。それは男性の哲学者やモラリスト、医師たちによって考え出され、半ば強制的に女性に押しつけられた母親像でした。そして、この時代に創られた母性神話によって、限定を知らない普遍的な愛、無差別にすべてを包み込む共感性と包容力や、平等、宥和、平和の精神などが母性の特徴とされていました。こうした母性を求められ、そして育児に向かわなければならなかった女性には、大きなストレスがかかったと思われます。
 生身の女性がこのような母性やそれに基づいた育児を求められても、現実にはうまく子育てができなかったに違いありません。子どもは母親の思うように反応してくれませんし、母親も子どもに尽くすだけでなく、自分自身のことを優先したり、自分の生活を守らなければならないときもあるからです。

産後うつと虐待
 そのため、完璧な育児ができないというストレスは、母親に欲求不満と攻撃性を生み出します。この攻撃性は、完璧に子育てができない自分自身や、ストレスを生む対象、つまり子どもに向かいます。攻撃性が自分自身に向かうと、母親は自分を責め続けます。自分で自分を傷つけ、自分はダメな母親だと思いつめ、やがて母親はうつ状態に陥ることになります。逆に攻撃性が子どもに向かった場合は、母親は子どもを過剰に叱責し、過度なしつけやしつけと称した暴力を生みます。これが乳幼児への虐待に繋がります。
 ウィニコットはこうした危険を回避するために、育児に無関心な母親でも、逆に完璧な母親でもない、育児に没頭できるような普通の母親、つまりほど良い母親というモデルを提唱したのだと考えられます。

 次回のブログでは、ほど良い母親の持つ母性的機能について、もう少し具体的に述べてみたいと思います。(続く)


文献
1)メラニー・クライン(小此木啓吾岩崎徹也 責任編訳):メラニー・クライン著作集4 妄想的・分裂的世界.誠信書房,東京,1985.