日本はなぜ近代化を達成できたのか(1)

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 近代化を達成した欧米諸国が世界の植民地化を競っていたころ、日本は他国との繋がりを断ってまだ太平の眠りについていました。世界の喧噪から身を置き、250年も続いた平和な時代を満喫していました。しかし、欧米諸国の世界進出への波は、ついに遠く離れた極東の地にも押し寄せ始めました。そうした状況の中で、日本だけが欧米諸国との関係を拒否し続けることはできなくなりました。欧米諸国と日本には、軍事力や経済力において圧倒的な格差が存在していたからです。
 日本は太平の眠りから揺り起こされました。植民地にされたくなければ、それまでの文化をかなぐり捨てても、近代化への道を選ばねばなりませんでした。日本は脇目も振らずにひた走りました。そして、非白人国で初めて近代化に成功し、欧米諸国と軍事力において肩を並べるまでに成長しました。
 なぜ日本人は、いち早く近代化を達成することができたのでしょうか。

 

平和を維持した鎖国政策

 戦いに対する忌避感は、日本社会の様々な行動原理を形成すると共に、対外的な政策も決定してきました。それが端的に現れているのが、江戸時代の鎖国政策です。
 近年、江戸時代は必ずしも鎖国をしていたわけではない、とする見解が主流になってきているといいます。それは幕府がスペインやポルトガルとの関係は絶っていましたが、オランダだけでなく中国や朝鮮、そして琉球との交易は続けており、日本が東アジアの中で孤立していたわけではないと認識されてきたからです。
 ただ、日本が国を閉じていなかったにしろ、幕府が自主的に交易する相手を決め、望ましくない相手との関係を絶っていたという側面は存在するでしょう。こうした自主的な対外政策は、外国との無用な争いを避けるためには有効な手段だったでしょうし、ヨーロッパから遠く離れていた日本の位置や、四方を海に囲まれた日本列島の環境がそれを可能にしていました。江戸時代の日本は、鎖国政策のもと専ら国内に目を向け、平和で和やかな社会を維持することに専心していたのです。

 

ペリーの恫喝

 ところが、日本は太平の眠りから一気に覚醒させられました。1853年と翌54年の二度にわたって浦和に来航したペリーは、江戸幕府に開国を迫まります。黒船によって示された技術力と軍事力に、幕府はなす術もなく圧倒されました。なぜ圧倒されたかと言えば、黒船の登場によって、日本の安全が根底から覆されたからです。
 それまでの日本列島は、四方を海に囲まれた天然の要塞でした。日本がいわゆる鎖国政策を採れたのも、そうした地理的環境が有利に働いていたからです。しかし、自由に航路を決められる蒸気船の登場とそこに搭載された巨大な大砲によって、日本は四方の海のどこからでも攻撃を受け得る危険を有した国家になりました。つまり蒸気船の登場によって、日本は最も安全な国家から、最も危険に晒された国家へと180度変わりました。そのことをペリーによって思い知らされた幕府は、頑なに拒絶してきた開国要求を、一転して受け入れざるを得なくなりました(以上、『逆説の日本史17 江戸成熟編 アイヌ民族と幕府崩壊の謎』1)382-389頁)。
 こうしてペリーの恫喝外交に屈した幕府は、200年以上に渡って続けてきた鎖国を解き、アメリカとの間に屈辱的な不平等条約を結ぶことを余儀なくされました。この事件の衝撃は計り知れず、265年間続いた江戸幕府は倒れ、新たに明治政府が樹立されたのです。

 

一神教から生まれた中央集権制度

 新政府にとっての最重要課題は、日本を列強諸国に劣らない強国に生まれ変わらせることでした。富国強兵政策のもと、明治政府は産業の振興と軍事力の強化を目指しました。そのためには、日本を欧米諸国のような中央集権国家にする必要がありました。国家権力を一カ所に集中させて産業と軍事を強化しなければ、欧米諸国のような強国にはなり得ないからです。
 ところで、欧米諸国で中央集権制が確立された背景には、キリスト教という一神教が存在していました。唯一、全能、絶対の神という後ろ盾があって、初めて権力は一点に集中され、為政者は自在に国家を束ねることが可能になります。

 ところが、日本には同様の宗教や文化が存在しないことに、明治維新の指導者たちは気づかされました。何しろ日本には、古来より信仰されてきた八百万の神々に加えて、日本流に作り替えられた仏教や儒教までが混在していたのです。

 

機軸となるのは皇室のみ

 伊藤博文は、枢密院の第一回会議で次のように述べたといいます。

 

 「宗教なるものありて、之(国家)が機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我が国に在りては、宗教なるもの、その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。・・・我が国に在りて機軸となすべきは、独り皇室あるのみ」(『天皇制国家と宗教』2)155頁)

 

 欧米諸国において、国家の機軸をなし、国民の心を一つにまとめていたのはキリスト教でした。このような宗教が日本に存在していないことに気づいた明治政府の指導者たちは、日本に連綿と受け継がれてきた皇室を活用することに思い至りました。

 ところが、当時の皇室への崇拝は、キリスト教のような一神教とはまったく性質を異にするものでした。天皇神道の最高権威者として崇拝されましたが、キリスト教の神のような唯一、全能の存在ではなかったからです。
 また、歴史的には、鎌倉幕府によって武家政治が誕生してから、厳密に言えば承久の乱(1221年)で北条氏が後鳥羽上皇との戦いに勝利して以降、権力は武家政府が、権威は天皇が担うという統治の仕組みが日本では継承されてきました。実際の政治は幕府が執り行い、さらには江戸時代にみられるように、地方の政治は各藩において独自に行われていました。

 天皇は日本という国を一つにまとめるためには不可欠な存在でしたが、事実上は権力を失い、権威のみを有する象徴的な存在になっていたのです。

 

国家神道という宗教の創設

 このような権威と権力の分割や、実質的な地方分権制が存在していた明治以前の日本を、明治政府は欧米諸国に倣って近代国家に変革しなければなりませんでした。それは社会のあり方そのものを、まったく異なった制度に変質させるような大改革でした。この大改革を断行するためには、天皇が新たな役割を担う必要がありました。その役割とは、天皇が神格化され、「現人神」として生まれ変わることです。明治政府は、「現人神」を中心に据えた国家神道という新たな宗教を創造し、この宗教を機軸にして日本を中央集権国家へと生まれ変わらせたのです。
 しかしながら、それまで象徴的存在であった天皇の権威を、人を超えて神の領域にまで高めるのは容易なことではありません。近代において、国家的規模でこうした現象が起こった類例は、他には認められないでしょう。なぜ日本社会においては、この作業が大きな抵抗や混乱もなく、しかも明治維新という短い期間において達成されたのでしょうか。その理由を、宗教・文化的な側面から以下で検討してみましょう。

 

疑似古代国家だった明治

 末木文美士は『日本宗教史』3)の中で、7世紀末から8世紀はじめ頃にこの国で起こった出来事が、江戸末期から明治維新に影響を及ぼすことになったと指摘しています。

 

 「この頃、大陸文化の影響下に、一気に政治体制が整えられ、それに併せて、さまざまな文化の花が開くことになる。天武・持統・文武・元明・元正と続く頃で、天皇のもとに中央集権化がなしとげられ、律令体制が完成する。そのもとで、『古事記』『日本書紀』のような歴史書が著され、『万葉集』の大歌人柿本人麻呂などが現われる。大寺院が建立され、大陸から多数の仏典がもたらされて、仏教は最新の大陸伝来文化を誇ることになる。天皇号や日本という国名がはじめて使われるようになり、早くも大陸に対して独自の文化を主張するナショナリズムの動向がうかがわれるようになる」(『日本宗教史』15頁)

 

 そして、末木は次のように続けます。

 

 「この時代は、江戸時代の国学復古神道から明治維新へとつながる流れの中で理想視されることになる。明治維新政府は当初、神祇官太政官という二官を置いて、擬似古代国家として出発した。その制度が解体しても、『古事記』の神話は「日本神話」として教育の中で教え込まれ、『万葉集』は『古今集』や『新古今集』に代わって重視され続けた」(『日本宗教史』15頁)

 

 このように日本は、明治維新後に「擬似古代国家」として再出発しました。その実体は、日本国の創成期に出現したものと同様の、天皇を中心とする中央集権国家でした。明治新政府が、神祇官太政官という二官を設置して始められたという事実が、それを如実に物語っています。

 さらに、古代日本の成立を根底から支える神話であった『古事記』と『日本書紀』が明治維新によって蘇り、「天皇を中心とする近代国家」が成立するための正統神話となった点も見逃すことはできません。

 この神話では、第一代の天皇とされる神武天皇は、天上の神界である高天原を主催する天照大神の子孫として位置づけられました。そして神武天皇に始まる皇統は、万世一系で連綿として続き、第123代の明治天皇に及ぶとされたのです。(続く)

 

 

文献

1)井沢元彦:逆説の日本史17江戸成熟編 アイヌ民族と幕府崩壊の謎.小学館,東京,2011.
2)村上重良:天皇制国家と宗教.講談社,東京,2007.
3)末木文美士:日本宗教史.岩波書店,東京,2006.